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12/12 「賢王」1~7を再編集し1~6にまとめ直しました。最新話はこちらの後半に追加してあります。
金の髪が嫌いだった。誰よりも眩しく、誰よりも美しい自分の金の髪が、憎いくらいに嫌いだった。
鏡に映る青い目が嫌いだった。透き通ったガラス玉のような自分の目が、えぐり出したくなるくらいに嫌いだった。
そんな気持ちが胸の内からせりあがってきて、ジュリアーナは吐き気を堪えずに下を向いた。どろどろしたものが上がってくるのに、胃液すら吐き出せない。どうしようもない気持ち悪さを感じながら、諦めて辺りを見回す。
そこはジュリアーナの知らない場所だった。無数の絵画が飾られる、真っ黒な空間だ。静かな場所であるのに、頭の中に流れ込むように聞こえる呪詛じみた言葉は一体どこから発せられているのだろう。何を言っているのか聞き取れないほど小声で早口なそれを無視し、絵画を覗く。
絵には、とても美しい銀の髪に赤い目の女が描かれていた。こちらに微笑みかけている。
ゆっくりと絵が動き、その女は何か口を動かした。言葉は聞こえないのに、ジュリアーナの胸は締め付けられる。
隣の絵を見る。ぼやけてよくわからない絵だ。別の絵を見る。どこかの戦地の絵だった。今にも雨が降りそうな曇り空を見上げていた。やがて辺りを見回すように絵が動けば、生きている者は一人もその地にいなかった。
しばらくそうやって見て回っていると、頭の中で響く声が一際大きくなった。
ある絵に反応しているのだと気付き、その絵を見ると、思わずあっと声をあげてしまった。
その絵には、黒髪の女が描かれている。
一瞬、その女がリゼルヴィンに見えた。大人しい色合いの服を着た、髪の短い女。だが、よくよく見るまでもなく、リゼルヴィンとはないと思い改める。
女の目は、右が黒で、左が琥珀色だった。
よくリゼルヴィンに似ている女だが、そこだけは明らかに違った。顔つきも少し、リゼルヴィンより女性らしさが薄い。服装によっては男に見間違えてしまうかもしれない。
女はこちらを見つめている。どこかの荒野、先程の戦場によく似た場所だ。土埃が風で舞い上がる。瞬きも少なく、女はただ、こちらを見ている。
「――アルヴァレッド」
ジュリアーナは自分の口から出た名前に驚いた。知らない名前のはずだった。
それなのに、確かにジュリアーナは知っている。リゼルヴィンに似たこの女の名前は、アルヴァレッドであると。
思わずその絵に触れた。その瞬間、激しい頭痛がジュリアーナを襲った。
立っていられなくなってしゃがみ込む。声が大きくなり、頭痛も激しさを増す。頭が割れてしまいそうなその痛みには、覚えがあった。
どくどくと跳ねる心臓と、ひたすらに殴られ続けているような頭痛に、唇を噛んで耐えた。すると、徐々に痛みが治まっていき、声だけが残った。
欲しい、と声が聞こえる。
あの女が欲しい、と。
ゆっくりと立ち上がり、黒髪の女をもう一度見る。変わらずこちらを見る女は、何を思っているのか読めない表情をしていた。笑んでいるわけではなく、しかし無であるかと問われれば否としか答えられない。強い意志を感じさせる目が、己の澄んだ青い目より美しいと思えた。黒の目は闇より深く艶やかで、琥珀の目は本物のそれより鮮やかな光を放っている。これまで見た誰よりも、美しい女に見えた。
女は特別美しい顔をしているわけではない。整いはしているし、美しいと言えば美しいのだが、派手さも、可愛らしさもない。目立たない顔立ちだった。これまで己に媚を売って来た女どもの方が、美しい女はいた。
そこまで思って、ジュリアーナは我に返る。
これはジュリアーナの思いではない。ジュリアーナはそんな風には思っていない。けれど、ジュリアーナが思ったことだ。少しの混乱の後、理解する。
これは、シェルナンドの感情だ。ジュリアーナの中にいた、シェルナンドの記憶だ。
シェルナンドに魔力を分け与えられたとき、ジュリアーナの中にシェルナンドの記憶までもが流れ込んできた。眼球を交換し、半分繋がっているのと変わらない状態の今、あのときと同じようなことが起こっていたとして、何らおかしいことはない。
黒い髪の女は、微動だにせずこちらを見ている。何かを、目だけで懸命に訴えている。
「……違う、欲しくはない。私が欲しいのは、この女じゃない」
しっかりと声に出して、自分に言い聞かせながら無理やり女から目を離す。油断していると今にも呑み込まれてしまいそうだ。
頭を左右に振り、頬をパンッと軽く叩いてから、また歩く。出来るだけ見ていたかった。シェルナンドの記憶を知れば、もしかしたら、リゼルヴィンを楽にしてやる方法が見つかるかもしれない。
様々な絵があった。今と同じ場所とは思えないほど荒れた王都や、若い頃のフロランスのものもあった。
ニコラスの絵があった。声が、殺せと叫ぶ。
アンジェリカの絵があった。やはり、殺せと叫ぶ。
エグランティーヌの絵があった。声は憎しみの籠った色で、殺せと、ひたすらに叫び続ける。
そしてジュリアーナは、ジルヴェンヴォードであった頃の自分を見る。ぼろ布を纏って光のない目をした、ただ生きているだけのみすぼらしい少女。客観的に見るとここまで酷かったのかと、少し落ち込みそうになる。
その絵の前でも、声は殺せ殺せと叫んでいた。
再度、これまで声が殺せと叫んだ絵を思い出してみる。他に比べて大きく叫んでいたのは、フロランス、ニコラス、アンジェリカ、エグランティーヌ、ジュリアーナの五人だった。
他にも、ジュリアーナの母や、アンジェリカの母と思われる女にも声は叫んでいた。
これらの共通点と言えば、シェルナンドの身内であった、ということだけだ。ジュリアーナは思う。シェルナンドは、自分の身内を、嫌っていたのではないか。
現実に、シェルナンドはかつて多くの王族を処刑した。シェルナンドの先代国王を初めとする、彼にとっては実母実父、兄弟姉妹など血の繋がりのある者が中心であった。表向きは施政者としての責任を果たさなかったから、権力の乱用などが理由になってはいるが、裏がなかったとは言い切れない。
未だ存命中なのは、シェルナンドの先代国王が最も目を掛けていなかったとされる側妃と、シェルナンドの側妃でありアンジェリカの母であった女のみ。
シェルナンドの実母であった正妃は国王の処刑と同時期に自ら命を絶ち、シェルナンドの兄弟たちは王都追放の後に十数年前に流行り病で死んだ。ジュリアーナの母は表には病弱ゆえと離宮に隠れているとされていたが、本当のところはジュリアーナと共に牢に閉じ込められ、産みたくもない子供を生んで、最後は衰弱しきって死んだ。もしかしたら、あれは餓死だったのかもしれないと思うくらいには痩せていた。
子はといえば、ニコラスが処刑され死に、アンジェリカとジルヴェンヴォードは王位継承権を返上した。現在ジルヴェンヴォードと呼ばれている女に至っては偽物である。エグランティーヌが唯一なのだ。この国で、王族の血を真っ当に受け継いでいるのは。
ジュリアーナはただの依り代として生かされているだけで、きっと、使い道がなければあの牢からリゼルヴィンに救い出されることもなく、母のように死んでいた。
ふと、顔を上げる。見回せばいつの間にか、周りの絵がすべて、リゼルヴィンの絵になっていた。声は消えている。今までが嘘だったかのように何も言わなくなったそれを不思議に思いながら、絵を覗く。
様々な年齢、場面のリゼルヴィンが描かれていた。心なしか、他の絵と比べて鮮明である。
はじめの方の絵に描かれたリゼルヴィンは、笑み一つ見せなかった。けれど段々と、微妙な変化ではあったが、確かに表情を変えるようになっていく。ある絵の十代前半のリゼルヴィンは、長い前髪を切ってもらっていた。こちらを向き、鋏を持つ手がこちらから伸びている。きっとシェルナンドに切ってもらっていたのだろう。短くなったそれに、三年前まではよく見せていた、ジュリアーナが初めて他人に笑いかけてもらったときの、困ったような笑顔をした。
長い時を、まさに親子のような時を、シェルナンドとリゼルヴィンは共に過ごしたのだろう。実子よりリゼルヴィンの絵の方が遥かに多い。声が聞こえないのは、シェルナンドも、それなりに幸福だったのだろう。
少し、ほんの少しだけ、ジュリアーナはシェルナンドを許そうと思えた。リゼルヴィンを不幸にしたのはシェルナンドである。それは変わらないし、その認識を変えようとは思わない。だが、リゼルヴィンに幸福を与えていたのも、シェルナンドだった。それがわかった分、その分だけは許そうと思えた。
リゼルヴィンの隣に、見たことのない少女がいることもあった。お世辞にも仲良さげには見えなかったが、その少女とリゼルヴィンの間には何か信頼関係とも言えるものが見てとれた。次第に仲良く笑う姿も増え、持つ色彩こそ違うものの、姉妹と言われても納得出来そうな関係になっていく。
突き当りに辿り着き、これまでで最も大きな絵が最後に飾られていた。今までのものは大小様々な大きさではあったが、一般的な範囲内のものだった。しかし最後の絵は、いつかリゼルヴィンに連れられた教会の壁画ほどの大きさだった。
数歩下がって、その全体図を見る。
それは、最初に見た、銀の髪に赤い目の女の絵。声が叫ぶ。
殺せ。この女だけは生かしてやるな。絶対に殺せ。殺せ殺せ殺せ殺せ……
頭が内側から破裂しそうな叫び声に、ジュリアーナも声にならない苦しみの叫びをあげる。呼吸の方法すら忘れてしまいそうだ。頭が痛くてたまらない。
崩れ落ちて、床に倒れながら、涙でぼやけた視線の先の銀の女を見る。
その口元は、緩やかな弧を描いている。
そして、ゆっくりと動いて、初めて言葉を発した。
「――あなたを生んで、後悔しています」
あなたさえいなければ、
その先は聞こえなかった。頭の中でブツンと何かが切れる音がして、ジュリアーナは意識を手放す。
女の笑い声が、聞こえたような気がした。