6-4
きっかけは何だったのか、当時も、今になってもはっきりとはわかっていない。ニコラスが王になってすぐ、疫病と飢饉が同時に起こってしまったからだろうと言われている。その他、様々な要因が重なり、民の不満が爆発したのだと。
ある街で、民が王家の旗を燃やした。そこに滞在していた、任務に向かう最中だった新人の騎士三人が殺された。
それを皮切りに国内各地で民が立ち上がり、大きな反乱に発展した。民の要求を呑もうにも、その頃の宮廷内も切羽詰った状況にあり、その状況が気に入らなかったいくつかの貴族も、民の側についてしまった。事態は悪化するばかりで、四大貴族は最終手段を取ることにする。
リゼルヴィンを、最も激しい戦いが繰り広げられている最初の街に派遣。反乱軍を壊滅させ、魔法で文字通り『なかったこと』にする。
本来ならば、民が飢えに苦しんでいるのだから、要求を呑むべきなのだ。何もニコラスの退位を求めているわけではない。ただ民は、苦しい生活から救ってほしいだけだ。本気でニコラスを『黄金の獅子』ではないと思ってはいない。
ニコラスは運が悪かったのだ。ここから持ち直せるほどの政治手腕がなく、それを補えるほどの経験もまだない。国庫も疫病が爆発的に増えた頃には底を見せていた。薬もまだ開発されておらず、ほぼ死に至るその病の流行に加え、各地で原因不明の不作が同時に起こってしまった。これを運が悪いと言わずして、何と言うべきか。
どうしようもなかったのだ。四大貴族も、率先して自らの財を民に明け渡してきた。だが、主な貿易国のほとんどが疫病によって打撃を受けており、自国のことで手一杯な状態だ。無事だった国も、病が国内に入ることを恐れ、エンジットと貿易をしよう、支援物資を送ろうなどと思う余裕はなかった。打てる手はすべて打った。それでもどうにもならなかったのだから、仕方ない。
四大貴族は、国と民のために存在している。今回は、一部の民を切り捨て、その他の民と国を守ることにした。
リゼルヴィン家は『断罪』の家。内乱が起これば叛徒を斃し、反乱を制圧する。軍も手こずっているほど危険な場所だが、拒否権などない。拒否しようとも、思わない。
すぐさまリゼルヴィンはその街へ向かった。出発の日に、ニコラスに耳打ちされた言葉が、三年経った今でも忘れられない。柄にもなく、このことに関しては後悔しているのかもしれなかった。けれど『王家の奴隷』として、王の命令は守らねばならなかった。ニコラスとの契約が、偽のものであったとしても。
ニコラスはリゼルヴィンに、その街の軍の指揮をすべて任せた。アルベルトはあちこち走り回り、想定外の出来事にも対処出来るよう準備した。リナは『なかったこと』にするために国中の魔導師をかき集めた。国外に出ていたミハルは再度、どこか貿易をしてくれる国はないかいくつもの国と交渉した。
街は酷い有様だった。今は王都に避難した領主の屋敷は荒れに荒れ、そこを拠点にしている国軍もまた荒れていた。ここ数年、実戦の機会は少なかったとはいえ、日々訓練している兵士たちである。それが民に圧され始めている。彼らの悔しさは、リゼルヴィンには理解出来ないものだった。
一応は彼らもリゼルヴィンを受け入れた。『黒い鳥』とされ、ニコラスの許可により魔力も満ち足りた状態のリゼルヴィンは、味方であっても恐ろしい。遠巻きにされたが、リゼルヴィンの指示を受け入れている間は気にしないことにした。
民はどこに潜んでいるのか、地の利を最大限に活用し、またこちらが把握出来ていない地下施設もあるらしく、奇襲をまともに受けてしまうことも少なからずあった。一般の家であっても立派な地下室があるのは大陸でも珍しく、その技術は誇るべきものではあるが、このときばかりはエンジットのこの文化を恨めしく思ったものだ。
しかし、リゼルヴィンがひとたび探査の魔法を使えば、その魔法の前にどんな小細工も通用しない。
どこに隠れていても、リゼルヴィンはあっという間に見つけてしまう。奇襲は明らかに減り、民の気力もそがれていったかのように見えた。
このときリゼルヴィンは、何があっても民を殺さないよう、自ら戦いに出るときも細心の注意を払って攻撃していた。脚や腕を狙い、二度と戦えない傷を与えつつ、命だけは奪わない。ニコラスの耳打ちを思い出さないようにしながら、兵士たちの反感を買っていることに気付くことなく、それを続けていた。それが正しいと思っていた。何があっても民の命は極力奪ってはならない。罪のない人々を殺すなど、リゼルヴィンには考えられなかった。
およそ二か月にも及ぶ戦いだった。国内各地からその街に民が集まり、どれだけ踏みにじろうとも立ち上がる雑草のように、民はいつまでも何度でも国に立ち向かった。
奇襲ではなく正面から戦うようになって、リゼルヴィン率いる国軍はようやく優勢になった。これまでの悔しさをもって、残虐とも言える方法で民を殺しに殺した。
勢いづいた兵士たちは、リゼルヴィンの指揮を無視し始める。出来るだけ殺すなと言っても聞かない。夜な夜なリゼルヴィンは一人民らを訪ね、すぐに逃げるよう説得した。だが、当然ながら民たちがリゼルヴィンを信じるわけがない。丸腰でやって来たリゼルヴィンに石を投げ、その魔法を恐れながらも、決して命乞いはしない。
何故ここまで立ち上がれるのか。リゼルヴィンにはわからなかった。戦う力もほとんど残っていないのに、何故、なおも戦おうとするのか。もう充分ではないか。もう、その傷を癒してもいいではないか。
リゼルヴィンは何度も刺され、それでも民に手を上げたりはしなかった。少なくともリゼルヴィンという一人の人間として訪ねている間は、民を殺したくはなかった。
そんな夜を何度か繰り返した、ある雨の日。
「――『黒い鳥』が」
この日もリゼルヴィンは、民に武器を捨て、街を出るよう説得していた。
背後からかけられた声に、最悪の事態が起こったことを理解する。つけられていたことに、気が付かなかった。
拠点に残してきたはずの兵士たちが、武器をこちらに向けている。咄嗟に防御壁を創り上げ、民をかばうように立つ。
何度も通ってきたことで、民はリゼルヴィンを受け入れ、言う通りにしようとしていた頃だった。リゼルヴィンを信じると、民たちはこの日、そう答えようと話し合っていた。
民から見れば、これはリゼルヴィンの裏切りだった。兵士から見てもそうだ。
どちらからも殺意が向けられている。吐き気がするほどの恐怖を感じた。そして、その恐怖で魔法を上手く制御出来ず、緩んだ瞬間に兵士たちが切りこんできて、防御壁は崩れ消滅する。
「最初からこのつもりだったのか!」
「裏切り者!」
民も兵士もこのときばかりは同じ方向を向いていた。リゼルヴィンへの殺意がその場に満ち、必死になってリゼルヴィンは防御するも、動揺して上手く魔法が使えない。自分の愚かさが恥ずかしく、良かれと思った行動が裏切りに繋がってしまったことが信じられなかった。
初めから、ニコラスの言う通りにしておけば。
他の場所にいた民も騒ぎを聞き付け集まって来た。状況を理解出来ていないようだったが、リゼルヴィンが敵であることだけはわかっていた。殺意は膨らんでいく。
リゼルヴィンはまだ、人を殺す覚悟が出来ていなかった。どうにかしてこの場を鎮めたかったが、殺すわけにはいかない。こんなにも人が多いと、軽く攻撃しただけで死んでしまうかもしれない。
そのとき、リゼルヴィンの右肩を、誰かの剣が貫いた。民と兵士、どちらだったのか、今となってはもうわからない。
「――『悪魔の女』は、死ぬべきだ」
低い声が聞こえたと思った次の瞬間、もう一度、同じところに剣が打ち付けられる。痛みに力が抜け、リゼルヴィンは地に崩れ落ちた。
誰かの足がリゼルヴィンを蹴り、そのまま腹を踏んだ。右腕を力いっぱい引っ張られ、もぎ取られた。腕がリゼルヴィンから離れていくのが見えた。鮮やかな、赤いものが飛び散るのが見えた。リゼルヴィンを悪魔と呼んだ者の、冷たい目が見えた。
痛みこそ感じなかったが、その光景は衝撃的だった。誰かに持って行かれるのが見えた。腕を落とされるのは、良くはないがまだ許せる。だが、持ち去られてしまうことだけは、許してはならない。
「返してっ! 返してください!」
我を忘れて残った左腕を伸ばす。あちこちから剣や槍、あらゆる武器が向けられ、隙だらけのリゼルヴィンを貫く。追いかけようとも足が縺れ、体が地面に倒れる。容赦なく蹴られ、踏まれ、泥水が口や鼻に入り込んだ。
ここで、リゼルヴィンは一度死ぬ。
ぴくりとも動かなくなったリゼルヴィンに、誰もが喜びの声を上げた。民も兵士も一体となり、何よりもの悪を倒したのだ。いつの間にか、この場にいる誰もが、疫病も飢餓も、この戦いも、リゼルヴィンによって引き起こされたものだと思い込んでいた。そこは、異様な興奮に包まれていた。
誰も知らなかった。リゼルヴィンが、死なないということを。
ある程度の傷が塞がり、リゼルヴィンが息を吹き返したとき、その場にはもう誰もいなかった。雨も、止んでいる。
きっと気が済んで、どこかで皆、休んでいるのだろう。やけに冷静にそう思った。あの様子だと、リゼルヴィンが本当に死んでいたら、この不毛な戦いも終わるはずだったのに。死ななかったことを惜しく思いつつ、もがれ、なくなったままの右腕の再生を試みた。結果はわかっている。もがれた傷跡を塞ぐことは出来ても、右腕は、戻らない。
ぼやける視界が鮮明になったとき、あまりの光景に茫然とした。
初め、自分の下の血だまりは、当然自分のものだと思った。しかし明らかに量が多い。慌てて辺りを見回せば、人間の姿を保っていない肉塊があちこちに落ちている。折れた鼻が再生し、臭いを取り戻すと、そこに充満する鉄の臭いに吐き気がした。
「……どうして」
呟いた言葉に、返す者は誰もいない。
これは自分が殺したのだと悟る。こんなにも大勢を、こんなにも無残に殺すのは、魔法を使わねば叶わない。そして、この場にいた者で魔法を使えるのは、自分しかいない。
せめて誰か一人でも生きてはいないかと、あちこち走り回った。けれど、人はもちろん動物すらも殺されていた。
そこから先は、よく覚えていない。初めてリゼルヴィンは人を殺し、初めて生きていることを後悔した。
人目を避けながら、歩いて王都へ向かった。何日もかかって王城へ上がると、ニコラスは風呂にも入らず直にやって来たリゼルヴィンを見て、直視出来ずに目を逸らした。それもそうだろう。ぼろぼろになった服を引きずり、髪は誰のものともわからない血がこびりつき、あるはずの右腕がない。そんな悲惨な状態の女を見て、何か言葉を掛けられるのは相当な死地を歩いてきた者だけだ。
「……リゼルヴィン」
「申し訳ありません、ニコラス陛下。陛下の命の通り、民はすべて殺しましたが、陛下からお預かりした兵士たちも皆、殺してしまいました。申し訳ありません」
「リゼルヴィン、いいんだ、落ち着いてくれ」
「私は落ち着いています。陛下、どうかこのリゼルヴィンに極刑を。このような行いは許されるべきではありません」
「僕が命じた。君は何も悪くない」
ニコラスによれば、リゼルヴィンの行いにより、民は恐怖しなんとか反発は鎮まったとのことだ。あまりに強すぎる恐怖だったのだろう、しばらく民は何も出来ないはずだ、と。
「クヴェートに、予定通り民衆の記憶を弄らせることにしたよ。『リゼルヴィンが鎮めた』という事実だけを、覚えているように」
惨たらしい記憶を残して、民を不要な恐怖に沈めては、この先国が傾いていく。このとき取れる行動の中で、最も賢明なものをニコラスは選んだ。
私が死んでいれば、よかったのでしょうけれど。その言葉は飲み込んで、すべてニコラスに任せることにした。
「鋏を借りても、よろしいでしょうか」
「……理由によるかな」
「髪を、切りたいのです。血の匂いが、残っているので」
服は帰って着替えてしまえばいい。だが、髪はどうしてもアルベルトに見せたくなかった。『黒い鳥』の象徴たる黒髪に血がこびりついているなど、笑えない。
ニコラスは少し複雑そうな顔をしたが、鋏と袋を用意させ、リゼルヴィンに渡した。
躊躇いもなくざっくりと、長い黒髪を切り落とす。男のように耳が見えるほどまで切ろうとしたのは、流石にニコラスが止めた。
肩の少し上。腰を超えるほど長かった髪がなくなり、頭が軽くなる。後悔していても意味はないと思い直せた。
「もったいないな、あんなに綺麗だったのに」
「私の髪は、汚いものです。例え、血に塗れずとも」
こんなことを言うのはニコラスだけだ。少し笑ってしまいそうになったが、表情の乏しいリゼルヴィンの顔からそれを見つけるのは、きっと不可能だろうと隠さなかった。
アルベルトは街屋敷にいるという。リゼルヴィンが戻るまで様々な処理に追われていたが、流石に何日も寝ずに働かせていたため、帰らせたのだと。
王城からアルベルトの街屋敷までは歩いて向かった。遠く離れた街から歩いて王都までやってきたのだから、今更そのくらいの距離はどうということもない。
この姿を、アルベルトは受け入れてくれるだろうか。右腕がなく、髪の短い女を。
人を見た目で判断するような人間ではない。受け入れられずとも、きっと受け止めてはくれるだろう。そう信じた。
流石に、その中へ入る前は緊張した。先程まで殺した人間に対する申し訳なさでいっぱいだったのに、今は自分のことで緊張して、ほんの少し期待までしているなんて、自分は最低な人間だと思った。
期待は裏切られた。出迎えたのは、いるはずのない姉、レベッカだった。
「リゼルっ! ああ、よかったわ、生きてたのね!」
「お姉、さま……?」
「ああ、どうして! 腕が、髪が……。でも生きているだけで充分だわ。疲れているでしょう、すぐに休みなさい。湯浴みをしたらすぐよ」
「どうして……どうして、お姉さまが」
声が掠れているのがわかる。あのとき、民と兵士に殺意を向けられたときよりも、動揺していた。
姉はにっこりと、花が咲くように笑った。
「侯爵さまが、呼んでくださったのよ。彼はとっても素敵な人ね。再婚したいくらいだわ」
姉の笑顔はとても魅力的なものだった。誰もが好きになるような、そんな美しい笑顔だった。
リゼルヴィンは笑えなかった。それはリゼルヴィンにとって、聞き流せる言葉ではない。元婚約者を思い出す。あんなことが、もう一度起こってしまったら。
恐怖で体が震えた。結婚に対する憧れはなく、執着も、夫婦間の愛すらなかったけれど、アルベルトと共にいた日々が幸福だったことは確かだ。彼はきっとリゼルヴィンを愛していないが、リゼルヴィンはもう戻れない。奪われるのは、嫌だった。
顔がこわばったリゼルヴィンを、姉が小首を傾げて見つめている。リゼルヴィンと違って小柄な姉は、とても可愛らしい。
どうすればいいのだろう。姉ならば、リゼルヴィンとアルベルトの間に築けなかったものを、簡単に築き上げてしまうはずだ。どうにかして奪われないようにしなければ。考えてみても、リゼルヴィンにはわからなかった。
「――リゼルヴィン」
体が大きく跳ねる。ずっと聞きたかった声が、けれど今は聞きたくなかった声が、リゼルヴィンの名を呼んでいる。
ぎちぎちと音がしそうなくらい、ぎこちなく顔をそこに向ける。
見なければよかった、と後悔した。
遅れて出迎えたアルベルトは、リゼルヴィンを見るなり眉を顰めた。
それは、リゼルヴィンを最後まで恨んだ母や、顔を見る度に陰で悪く言う者たちや、リゼルヴィンを悪魔と罵った者と、同じ目だった。
リゼルヴィンは、無理やりに笑顔を作った。いつだったか姉が好きだと、格好いいと言った、人を見下す悪女のような笑顔だ。
血の匂いを纏いながら、そんな笑顔を見れば、誰だって恐ろしいだろう。姉は思わず後ずさり、泣いた。
アルベルトが崩れ落ちそうな姉を優しく支える。睨まれて、リゼルヴィンは悟った。
もう、何もかも無理なのだと。
何も言わずに屋敷を出て、ウェルヴィンキンズへ転移した。翌日から一年かけて街を囲む大きな壁を造り、屋敷を改装した。
それまでリゼルヴィンは、ずっと自分は姉のことが好きなのだと思っていた。姉の気配を感じることすら許せないほど嫌いになったのは、もしかしたら必然的なことだったのかもしれない。
以来、リゼルヴィンは狂ったとされている。自分自身でも、どうしようもなく狂ったと思っている。




