5-8
二人の会話に、すでに味方であった男にこちらへ戻る気はさらさらなく、演技でも何でもないと理解した女は悔しさを顔に浮かべた。歯を食いしばって怒りに耐え、しかし耐えられず息が荒くなっている。
獣のようだ、とジュリアーナが漏らす。リゼルヴィンは笑った。
「魔導師なんてそんなものよ。そろそろ、暴走するでしょうね」
そう言った次の瞬間、女の魔力量がぐんと跳ね上がった。肌を刺激するほどのそれに、リゼルヴィンは目を見開いた後、ジュリアーナの腕を引いて部屋の隅へ素早く移動する。
「リゼルヴィンさま!」
アルが横たわったままだった茶髪の女を抱き上げ、こちらに投げ寄越す。ジュリアーナがそれを受け取り、リゼルヴィンは見えない防壁を創り出す。
ここはリゼルヴィンが手を出すべきではない。否、手を出すことが出来ない。
その魔力は、リゼルヴィンの魔力と相性が悪すぎる。
流石はアルヴァー=モーリス=トナー、リゼルヴィンを殺すためだけに作られた操り人形。見事なまでに弱点を突いてくる。
アルは臆することなく女に近付いた。同じ存在なのだから、恐れるまでもないのだろう。
「殺す、殺してやるわ……」
「お前はどこまで醜くなれば気が済むんだよ」
女はすでに正気ではない。よく狙いもせず、ただ放てるだけ炎を放つ。悠々と避け、何か呟きながらアルが女の首に手を伸ばす。それを女が避け、アルは炎を避け、数回繰り返し、ついにアルが女の首を掴んだ。
もがく女はアルの手首を焼く。肉の焼ける臭いが部屋に充満するが、焼かれているアルはといえば愉快そうに口の端を吊り上げ、歌うように詠唱し続ける。
「――死ね」
唱え終わったかと思えば、首を握る手により強く力を込め、壁に向けて投げつける。
女が体勢を整える間を与えず馬乗りになる。先程と同じように首を握り動きを封じ、冷たい目で見下ろす。
「死にたく、ないわ! 死ぬべきはあの女! あの女が生きているから私がこんな目に!」
「ハッ、俺に敵わない時点で、リゼルヴィンなんかに敵うかよ」
喚く女は感情に任せてデタラメに魔法を発動する。アルの身を焦がしていくその炎は確かに熱いが、死ぬほどではない。
「出来損ないが」
胸を素手で突きぬく。長ったらしい呪文をわざわざ唱えたのはこのためだ。女は目を見開き、間抜けな顔のまま死んでいる。
次第に炎が勢いを失くし、頃合いを見てリゼルヴィンは魔法を解除した。室内の温度は暑くなっていたが、不快さに顔を顰めて適温まで下げる。
アルは未だ女の上に乗って、何やら探しているようだった。穴を開けた胸の中をぐちぐちと探り、あったあったと何かを拾い上げる。
「俺らの秘密で、一番大切なこと、教えてあげますよ」
そう言いながら振り向いたアルの顔は原型がわからないほど焼け焦げ、しかし、じわじわと治癒されていく。
「俺らは、これがある限り、死にません。『死んだ』と自分で認識したら確実に死にますけど。自害出来るのはその仕組みのおかげで、基本的には病気にも罹らないし、怪我をしても治ります。致命傷なら、この通り、今の俺みたいにすぐに治るように設定されてます」
リゼルヴィンに手渡されたのは、小ぶりな真珠のようなものだった。あまり価値がないのではと思う程の大きさで、これならば確かに、胸の中に埋め込まれていてもさほど影響はなさそうだ。
「それは、誰かの骨から作られて、俺らは胸の中に埋め込まれるんです」
「凄まじいほどの魔力ね。この大きさでこれだけなら、骨の持ち主は相当な魔法使いだわ」
「ええ、それこそ、リゼルヴィンさまを殺せるくらいに」
「喜ばしいことだわ。是非とも顔を合わせてみたいものね」
顔を綻ばせたリゼルヴィンに、アルは少し悩むような仕草を見せた。けれど悩むほどのことでもないと思い直して、軽く言う。
「鏡を見てみればいいじゃないですか」
「……嫌な予感がするのだけれど」
「大体あってると思いますよ」
「ああ、なんてこと……」
眩暈がするようだ。出来ることならば否定してもらいたかった。
思い当たる節がある。右腕を擦り、三年前のことを思う。
「あのとき奪われた、私の腕……」
「三年前の、あのときですよ。実は俺もそこにいたんですが、まあ、それはいいとして。一つ謝らなきゃなんないことがあります」
女の死体を蹴飛ばして、あくまで軽く、けれど目は逸らさないようにして、告白する。
「あの日、リゼルヴィンさまの腕をもいだのは、俺なんです」
リゼルヴィンは、すぐには何も言わなかった。しばらく沈黙が続く。
肌寒さすら感じるほど、リゼルヴィンの表情は冷めていった。表情が抜け落ちたようだった。
深い溜め息を吐く。その様に、アルはぼんやりと、ここで死ぬことになるだろうと感じる。生かされたら今度こそ奇跡だ。三年前に死ななかっただけでも、充分に奇跡と言えるが。
「ジュリアーナ、先に屋敷に戻ってなさい。その女も連れて行って」
「ですが、主さま」
「いいわ、あなたが言いたいことはわかってる。でも、この男と話さなきゃならないことが出来たのよ。大丈夫、私の強さは知っているでしょう?」
「……わかりました」
不満を露わにしながらも、ジュリアーナは階段を上る。茶髪の女を背負い、ちらちらとこちらを見ていた。
扉が閉まる音がして、リゼルヴィンはもう一度、溜め息を吐く。そして、アルを射抜くように見つめた。
「これは私の骨ってわけね。ということは、もう私の腕はないってことかしら」
言葉を濁すことも許されない、強い問いだった。
極限まで追い詰められたとき、人間は笑ってしまうのかもしれない。薄っぺらい笑みを浮かべていたのもあって、アルは口元が引きつり、ふつふつと湧き上がる笑いを堪えるので必死だった。
どうにかそれを呑みこんで、リゼルヴィンの目を真っ直ぐ見直す。
「三年前、あなたの腕をもいで、ある男に渡しました。その後、それがどうなったのか、俺にはわかりません。でも、今も形を保っている可能性は無に等しいかと」
「そうでしょうね。……消えた感じがしなかったから残っていると期待していたけれど、形を変えていただなんて」
「言い訳はしませんよ。今、あなたが『アルヴァー=モーリス=トナー』に命を狙われているのは、間違いなく俺のせいです」
「そんなことはどうでもいいわ」
リゼルヴィンの表情が変わった。痛々しい笑みだった。
その顔に、アルは三年前のリゼルヴィンを見出した。随分と変わったと思っていたが、根本は変わっていないということか。アルに腕をもがれ、呆然としていた姿と重なる。あのとき、リゼルヴィンは必死に抵抗していた。だが、まだ人を傷つけることに慣れていなかったのだろう、魔法を使うのに躊躇った隙を突いてもいだ。
床に転がる女の胸を貫いた魔法と同じもので体を強化し、暴れるリゼルヴィンの腹を足で押さえつけ、ブチブチと嫌な音を立てながらもぎ取ったあの日を、リゼルヴィンだけでなくアルも忘れたことはない。
「憎くないんです?」
「憎いわよ」
間髪入れずにそう答えたリゼルヴィンに、アルは苦笑する。
ならば殺せ、その権利はある。口を開いて言おうとしたが、声になる前にリゼルヴィンが遮った。
「憎いに決まってるわ。でも、こんなことで、私は怒ったりしないのよ」
リゼルヴィンの声は極めて落ち着いていた。まるでそれが当然のことのように、何の疑問も持たずに言ったのだ。
「ああもう、だから狂ってるんですよ、あなたは……」
今度こそ笑いが堪えられなかった。盛大に噴き出して、腹を抱えて笑ってやる。リゼルヴィンは不思議そうに小首を傾げていて、その様は『悪の魔女』と呼ばれている女には到底思えないものだった。
基本的に、リゼルヴィンは優しいのだ。呼吸するように救いの手を差し伸べられる人間なのだ。そこに見返りも何も求めない。
魔女ではなく、聖女と呼ばれてもいいのではないか。それは言い過ぎか、とまた笑う。
いつまで経ってもリゼルヴィンが魔女と呼ばれ続けるのは、リゼルヴィン自身が弁解をしないのもあるが、何より本当に魔女と呼ぶべき悪しき事柄を行ってきたからだ。優しいが、冷酷だ。残酷だ。身内だって躊躇わず殺せる冷たさを持っている。
実際、リゼルヴィンは、十八の頃に叔父を処刑している。
悪の魔女で、身内殺し。親類だからといって温情の欠片もないそれに、民は恐怖を抱いたという。正しいことではあったが、血の通う人間ならば、少しは躊躇うはずだ、と。
「そうね、私は狂ってるわね」
笑い続けるアルに、呆れたような声でそう言うリゼルヴィンは、やはりいくらか幼く見えた。
「でも、だからこそ私よ。ここは『狂った者の街』。主たる私が狂ってないわけ、ないじゃない」
それはどこか誇らしげだった。揺らぐ気配はどこにもない。
この女がまともだったなら、どこまで上へいけたのだろう。不安定な足元を、固く崩れる心配のない足場だと思い込んでいるこの女が、まともな精神状態で生きていたなら。
「――それでこそです、リゼルヴィンさま」
アルヴァー=モーリス=トナーは狂った人間が好きだ。そんな仕組みであるわけではないが、大抵のアルヴァー=モーリス=トナーが当てはまる。
アルもまた、例外ではない。狂った人間が好きだ。愛していると言っても過言ではない。
リゼルヴィンはアルの顔を見て、目を細めた。
「あなたが嫌でないのなら」
ゆっくりと、アルに左手を差し出す。
「その命、このリゼルヴィンのために捧げ、手足となって働きなさいな」
少しの間も空けずその手を取り、アルは、『アルヴァー=モーリス=トナー』であることを辞めた。
それで何故か救われたような気持ちになったのは、もしかしたら、ほんの少しはアルの中にもまともな部分が残っていたのかもしれない。