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  作者: 小林マコト
第二部 賢王
86/131

5-6

 ハント=ルーセンにとって、それは最悪の事態と言えた。

 隣国の魔女のことはもちろん知っていた。かの国との交易のため、わざわざ神話を学んだ者もいるのだ。知らないわけがない。

 しかし、その魔女は子爵位にあり、当主であり女である。まして四大貴族と呼ばれる名誉ある地位にもあった。代えの効かない人間なのだ、戦争になど出るはずもないと考えていた。

 彼らはわかっていなかったのだ。魔女――リゼルヴィンがどれだけ好戦的な女であるかを。


「私はね、嫌いなのよ。戦争のことじゃあないわ。この私、このリゼルヴィンを侮ったことが許せないのよ。そうした人間は、総じて嫌いだわ」


 ハント=ルーセン国王の額を濡らすのは、冷や汗だった。

 背後で笑う女の声に覚えはない。だが、本能でわかってしまう。この女は、その気になれば、ロウソクの火を吹き消すより簡単に、人を殺せるのだと。


「少し力をつけてきたくらいで、私たちに勝てるとでも思ったの? 恥ずかしい人ね、百年早いわ。身の程を弁えなさい」


 振り向くことは許されず、国王は前を向きながらも後ろばかり気にしていた。こんな状況にあり、心は恐怖で埋め尽くされているのに、振り向いて女の顔を確かめたいと思ってしまった。


 艶やかな声は非常に魅力的で、きっと美しい顔をしているのだろう。


 残念ながら、国王が想像する顔とリゼルヴィンとは、まったくもって似ていない。

 むせるほどの色香の漂う女を想像する。しかし、リゼルヴィンは凹凸の少ない体型をしている。

 派手な顔つきの美女を想像する。しかし、リゼルヴィンは飾り気のない顔をしている。


 ただ、赤の似合う女だということだけは、当たっていた。


 リゼルヴィンには赤が良く似合う。夕焼けのように眩しく、血のように鮮やかな赤が。


「な、何を、何を望んでいる!?」

「やあねえ、決まってるじゃない」


 国王は気高さの欠片もなく、すべての誇りを投げ出して叫んだ。その無様さに、リゼルヴィンは笑みを深める。


「さっさとこの戦争を終わらせなさい。あなたも、この国も、もう限界のはずよ」


 リゼルヴィンの要求はそれだけだった。それ以上に何を望むこともない。ただそれだけのために、多くを殺したのだ。

 馬鹿らしいことだと、リゼルヴィン自身が一番わかっている。それだけなら、この国王を脅せばよかったのだ。

 わかっていて何故、やめなかったのか。その理由は、至極簡単なものだ。


 殺したかったから。殺したかったから殺した。理由など、それ以外にない。


 臆病な人間に、脅しは有効な手段だ。最も平和的かつ、こちらに有利に事を運べる。

 この国王は臆病で矮小で、傲慢で強欲な人間だ。権力に縋り付き、しかしそれを守るために戦う覚悟はない。恐ろしいものを見れば逃げ出し、不穏な影は見て見ぬふりをする。リゼルヴィンが嫌う部類の人間だ。


「魔女は寛大なのよ。だから、こんな馬鹿な真似をしてこちらを傷つけたこと、すべて水に流してあげるわ。ただし、私の要求を呑んでくれるなら」


 そうでないなら。

 リゼルヴィンが、恐怖を助長させる絶妙な間を置く。


「あなたも、あなたの国も、血の海に沈むことになるわ」


 楽しげな、それでいて上品な笑い声が響く。

 その声が消えたとき、国王はハント=ルーセンの重鎮たちを招集した。彼らは屈辱に耐えつつ、この状況で最も賢明な判断を下す。


 エンジットに降伏文が届いたのは、二日後のことだった。





 その日は雨が降っていた。穏やかで静かな雨だ。

 細いそれが、傘を指さないリゼルヴィンを濡らしていく。気にした様子もなく、リゼルヴィンは花束を手に足を進めた。


 この前日、ハント=ルーセンから、敗戦を認める文書が届いていた。

 戦場で何があったのか報告されていたエグランティーヌは、納得した様子でそれを受け取っていたが、そこでようやく知った者たちの慌て様は凄まじかった。普段は冷静沈着、眉一つ動かさず物事に取り組むアルベルトすら、怪訝そうな顔をしたほどだ。


 基本的にこのような場合は、四大貴族も国王と共に交渉に参加することになっている。しかし、すべての交渉に、リゼルヴィンは自ら不参加を申し出た。

 あちらの国の国王は情けない男だ。自ら仕掛けた戦を負けで終わらせたばかりでなく、国のためと言っておきながら、実際は自らの命惜しさにそれを認めたのだと、リゼルヴィンは見抜いている。そんな男は王ではない。一国の王と認められない男とは会いたくないというのが、リゼルヴィンの本音だった。


 戦の最前線に出ていたということで許可が下りたと知ったグロリアも、同じように不参加を申し出たものの、リナの手回しで彼は許可されなかった。今後もこんなことが起こらないとも限らない。次代を担うファウスト=クヴェートは是非とも参加させるべきとのことだった。

 今頃、嫌々ながら会議に出ているのだろう。表に出ているのが『グロリア』とはいえ、どちらであっても『ファウスト=クヴェート』だ。無理に逃げると後々面倒なことになると、彼はよく理解している。


「来たわよ、フロランス。ごめんなさいね。三日で来るつもりだったのに、倍になっちゃった」


 ポツポツと、墓石に雨粒が落ちる。花束をそっと置いて顔を上げると、石の向こうにフロランスが立っているように思ってしまった。

 そんなはずはないと、わかっている。死は無だ。軽く自嘲して、刻まれた文字を見つめる。


「まさか、あなたが、こんな冷たい石一つになって、この世に残り続けるなんてね。そうして残ることに、意味はあるのかしら。……ごめんなさいね、今日は、嫌味も何も言えないわ。あなたに反発するなんて、今日は無理よ……」


 無理に口角を上げる。情けない顔を見せに来たわけではない。

 雨が少し強くなった。頬をつたうものが雨なのかそれ以外なのか、それすらわからないまま、リゼルヴィンは前を向く。


「あなたは強かった。私はあなたに憧れた。最後にあんな風に別れてしまったけれど、今もそれは変わらないわ」


 国にとっても、リゼルヴィンにとっても、フロランスは良き母だった。常に国民の母であろうと背筋をしゃんと伸ばし、時に叱り、時に褒め、国を支え育ててきた。

 息子、先王ニコラスを亡くしたとき、フロランスは言った。こうなることは見えていたと。だが、息子が選んだ道を、親が塞ぐことは許されない。ただその背を見送り、見届け、その結末を受け入れてやることが、母親の役目である、と。

 その目に悲しみはなかった。選んだ道を進んだ結果が死だったのならば、本人以外がとやかく言うのは筋違いであると、表情を変えずに言ったのだ。


 きっと、フロランス自身も、悲しまれることは望んでいない。


「さよなら、フロランス」


 だからリゼルヴィンは前を向く。フロランスからは多くをもらってきた。その存在に手が届くことはついぞなく、これからもないだろうが、それでも彼女の気高さを忘れる日はないだろう。


「最期に、顔を見て終わりたかったわ」


 くるりと背を向けて、その場を去る。


 雨は更に強くなり、リゼルヴィンが置いた花も水に溺れそうになっていた。

 


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