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  作者: 小林マコト
第二部 賢王
84/131

5-4

 そのままリゼルヴィンは他の部隊も潰した。翼を生やし、空を飛び、目に入ったハント=ルーセンの兵を一人残らず殺した。


 はじめに受けた弾痕以外はまったくの無傷だった。その傷だけは、こちらより先に攻撃してきたことの証拠として残してある。


 エンジットの拠点に戻った頃には、空が赤く染まっていた。


 いかにも不機嫌な顔で出迎えたグロリアですら、顔をそむけるほど、戻ったリゼルヴィンは正気ではなかった。頭から血を被ったかのように返り血に染まり、喪服は更に濃く深い黒に見えた。その服もあちこち破れ、かろうじてその機能を果たしているだけだった。


 地に降り立ち、座りこんだと思えば、狂ったように笑い続けている。

 興奮しきっているその目はいつにも増して爛々と輝き、狂気を滲ませている。


「雨が……」


 急にリゼルヴィンの笑いが止まる。小さく呟き、空を見上げたリゼルヴィンは、何を思っているのか読み取れない無表情だった。


「雨が、降るわ」


 ふっと、その瞳から光が消える。虚ろな瞳をした。それなのに、それは美しいままだった。

 ふらふらと立ち上がり、リゼルヴィンは自分のテントに足を向ける。

 グロリアが慌てて呼び止めるも、まるで聞こえていないかのように反応を見せない。


「おい、リゼルヴィン!」


 名を呼びながら、その肩を乱暴に掴んだが、すぐに放してしまう。

 服はグロリアの予想よりはるかに血を吸っていた。乱暴に掴んだとはいえ、さほど力は入れていないつもりだった。けれどそれだけで、グロリアの手が血で濡れるほどだった。リゼルヴィンに少し近づいただけで、鼻が曲がりそうなほど鉄の臭いがした。比喩しがたい、身体が無条件に拒否する臭いに、一歩下がってしまう。


 リゼルヴィンはやはり無反応だった。グロリアが怯んでいる間に、テントの中に消える。リゼルヴィンのテントは、他の者たちとは少し離れたところにある。リゼルヴィンがその場所を望んだわけではなかった。


 グロリアは、このとき初めてリゼルヴィンが異常であることに気が付いた。これまでは狂った女だと思いながらも、人間であることを疑いはしなかった。

 だが、リゼルヴィンは、そんな生易しいものではなかった。同じ人間であることを疑うほど、狂っている。誰よりも、何よりも狂っている。これは本当に人間なのか、人間の皮を被った悪魔なのではないかと、今まで感じたことのない恐怖を感じた。


 グロリアですらそうなのだから、他の者たちはそれよりも強い恐怖を感じたのだろう。運悪く居合わせた者たちの中には、青い顔をして吐き気を堪えている者もいる。


「雨など、降らないだろう……」


 認めがたい感情から目を逸らすように、空を見上げれば、雨雲の気配はない。水の匂いも同じだ。何故あんなにもリゼルヴィンが雨に拘るのか、グロリアにはわからなかった。

 しかし、リゼルヴィンはあんなにもはっきりと「雨が降る」と宣言したのだ。声にいつものような力強さはなかったが、確かにそうだと思わせるような力はあった。

 本当に雨が降るのか。それが一体何を表すのか。そもそも、リゼルヴィンの言う「雨」とは、誰もがまず連想する空から降る水のことなのか。


「ファウストさま、食事の用意が出来ましたよ。相変わらず、旨さは皆無ですけど」

「……こんなときに食事なんて出来るか」

「でも、腹が減っては戦が出来ぬって言うじゃないですか。ファウストさまにとっての本当の戦争はこれからですよ、これから」


 赤毛の男がへらへらと笑いながらこちらにやってきた。この場に似合わない顔をし、意味深なことを言いながら、グロリアの心を見透かすような口元の笑みに、リゼルヴィンへ抱いたものと同じような恐怖を感じる。

 何もおかしいところのない、ただの若い男であるはずだった。だが、その男の名を、グロリアは思い出せない。記憶力は悪くなく、むしろすべて完璧を求められる四大貴族として、人の名前は一度も忘れたことがなかった。


 それなのに、どうしても思い出せる気配すら見出せない。


「何よりも、ファウストさまに受け取ってもらえなきゃあ、俺がやばいんですよね」


 押し付けるように固いパンをグロリアに渡す。保存がきくものをとリゼルヴィンが選んできた食料は、大抵が味に不満を抱いてしまうものだった。このパンも、あまり旨いとは言えない。


「何が起きているんだ……」


 その男の背を見送りながら、底知れぬ不安を感じる。

 グロリアだけでなく、誰も気付いていない場所で、何かが動き始めている。それが何なのか、まだわからない。


 けれど、それが国を揺るがすものであることは、よくわかった。


 リゼルヴィンに訊けばわかるのかもしれないが、先程の様子を見ると、今すぐに訊きに行くことは気が引ける。今だけでなく、しばらく顔を見るのも無理そうだ。上手く相手が出来る自信がない。


 このときのグロリアは、まだ甘かった。まだリゼルヴィンを四大貴族の一員として見做し、自分たちがそうであるように、愛国心が飛びぬけていると思い込んでいた。狂ったような笑顔を浮かべ、ひたすらに人を殺す様を直接見ていたなら、きっとそんな思い込みは捨て去り、リゼルヴィンを疑っていただろう。


 グロリアは後に後悔する。

 この日が、グロリアがリゼルヴィンを止められる唯一の機会だったのだ。


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