5-1 賭す者
一つの間違いを隠そうとして、すべてを間違った。
「愚かな女だと、笑ってくださいますか」
フロランスの声が虚しく響く。部屋は薄暗く、肌寒い。
少しだけ視線が下へ落ちる。普段はどんな小さな悪も許さないようなきつい印象を与える顔も、今は疲れ切ってすべてを諦めている表情をしていた。
「ええ、わかっております。私がこれから、何をすべきかなど」
窓辺に立つ。鈍色の雲が空を覆い、雨が激しく打ち付けていた。
フロランスは窓に映った自分の背後に、黒いフードで顔を隠した者が立っているのを確認し、一度ゆっくりと目を閉じた。
「陛下……。私は今ようやく、あなたさまの言ったことが理解出来ました。――雨も、いいものですね」
リゼルヴィンはどうしているだろう。フロランスが命じなければ起こらなかった戦争で、その手を赤く染めているのだろうか。
かつてフロランスを慕ってくれた者たちは、今のフロランスを見て、落胆するだろうか。
あの日、リゼルヴィンの意思を力尽くでねじ伏せた日、彼女は確かにフロランスに軽蔑の眼差しを向けた。大勢の者にあの目を向けられることになるならば、きっとフロランスは自ら死を選ぶだろう。
生来自尊心は低い方だと言われてきたが、譲れない部分はある。そんな目で見られるのは、何があっても許せない。そんな目を向けられることをした自分が、恥ずかしくてたまらなくなるからだ。
「――雨も、いいものです」
遠くで雷が落ちた。街中でなければいいのだが、この雨だと確認に時間がかかるだろう。
雨もいいものだ。そう繰り返しながら、フロランスは振り返る。
「アルヴァー=モーリス=トナー。女であるからと、こうも簡単に姿を現すなど、後悔しても知りませんよ」
「さあ、後悔するのは王太后さまかもしれませんよ」
にやりと口を歪め、フロランスを脅していた声が言う。
しかし、フロランスはもう恐れない。その声が何を言おうと、フロランスを操ることは、もう不可能だ。
「リゼルヴィンが一人でハント=ルーセンに挑むと聞きました。彼女のことです、必ずやエンジットに勝利をもたらすことでしょう」
「そのリゼルヴィンを、戦争に行かせたのは王太后さまですよ。あの穢れた女が今以上に穢れるのは、見物ですね」
「娘を侮辱することは許しません。発言を撤回なさい」
「おや、王太后さまはやはりお優しい。そして、可哀相なお方だ。あなたはお立場に縛られている。国母がなんです、そんなお立場、捨ててしまえばいいではありませんか。あなたの娘は、アンジェリカ、エグランティーヌ、ジルヴェンヴォードの三人だけではありませんか。ただの母として、本当の娘たちを守りたいとは思わないのですか。私の言う通りにしていれば、リゼルヴィンさえ殺してくだされば、永遠に娘を守ると誓いましょう」
「黙りなさい」
強く言い放ち、フロランスはその者に近付く。
ぐっと拳を握り、声に出さず呪文を唱える。クヴェート家当主リナ=クヴェートに教えられた、フロランスが使えるたった一つの魔法。
「私の娘です。リゼルヴィンは、あの方の娘であり、私の娘です。――娘の敵は、母である私が排除する。当然でしょう?」
握った拳を勢いよく振りかぶるも、さして鍛えてもいない女の攻撃など、軽々と受け止められてしまった。
フロランスは笑う。心臓が急に嫌な跳ね方をし始め、眩暈が襲うも、強気に笑った。
「この拳を受け止めた。これで、私の勝ちです」
「さあて、どうだか」
顔を晒した声の主である男もまた、笑っていた。
フロランスは素早く拳を広げ、受け止められた手に指を絡めた。呪文の、最後の一節を唱える。動悸が更に激しくなる。
「死になさい。ただ、地獄のような苦しみを味わって、死ね」
「王太后さまが、そんな言葉をお使いになるとはね」
男はそう言ったものの、すぐに血を吐いて悶え苦しみ始めた。床をのた打ち回り、部屋が男の血で汚されていく。
だが、男はフロランスに恐ろしい言葉を残した。その目はすでに何も映しておらず、しかし確かに笑っていた。
「私の死なぞ、初めから決まりきったこと。何も変わらぬ、何者にも、この流れは止められはしない……! リゼルヴィンは死ぬ! 我らアルヴァー=モーリス=トナーの手によって!」
男は自ら舌を噛み切った。血が噴き出す。しばらく跳ねていた体も、動かなくなった。
雨は先程より激しくなっていた。深い溜め息を吐きながら、フロランスは窓辺へ足を運ぶ。
途中で足が縺れ、転んでしまった。脚に力が入らない。視界も霞んで。這うようにして、フロランスはそれでも窓辺へ近付こうとする。
「……愚かな女よ」
「……陛下?」
いるはずのない声に顔を上げると、霞んだ視界でも一目でわかる金髪碧眼の男がこちらを見下ろしていた。
かつて夫であった、今は亡き先王シェルナンドその人だ。ああ、これは死の間際の幻覚か。この国に戦争を呼び込んでしまった女が見るには、あまりにも幸せすぎる幻覚だ。唯一愛し、今なお愛している夫の幻覚を見るなど、罪人にはもったいない。
「命を賭して娘を守ってくれたか、フロランスよ。それでこそ、余の正妃だ。礼を言うぞ」
「陛下、礼など、私に言ってはなりません。私がこの国に戦を呼び、リゼルヴィンを戦場へ向かわせたのです。罪人に、礼を言ってはなりません」
「貴様は充分その罪を償った。貴様がそこの男を殺したことで、娘が死ぬ未来は消えた。例え貴様が己を許さずとも、余が貴様を許す」
「ですが」
「異論は認めん。余の言葉を否定するか」
「いいえ、ですが、陛下……」
フロランスの手を握ったシェルナンドの手は温かく、幻覚ではないのかもしれないと思ってしまう。三年前に、夫は死んだ。死んだ人間は生き返らない。ああそうか、幻覚に温かみを感じてしまうのは、そちら側に自分が近付いているからか。軽く笑って、フロランスは視覚を手放した。もう触覚も薄らいでいる。
「眠るがいい、フロランスよ。貴様はよく働いてくれた」
「はい、陛下……。リゼルヴィンを、娘たちを、よろしくお願いします」
死んだ人間に何を頼んでいるのか。フロランスは自嘲したが、シェルナンドならば死んでいても必ず守ってくれるような気がして、そう頼まずにはいられなかった。
ああ、と優しげなシェルナンドの声を聞き、聴覚も消えた。
心臓が動きを止めていくのを感じながら、フロランスは最期に祈りを捧げ、すべての感覚を手放した。
翌日、フロランスを起こしに来た侍女が、フロランスと見知らぬ男の死体を発見する。
すぐに現場を調べたリナ=クヴェートによると、フロランスは魔法によってこの男を殺したのだという。使われたのはリナが教えたいざというときに相手を確実に殺す魔法であり、魔力のないフロランスがその魔法を使うには強すぎる魔法だった。だからこそリナは本当に国の危険が迫ったときや、自らが何者かに捕らわれ利用されてしまいそうになったときの最終手段として、決して軽々と使ってはならないとよくフロランスに注意していた。フロランスがその言葉を守らないわけがなく、それでも使ったのはこの男が国を揺るがす大きな何かを企んでいたからだとされた。
王太后の死は国中に広まり、国境付近にてハント=ルーセンを迎え撃つ準備をしているリゼルヴィンの耳に届けられるまで、そう時間はかからなかった。