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王族であるエグランティーヌは子供を授かりにくい体質だ。『黄金の獅子』の最大の特徴である金髪碧眼を守るためと、王族が近親婚を繰り返してきた結果、そうなってしまった。もう何代も前から王族はこれに悩み続けている。
姉であるアンジェリカもまた、同じように子供は授かりにくいだろうと言われていたが、幸い嫁いで二年でなんとか子供を産むことが出来た。つい最近届いた手紙には、腹の中に新たな命が宿ったと書かれていた。だが、流石に次は望めないだろう。二人産めるだけでも運がよかったのだ。
先々王であり父であったシェルナンドはこの王族の体質をよく理解していたからこそ、側妃を二人も取った。正妃フロランスを最も近くに置き、特別寵を得ることもなかった側妃たちは、それを承知でその地位に納まった女たちだった。側妃を取ると決めた際の条件は、確実に子を授かれる身体であるとの証明に一度は子を産んだ女であること、そして年若き未亡人であることだったという。
男の王族であれば、そういうことも出来る。だが、女であるエグランティーヌは、そうもいかない。
子供がいるかどうかは、少なからず夫婦間に影響を及ぼす。それが悪い方向であっても、良い方向であっても。
子供好きのミハルなら、きっと良い方向に転がったはずだ。エグランティーヌが、子を授かることが出来れば。
そんなことを考えながら、エグランティーヌはそっと溜め息を吐いた。
エグランティーヌがこのことで悩んでいるのを、きっとミハルは気付いている。気付いていながら、何も言わないのだ。ミハルは優しい。その優しさが、エグランティーヌの苦しみを加速させる。
いっそ責めてくれたら。そう願う自分は、とても醜い。
「……君を責めたら、僕は彼と同じになってしまう」
エグランティーヌの心を読んだかのようなミハルの言葉に、どきっとして顔を上げた。
ミハルは、普段からは想像も出来ないほど、冷たい無表情をしている。
「彼と同じ過ちを犯して、彼らのようにはなりたくないんだ」
「それは、どういう……」
これは誰にも言ってはいけない話だよ。
そう前置きをして、ミハルはエグランティーヌの耳元で、そっと囁いた。
「リゼルヴィンは、君と同じく、子を授かりにくい身体なんだ」
「アルベルトさま、これを」
声を掛けられ、振り向いてみれば、そこには黒い女がいた。紫が良く似合う、黒の女だ。
その手には小さな石が握られていて、限りなく透明に近い水晶のようなそれを、アルベルトに差し出している。
「これは」
「私の魔力によって創った石です。危険が迫れば、一度だけ、身を庇ってくれます」
この女は誰だったか、と思う。少し幼さの残った顔をしているのに、その表情は何もかもを悟ったような無をしている。よく似た女をどこかで見たような気がするが、アルベルトにはよくわからなかった。
しかし、アルベルトの身体はその石を受け取った。
「何かございましたら、すぐに私をお呼びください。アルベルトさまの元へ参りますので」
アルベルトの身を案じるその言葉が、ふいに不快感を呼び起こす。
この女は何を言っているのか。女のくせに、男を守ろうと言うのか。
それもまた、アルベルトの口からほぼ無意識に飛び出てしまった。すると、女はゆっくりと頭を下げた。
「申し訳ありません。出過ぎた真似をしてしまいました」
ああ、この女は自分の妻だ。そう気付くと同時に、これが過去の記憶であるということにも気が付いた。
確か、結婚してすぐのことだ。まるで新婚とは思えないほど互いに多忙で、この日は前日にリゼルヴィンが訪れて、泊まっていたのだ。
当然、リゼルヴィンは現在と比べて若い。そうだ、こんな顔をしていた、と懐かしく思ってしまう。
この頃のリゼルヴィンは表情が乏しかった。どこへ行ってもほとんど表情は変わらず、やっと笑ったかと思えば、困ったような控えめな笑みだけ。それに、アルベルトは苛立ってしまっていた。陰気な顔をして、ただでさえ鬱々とした黒髪なのに、それでメイナードの妻であるつもりか。そう思い、すべてを伝える代わりに『メイナードの名を汚す気か』と責めていた。
言いたかったことは、それではなかったのだと、今となれば過去の自分を殺してしまいたいほど後悔している。
この頃の妻は何を思っていたのだろう。アルベルトの言葉を、どう思っていたのだろう。
これは夢であると、すでに気付いている。アルベルトを責める夢だ。だが、聞かずにはいられなかった。夢の中の自分の重たい口を開き、未だ顔を上げない妻を見る。
「お前は、何を考えている」
冷たい声だった。リゼルヴィンを咎めるような、そんな声しかアルベルトは出せなかった。
小さく妻の肩が跳ねた。怯えだけはすぐに見せるのだ。それも、アルベルトにしか怯えない。
自分が何をしたのか、お前を傷つけたのか。そう問いたくなるが、答えはもうわかっている。アルベルトはリゼルヴィンを、狂わせるほどに傷つけた。その傷を巧みに隠したリゼルヴィンに甘え、気遣うこともせず、ただひたすらに責め続けた。
場面が変わる。
そこは、アルベルトの部屋だった。アルベルトは椅子に座り、机を挟んで向こう側にはリゼルヴィンが立っている。
先程よりは少し幼さが消えていた。だが、少しやつれている。
「申し訳ありません」
また、ゆっくりと深く頭を下げる。その表情はやはり無で、アルベルトも自分の表情が無であることを自覚していた。
「私は、子を授かりにくい身体です。完全に不可能というわけではありませんが、通常よりはるかに難しいことは事実です。多くの医者にそう言われました。申し訳ありません」
「……そうか」
その声もまた、冷たかった。女性として最も悲しい告白をしている妻を慰めるべき場面でありながら、アルベルトの声はやはり鋭く責めるようだ。
この先を言ってはいけない。どうか言わないでくれと強く願うも、過去は変えられない。アルベルトの口は、最も言ってはならないことを言ってしまった。
「子を成せないのなら、構わない。他から養子をもらう。お前も探しておくことだな」
「……私は、要りませんか」
顔を上げた妻は、やはり無表情だ。ぎこちない笑みも、傷付いた顔もしていない。ただ、無表情でそう問うた。
しかし――
「そうだな」
――アルベルトが頷いた途端、この世の終わりを見たかのように、絶望に染まった。
泣いてはいない。ただ、驚きと絶望とが混ざり、その表情でアルベルトはようやく間違ったことを思い知ったのだ。
違う、そうではない。それを言いたかったのではない。
この後どうなったのかを知っている現在のアルベルトがいくら叫んでも、過去は決して変わりはしない。
「……わかりました。本当に、申し訳ありませんでした」
もう一度深く頭を下げたリゼルヴィンの声は、震えていた。それに対する動揺で、アルベルトは妻を呼び止めることも出来ず、ただ部屋から出ていくのを見ていることしか出来なかった。
なんてことをしてしまったのだろう。これほど愚かな男が、他にどこにいるのか。
――お前は笑っていた方がいい。
――お前は守られるべきだから、私のことを気にするな。守る側の人間は私だ。
――子を成せずとも、養子を取ればいい。そのことを気に病む必要はない。
――お前は、そのままでいい。
アルベルトはそう言いたかったのだ。言い方を間違ってしまった。態度を間違ってしまった。
リゼルヴィンは守られるべき女であるはずなのに、まずこちらを守ろうとするよう躾けられていることに腹が立った。そう育てた者たちに、腹が立ったのだ。
子を成せないことで悩むリゼルヴィンを見たくなかった。リゼルヴィンとの子が欲しくなかったと言えば嘘になるが、しかし彼女が苦しむくらいなら、養子を取ろうと言って楽にしてやりたかったのだ。
相手がリゼルヴィンでなければ、アルベルトもこうではない。伝えたいことをはっきりと、間違うことなく伝えられただろうし、傷付けることも言わなかったはずだ。
けれど、何故だろう。リゼルヴィンの前では、最低な男にしかなれない。
結婚しなければよかったと思い始めたのは、この頃からだった。アルベルトと結婚しなければ、リゼルヴィンはもっと他の、優しいちゃんとした男と結婚出来たはずだ。
もしリゼルヴィンが、他の男を好きになったと言って来れば、そのときは何も言わず別れてやろう。もちろん、その男の人格も家柄も、すべて調べ上げた後に。きちんとした男で、リゼルヴィンを幸せにしてやれる男だったなら、潔く身を引こう。
そう考えて、最後に思い出すのは、いつも結婚式のときのリゼルヴィンだった。
あのとき、確かにリゼルヴィンは笑っていた。困ったような笑みでもなく、ただ、心の底から嬉しそうにしていた。
思えばあのとき、アルベルトはリゼルヴィンに恋をしたのだ。
「……憎んでくれ、リゼルヴィン」
そう呟いて、目が覚めた。
ぐっしょりと汗をかいている。右手は彼女を求めるように天へ伸ばされていて、それを掴んでくれる手がないことに、落胆した。
リゼルヴィンがいたときは、アルベルトがうなされていると、必ず手を握ってくれていた。別の部屋で休んでいても、何故だかわからないが、気付いて見に来てくれていたらしいのだ。
一人とは、虚しいものだ。この三年、ずっと思っていた。一人は虚しく、寂しい。どれだけリゼルヴィンに救われていたか、思い知らされる。
頬を何かが伝った。何であるかは、触らずともわかってしまった。
ハント=ルーセンとの戦争が終わって、一年後。
リゼルヴィンと離婚することを、先日、約束した。