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アルベルトを帰した夜、あまりの疲れに眠ってみれば、悪夢を見なかった。それは、リゼルヴィンにとって何か悪いことが起きる兆候に思えて仕方ない出来事だった。
それを裏付けるように、地下から上がってきたシェルナンドは笑みを浮かべていなかった。
「リースよ、余に何か言うことはないか」
「……申し訳ありません、陛下。私は陛下の命に反することを行ってしまいました」
「ほう」
吸い込まれそうなほど青い目が、すっと細められる。ぞわり、恐怖がリゼルヴィンを襲って、ぎゅっと目を閉じる。
しかし、リゼルヴィンが恐れていた痛みは、一向にやってこなかった。恐る恐る目を開けてみれば、それと同時にシェルナンドがリゼルヴィンを強く抱きしめる。
何が起こっているのか、状況を理解出来ないまま、リゼルヴィンはされるままにその腕に収まる。すると、耳元で優しく、シェルナンドが言った。
「あんなことがあってまで、余の命など構うな。……おまえが苦しむ姿など、見たくはない」
「へい、か……」
「リース、おまえは娘だ。血が繋がっていなくとも、正式な手続きを行っておらずとも、それは変わりない。父を頼れ。父の前では泣け。苦しむな」
リゼルヴィンの『父親』としての声だった。その声に、リゼルヴィンは目が熱くなるのを感じる。
ゆっくりと頭を撫でるシェルナンドが、抑え込んでいたリゼルヴィンの感情を解放していく。
「申し訳ありません、陛下、私は、また、上手く……」
「構うな。泣け。おまえは何もかもを堪えすぎている」
ぷつりと糸が切れたように、リゼルヴィンは泣いた。ああ、これではシェルナンドの服が汚れてしまう、と離れようとしても、他でもないシェルナンドがそれを許さなかった。強く、それでいて優しく抱きしめられて、声を上げて泣いた。
ひとしきり泣いて落ち着いた頃、そのままの体勢で、シェルナンドが囁く。
「ハント=ルーセンに援軍が着くのは明後日だ」
その声は、それまでの『父親』としてのシェルナンドではなく、王としてのシェルナンドだった。
変化に気付いたリゼルヴィンもすぐに切り替える。涙をそのままに、シェルナンドの言葉に集中する。
「貴様のいた陣から北の方向に森があるだろう、そこを通って奇襲するつもりらしい。月が真上に来たとき、一斉に降りてくる。魔導師もいるが、貴様の結界を壊せる者はいない。本体も反対側から。ほとんどの兵力をつぎ込んでくる。これを逃せばしばらくはまた動きがないぞ」
「わかりました、陛下。ありがとうございます」
そう答えた頃には、リゼルヴィンもすっかり元の冷静さを取り戻していた。満足げに口元を歪めたシェルナンドの囁きは、まさに悪魔の囁きだった。
「リースよ、好きに動くがいい。余の命も今は出さん。貴様の好きなように、好きなだけ壊すがいい。貴様はそれだけの苦しみを、味わったのだから」
その声がゆっくりとリゼルヴィンの中に染みこんでいく。リゼルヴィンの意思など囁きにかき消され、それこそが正しいのだと、思い込んでしまう。
リゼルヴィンの頬を、また一つ、涙が伝った。
今度の涙は悲しみの涙ではない。ただただ、これからに期待し、歓喜する涙だった。
「――承知しました、我が国王陛下、我が父よ」
口の端を釣り上げ、涙を流しながらも冷たい笑みを浮かべたリゼルヴィン。
よく似た笑みだった。シェルナンドが悪魔であるならば、リゼルヴィンは魔女と呼ぶのが相応しい。
「それでこそ、俺の娘だ」
シェルナンドはもう一度、リゼルヴィンを抱きしめ、それから少しだけ、悲しげな顔をした。
リゼルヴィンには、見えていない。
友人であるが故に、エグランティーヌはリゼルヴィンのことを少しばかり贔屓してしまう。
以前ならばそんなこともなかったはずだ。王という国の頂点に立ち、皆が傅く中、たった一人リゼルヴィンだけが態度を変えなかったからかもしれない。まったくもって相応しくない地位を手に入れたことが、エグランティーヌを疲弊させていた。傅かれるのは好きではない。リゼルヴィンが唯一の存在に見えたのだろう、自覚するほど、甘くなってしまった。
反対に言ってしまえば、王となり、以前はやってやれなかったことをやれるだけの力を持ってしまったが故の、思い上がりなのだろう。今の自分ならリゼルヴィンを幸せにしてやれると勘違いして、余計な手出し口出しをしてしまうのだ。
「よく理解しているのに、直せずにいるところが、エーラらしいよ」
勇気を振り絞って夫であるミハルに相談してみれば、呑気に笑われてしまった。
むっとしたが、確かにミハルの言う通りだった。エグランティーヌには、自覚し理解していても直すのを躊躇ってしまう悪癖がある。それが本当に危険であり、すぐに直すべきものならば躊躇わずに済む。だが、それが些細なことで、あまり周囲に迷惑をかけないのであれば、随分と長く悩んでしまうのだ。リゼルヴィンを贔屓しているとはいえ、まだそう大きな問題も起きていない。そのため、なかなか直すきっかけを掴めずにいる。
「間違っているのはわかっています。リィゼルは、ただでさえ敵が多い。それは仕方のないことだと、よく理解しています。けれど少しでも彼女の負担を失くしてやりたいと思うのもまた、友人として仕方のないことではないのですか」
「エーラ、ここはアダムチークの屋敷じゃあないんだ。僕は君の夫だけれど、身分は君の方が上なんだから、そんな言葉使いをされちゃ僕も困ってしまうよ」
今度は苦笑いだ。ミハルはよく笑っている。その笑顔にエグランティーヌがどれだけ救われてきたか、ミハルは知らないだろう。
そういえばそうだと思い出して、エグランティーヌは反省した。王城に移り住んでからというもの、こう注意されたのは何度目だろう。幼い頃からの癖で、ミハルに対してだけでなく、例え相手の身分が下であっても丁寧な言葉使いをしてしまう。ごく親しい友人などもいなかったため、言葉使いを崩したのはリゼルヴィンが初めてだった。
仮にも女王なのだから、丁寧な口調であっても言葉の芯にもっと力を入れろと言われてしまう。エグランティーヌの口調は、相手を敬うために自分を下げる口調だ。
「それに、リゼルヴィンの話は扱いに気を付けなければ。ここじゃ誰に聞かれているかわからないよ」
「……ごめんなさい」
「いいよ、そう落ちこまないで。こういうとき、彼女の魔法は便利なんだ。石を貰っておいてよかったよ」
そう言ってミハルが見せたのは、小さな青い宝石のようなものだった。
「リゼルヴィンから、ずっと前に貰っていたんだ。これを個室の中で持っていれば、部屋の中の音を外に漏らさないように出来るらしい。アダムチークの仕事上、扱いに最上級の注意を払わなければならないものもあったから、とても役に立っていたんだよ。定期的に彼女に魔力を補充してもらっていて、最後の補充からは一度も使っていないから、効果はあるはずだ」
「……リィゼルは、そんなところでも役に立っていたんだ」
「そう。魔法に関して、彼女の右に出る者はいない。僕もその力に頼りすぎていたな」
そこで初めて、ミハルはよく好かれる笑みを陰らせた。
不思議に思って名前を呼んでみれば、すぐに元の表情に戻る。この年上の夫を、エグランティーヌはまだ理解出来ていない。
無理もないだろう。四大貴族の当主となった者は、家族にもその使命の内容のすべてを話すことは禁じられている。ミハルが何を抱えていたのか、何を行って来たのか、エグランティーヌにはわかるはずもないのだ。
夫婦仲は良好である。結婚から四年、喧嘩という喧嘩もしたことがない。思ったことはすべて共有するよう心掛けてきたからだ。
だが、エグランティーヌはミハルとの間に壁を感じていた。きっとミハルもそうなのだろう。
これで子供でもいたら、何か変わっていたのだろうか。エグランティーヌとミハルの間には、まだ子供がいない。




