3-7
しばらく会っていない姉に会えば、きっとまた気分が晴れるだろうと思った。ファウストが苦しんでいるとき、姉はファウストのことを忘れていても救いになる言葉を掛けてくれた。
姉だけは、ファウストを許してくれる。そう期待してしまったのを、後悔した。
「――あ、やだ、来るな……っ!」
扉を開け、姉の目にファウストが映った瞬間、姉はファウストを拒絶した。
これまで姉がファウストに怯えを見せることはなかった。忘れていても、ファウストの自分とよく似た色を見れば、なんとなく察していた。そこに怯えはなく、どちらかといえば友好的に接してくれていた。
それなのに、これはなんだ。
信じられなかった。姉は確かにファウストを覚えているようだった。喜ばしいことに思えたが、この反応は違う。ファウストが望んだ反応ではない。
「姉さん……?」
「く、来るなっ!」
一歩、ほんの一歩近寄っただけで、姉が小さく悲鳴を上げ後ずさる。
部屋の隅で小さくなり、震えながらこちらを見る姉の顔には、確かな恐怖が浮かんでいた。
「姉さん、どうしたんだよ、姉さん」
「来るな、来るなぁっ! 私が悪いから、だから、やめて……!」
「俺は何もしないよ、一体どうしたんだ」
「何もしないなんて嘘だ! だって、あんたは、私を」
殴っただろう、そう絞り出すように言った姉は、ついに涙を流した。
ああ、そうか。姉の記憶は、悪いことだけは残っているのか。
ファウストの中で、それはすとんと落ち着いた。なるほど、と納得すらしてしまった。
きっと姉は、前回訪れたときのことだけは覚えているのだろう。異常なくらいに怯えているのは、ファウストが殴る前後のことはすっぽりと抜け落ちているから。よくよく見れば、ファウストを覚えているのではなく、『この男に殴られた』という部分だけを覚えているようだ。
姉にとって、今のファウストは以前殴られた、見知らぬ男。
乾いた笑いが堪えられなかった。はは、と笑い出したファウストを見て、姉は更に怯える。
「なんだよ、こんなの、ふざけてやがる」
ファウストは姉のために努力してきた。姉をここから解き放ち、自由にしてやるために無理もした。
姉がファウストを忘れてしまっても気にしないようにして、それなりに楽しい時間も過ごしてきたはずだ。姉もファウストの努力を認めてくれた。
それなのに、やっと姉がファウストを覚えていてくれたと思えば、これか。
――ならば、こちらも。
「がっかりだよ、姉さん」
姉はすでに部屋の隅に行ってしまっている。逃げ道を塞ぐのは、簡単なことだ。
ゆっくりと姉の方へ近付きながら、結界を張った。もう姉はファウストが結界を解くまでは部屋から出られず、また、どんなに声を上げようとも、外に届くことはない。
「やっぱりあんた、出来損ないだったんだ」
口の端が吊り上るのがわかった。もしかしたらファウストは、もうずっと前からこうなることをわかっていたのかもしれない。
「――せめて、捌け口にくらいにはなれるだろ?」
ファウストが拳を振り下ろせば、姉が痛みに悲鳴を上げる。
その悲鳴が心地良かった。これで、姉の中にファウストという存在を刻み込める。どんな形であれ、姉の中にいられるなら、それでよかった。
以来、ファウストは姉の部屋を訪れては暴力を振るうようになる。
しかし、ファウストが二十歳になった年に、姉が失踪した。初めに姉がいないことに気付いたのはファウストだった。
ファウストは後悔した。やり方を間違っているというのはよく理解していたが、それでもこれでいいのだと信じていた。姉がファウストを認識すれば、それでいいと考えていたのだ。だが、居なくなってほしいわけではなかった。ずっと傍に居て欲しかった。せめて、自分の目の届くところに居て欲しかった。
国中を捜したが、見つからない。一族も姉を捜しはしたが、元より処分に困っていたところだ、力を入れることはなかった。
そこへ、最悪の報せが届く。四大貴族の一人、あのリゼルヴィンから、姉の死亡を確認したと報告があったのだ。
ファウストの中で、何かが崩れた。ファウストをこれまで支えてきたものが、砕け散って粉々になった。
ささやかな姉の葬儀が行われたとき、リゼルヴィンも参列していた。四大貴族としてではなく、姉の友人として、だ。
姉は隠されていたが、完全に外へ出されなかったわけではなく、どうしても参加させなければならない社交の場には顔を出す程度に参加していた。また、四大貴族は家族ぐるみの交流の場を設けることも稀にあり、そのときに姉とリゼルヴィンが会話をしていたのを、ファウストは思い出した。
本当に、姉は顔を出す程度で、ずっと体が弱いことを理由に表に出る機会を減らしていた。もちろん病弱などではなかったが、在籍していた学校にも、一度も通っていない。部屋から出られないほど病弱で臥せっていることが多い、とされていた。
だから友人もいなかったのだが、リゼルヴィンは別だった。四大貴族の子のうち、女児はリゼルヴィンとその姉、そしてファウストの姉しかいなかった。リゼルヴィンの姉、レベッカはあまり四大貴族との交流を持たず、そういった場にも出なかったため、自然リゼルヴィンとファウストの姉はひとくくりにされて扱われた。すぐに帰るとは言っても、挨拶くらいは姉もさせられていた。そのときに、姉とリゼルヴィンは、顔見知り程度には仲良くなったらしい。
悲しげな顔をして、ファウストの母と話すリゼルヴィンを、そういうこともあったなとファウストはぼんやり見る。
と、そのとき、リゼルヴィンが悲しみだけでなく、何かを隠しているような表情をしたのを、ファウストは見逃さなかった。
――リゼルヴィンのせいだ。
姉をどこかへ隠したのは、リゼルヴィンだ。いつだって、ファウストから何かを奪うのはリゼルヴィンだった。今回も、リゼルヴィンが奪ったに決まっている。
「殺してやる……」
リゼルヴィンが憎かった。今すぐ掴みかかって、姉の居場所を吐かせたかった。
姉は生きている。生きているが、リゼルヴィンが隠したのなら、そう簡単には見つからないだろう。
何年経ったとしても見つけ出す。そう決意して、ファウストは姉を探す傍ら、リゼルヴィンと戦うために更に強力な魔法を研究した。リゼルヴィンを殺せるくらいの、リゼルヴィンを超える力を得ようと必死になった。
そして――深みに手を伸ばし、引きずり込まれてしまったのだ。