3-6
「なんでそんなこと言えるんだよ!」
視界が真っ赤に染まった気がした。
気付けば姉が床に倒れている。何が起きたのか理解出来ていないようだ。ファウストも、それは同じだ。
「なあ、姉さん! 俺は姉さんの弟だろ!? 姉さんは俺の姉さんだろ!? なんで忘れるんだよ! なんで忘れられるんだよ! きょうだいだろ!? なのになんで! なんで俺を忘れるんだ! こんなに、こんなにあんたのために頑張ってるのに……!」
ああ、自分は姉を殴ったのだと理解して、ファウストは叫ぶ。
何故、何故あんたは忘れるんだ。俺はこんなにあんたを想ってるのに、なんであんたは俺に少しの想いも向けないんだ。
叫ばなければ吐きそうなくらいに、込み上げてくる言葉の勢いは激しかった。ファウストにも、もうどうにも出来ない。ただ苦しかった。ただ、悲しかった。
姉はまだ状況を理解していないようだ。ファウストは馬乗りになり、姉の胸ぐらを掴んだ。
「あんたはここにいちゃいけないんだ。こんなところにいちゃあ、ただ腐ってくだけなんだ! だから俺はあんたを外に出すために、あんたの本当の価値を知らしめるために動いてきた! なのになんだ! あんたは少しも動こうとしないじゃないか! いくら俺が動いたって、手を回したって、あんたが動かなきゃ何も始まらない!」
「……動くつもりは、ないよ」
「こんなところに入れられて、まるで檻の中じゃないか! あんたは何か悪いことでもしたのかよ! してないだろ! ちゃんとしたところに行けば、あんたはもっと『天才』になれるんだ! 俺なんかよりも、ずっと!」
「あんたみたいな『天才』になんかなりたくないよ!」
初めて聞いた姉の声に、ファウストはぴたりと固まってしまう。
ゆっくりと、姉が手を伸ばし、ファウストの頬に触れた。
「あんたみたいな、『天才』なんかにはなりたくない。……なんで泣いてるんだよ」
言われて、ようやくファウストは自分が涙を流していることに気が付いた。
滑らかな白い姉の手が、慈しむようにファウストの頬を撫でる。何故か、姉も涙を流していた。優しく微笑みながらも、眉を八の字にして泣いている。
ファウストは物心ついてから初めて、声を上げて泣いた。
泣いてすっきりするというのは本当らしい。ファウストは次の日から、それまでの苦しみが嘘のように清々しい気持ちで勉学に励むようになった。家に反抗的な態度もせず、才能に甘えず努力を続ける以前のファウストに戻ったのだ。
特に何かが変わったわけではなかった。未だ一族への反感はなくならず、姉の扱いを改善させるという目標も変わっていない。ただ、やり方を変えることにしたのだ。
どんなに反抗しても、状況は変わらなかった。むしろ悪化していった。ならば、より優れた人間となり、一族の中での発言力を高め、出来るだけ早く家督を継ぐしかない。ファウストが継いでしまえば、姉の扱いを変えることは簡単だ。
どうしてこんなに簡単なことを思いつかなかったのだろう、と自分でも不思議に思ったが、とにかくファウストは更に『天才』にならないといけなくなった。他に抱える問題も少なからずあったのだが、それらすべてを無視し、ファウストは学び続けた。
それでも、あのリゼルヴィンには、勝てなかった。
ファウストが『天才』ならば、リゼルヴィンは『大天才』だ。何を学ばずとも、何をせずとも、瞬時に魔法を発動させられる。新たな魔法式を組ませれば、ファウストより複雑なものを組んで見せた。
リゼルヴィンは入学して一年で、四年間で学ぶべきものをすべて習得してしまった。
教師たちは困り果てた。ただでさえリゼルヴィンを教えられる者は少ないというのに、すべての課程を終えたとなればもう何も教えられない。並みの魔導師では手を付けられなくなってしまった。
そして、悩みぬいた結果、リゼルヴィンは学長について研究をすることになる。
それはファウストにとって最悪の決定だった。
ファウストはその頃十一歳、すでに四年間在学している。この年から学長の教えのもと、研究を始める予定だ。
つまり、リゼルヴィンと関わらなくてはならなくなったのだ。
最終的に許可を下ろした学長に抗議に行くも、学長はリゼルヴィンを手放すつもりはなく、また王直々に頼み込まれたということで、ファウストの訴えは一蹴されてしまった。ならば自分は単独で研究すると言ってみれば、学長はそれも認めない。ファウストもリゼルヴィンも、同じように期待されていた。
「リゼルヴィンと申します。お好きなようにお呼びください」
「……ファウスト=クヴェートです」
顔合わせの際の挨拶はあまりに簡素で、これから共に研究するとは思えないものだった。ファウストは不機嫌さを隠さず、リゼルヴィンは何を考えているのかわからない無表情のまま。握手をすることも、目を合わせることもなかった。学長はそんな二人の様子に苦笑した。
ファウストもリゼルヴィンも、一般的な魔法式とは異なった魔法式を持っている。ファウストはクヴェート一族が長い時の中で高めてきた魔法式を。リゼルヴィンは二つとない特殊な魔法式を。どちらも他者に組んでやることの出来ない魔法式であり、組み替えることも出来ないものだ。
似たような境遇にいたとしても、ファウストはリゼルヴィンに親近感を抱くことはなかった。極力関わり合うことを避け、本当に必要な会話のみを行った。リゼルヴィンとの研究は三年間に及んだが、その間に交わした会話は味気のない事務的な会話のみ。そのほとんどが学長を通してのものだったというのだから、なんとか仲良くさせようとしていた学長も最後の方には諦めてしまった。
ただ、一度だけ、リゼルヴィンがこちらに積極的に関わろうとしたことがあった。
「クヴェートさんは、何故この学校へ? クヴェート一族ならば、わざわざ学校に通わずとも、魔法を学ぶ手段はあるでしょう」
それは、実験の最中のことだった。
リゼルヴィンの卒業が近付き、これが最後の実験となるときだった。純度が高すぎて危険だとあまり使わなかったリゼルヴィンの血液を、特別に使って大魔法の魔法式を組んだ。本来なら貧血になるほどの量の血液を抜いたというのに、リゼルヴィンはそんな素振りも見せずに実験に立ち会っていた。実験に使った広間に、甘ったるい匂いが充満したのを覚えている。何人かが、魔法陣を描くのに使ったリゼルヴィンの血液を、床に這いつくばって啜ろうとした。魔導師にリゼルヴィンの血液はあまりに危険だ。かなりの実力と経験を持つ魔導師でなくては、血液に含まれる魔力にとりつかれ、それを取り込みたいという欲求に抗えない。リゼルヴィンの魔力の純度は、規格外なほどに高すぎる。
なんとか耐えられた研究員たちが準備をしている間、血液を提供し少し休んでいたリゼルヴィンに呼び止められたファウストは、何故、と問われたものに答えられなかった。
「こちらに入れば、他の魔導師との繋がりが作れます」
正直に言えば答えたくなかったのだが、同じ四大貴族であり、跡継ぎだ。あからさまな態度で関係が悪くなるのはよくないと、なんとか答える。すると、リゼルヴィンがふ、と笑った。
「意外です。クヴェートさんは、もっとありきたりで綺麗な答えを返すのだと思っていました。そちらが本当の、クヴェートさんなのですね」
そう言って、リゼルヴィンは困ったように笑う。下手な笑顔だった。子供の作り笑顔でも、もう少し上手い表情が作れるはずだ。
しかし、ファウストは呆気にとられてしまう。ほとんど話をしなかったリゼルヴィンが、ファウストに向けて、初めて笑顔を見せたのだ。裏に何かあるのではと思ってしまう。
「あなたは、どうなんです」
「私、ですか?」
つい、訊き返してしまった。自分でもそんなことをしたことに驚きつつ、返答が気になる。
リゼルヴィンは悩む様子もなく、さらりと答えを口にした。
「陛下が、この学校に入学せよとおっしゃったからです」
「……陛下が?」
「はい。私がそろそろどこかの学校に入学しなければならない、となった頃に、紹介状を書いてくださいました。こちらの学校で魔法について深く学び、研究し、将来は国のために働くようにと命じられたので、それに従ったのです」
今度も、初めてだった。リゼルヴィンが自身の話をこれほど話すのは、四年間の学校生活で、これが初めてだった。ファウストはまた驚く。寡黙で常に静かなリゼルヴィンが、よりにもよってファウストに話をしたのだ。何を考えているのかまったく読めない。
「何故、このような話を」
「クヴェートさんにはこの三年、たくさんお世話になりました。私一人では出来ないことを手伝ってくれましたし、私には出来ないことをやってくれました。ですが、私はクヴェートさんを避けてばかりいたので、これでは感謝も伝えられないと、少しだけ距離を詰めてみることにしたんです。クヴェートさんが、私を避けていることも、知っていたのですが」
また、リゼルヴィンは困ったように笑う。
同時に、ファウストは息苦しくなった。
「私などの我儘で話をさせてしまって、申し訳ありません。とても不快だったと思います。三年間、ありがとうございました」
綺麗にお辞儀をし、リゼルヴィンはファウストの横を通って魔法陣の中心へ向かう。今回の実験では、リゼルヴィンが核となって魔力の流れを制御し、魔法を発動するのだ。
リゼルヴィンの準備が終わっても、言いようもない息苦しさがファウストを襲っていた。それはどうにもならなくて、充満する甘い匂いが気分を悪くする。吐き気すらした。
意識を保つぎりぎりのところで傍にいた学長に体調不良を訴え、退出する。扉を開いたとき、振り返って目が合ったリゼルヴィンの琥珀の瞳は、不気味に光っているように見えた。
ファウストは、逃げた。リゼルヴィンのその瞳が、その魔力が、言葉が、才能が、何もかもが恐ろしかった。
後に、実験は成功に終わったと聞いた。リゼルヴィンはファウストと顔を合わせることなく、王立魔法学校を卒業した。