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つまるところ、今はミランダと名乗っている姉も、ファウストも、互いに互いを羨んでいたのだ。
姉こそが本物の『天才』だと思い込んだファウストは、心から姉を慕い始めた。一方で、姉をこんな目にあわせている自らの家族を、極端に嫌うようになる。
汚らわしく思った。姉はお前たちより劣った存在などではなく、お前たちが足元にも及ばないほど優れた人間なのだと嫌悪しか感じなかった。
貼り付けていたクヴェートの子としての顔も無意味に思え、自分がしたいように動くようになった。それまでのファウストが絶対にしないようなことにも手を出した。
すべて、クヴェートの名を貶めるための行動だった。そのついでに、自分へのしかかる期待が少しでも減ればいい。そう思わなかったと言えば、嘘になる。
とにかく一番の目的は、姉の価値を周囲に思い出させることだった。ファウストが生まれるまで、姉は使い道のある道具として少なくとも今よりはいい待遇だったらしい。せめてそれくらいに、しっかりとした教育が受けられるくらいには持っていきたかった。
そのために、まずはファウストが使い物にならない道具だと思わせることが、一番の道だと思った。ファウストのせいで姉の利用価値がなくなったのだとしたら、ファウストこそ価値がないと思わせればいい。そうすれば、姉を再び政略結婚の駒として利用しようと考え直すかもしれない。
王立魔法学校に通っていたファウストは、まず授業態度をこれでもかというほど悪くした。試験では、手を抜いても優秀な成績を取ってしまうからだ。他の生徒を見下した態度を取った。周りから見れば、憎たらしいほど才能にあふれた生徒に見えていたことを、ファウストは知らない。知ろうともしていない。
結果から言えば、それはすべて逆効果だった。ファウストの態度が悪くなったのは、『天才』故に凡人を理解出来ず、その愚かさに呆れているのだと噂されるようになり、ますますファウストは『天才』と呼ばれるようになる。
一族はいっそう姉のことを記憶から消し去ろうとし始めた。姉の扱いが、さらにさらに悪くなっていく。
予想もしていなかった事態に、ファウストは唖然とした。
多少無理をしてでも、嫌な人間を演じていたつもりだった。才能があることは認めていたファウストだが、今までそれをひけらかし、努力を怠ることは絶対になかった。ファウストはそんな人間が何よりも一番嫌いだったのだ。自ら進んでそんな人間になろうとは、姉のことがなければ絶対にしなかっただろう。
ファウストは、一方では歪んだ人間だったが、一方ではまともで誠実な人間だった。
姉に対するものとは違い、母はファウストに対しては良き母親だった。時に叱り、時に褒め、よく母親としての仕事を果たしてくれていた。尽くしてくれていた母の誇りを傷つけることに心を痛めることもあったが、やはり姉のことを思えば、その母すらも敵に思えてしまう。
日に日にファウストは、自分が何を成そうとしたのかわからなくなっていった。姉のためだ、姉の不当な扱いを改めさせるためだと自分に言い聞かせていても、むしろ悪化してく現実が苦しくてたまらない。
世界とはこれほど苦しいものだったか。日毎ファウストは疲れ、やつれていった。
姉は、変わらなかった。どれほど自分の扱いが悪くなっていっても、部屋から出ることを完全に禁じられても、何も言わなかった。不当な扱いを嘆くことも、怒ることもなかった。
では何故、自分はこんなにも苦しんでいるのか。
その答えはただ一つ、ファウストもよくわかっている。ファウストが勝手に憤り、勝手に行動しているだけだ。だから姉に責任はない。そう、よくわかっていても、親類への怒りが姉へと向けられるのを止められなかった。
ファウスト自身で決めたことだ。責任をどこかに押し付け、八つ当たりをすることは、自分自身が許せない。耐えようとした、耐えようと決めた頃。
初めて、ファウストは挫折する。
エンジットでは、貴族の子は成人とされる十六までに必ず四年、学校に通わなくてはならない。最悪でも十二には入学しなければならないということになり、大抵は十歳頃に入学する。国に学校として認められていれば、どの学校に入るかは自由だ。十六に必ず卒業すれば、何年でも居ていい。
ファウストは六歳のとき、王立魔法学校に入学した。それから一度も、校内一位の座を譲ることはなかった。座学も実技も何もかも、入学したばかりのころでさえ、ファウストに勝つ者はいなかったのだ。
しかし、その年に入学したある一人の女が、ファウストを軽々と超えてしまう。
リゼルヴィン。黒い髪と琥珀色の瞳を持つ、四大貴族の一つである『紫の鳥』の子。
入学試験で、ファウストが残した魔力量の最高記録の、優に二倍を行く魔力を持つ女。
いくら成人に間に合うとはいえ、余程の事情がない限りぎりぎりの卒業となってしまう十二で入学する者はいない。女児であれば結婚のため、男児であれば家督を継ぐ勉強に駆り出されるためだ。ほとんどの生徒がリゼルヴィンに興味を持った。
何より、リゼルヴィンは『黒い鳥』ではないかと恐れられていた。若者の集まる学校だ、恐れよりまず興味が先走る。
初めは皆、リゼルヴィンに好意的だった。何と言ってもあのシェルナンドが『黒い鳥』ではないと宣言しているのだ、必要以上に恐れなくても大丈夫だと、誰もが思っていた。そして、四大貴族はどこへ行っても常に注目の的だ。少しでも近付いておきたいと考える者も、少なくなかった。
魔導師であったシェルナンドも、稀にリゼルヴィンの様子を見に学校に来ることがあった。魔法に関する研究の進度を確認するためという名目ではあったが、リゼルヴィン目当てだと誰の目にも明らかだった。王に近付いておきたいと考える者も、リゼルヴィンに近寄った。
だが、それらの人間はすべて、リゼルヴィンの力を見て、その傍を離れて行った。
それほど圧倒的だったのだ。リゼルヴィンの持つ力は。
近付かず、遠くから注意深く観察していただけのファウストでさえ、あの女の力は恐ろしいと感じたほどだ。リゼルヴィンはあまりに強かった。授業で試しに魔法を発動させてみれば、暴発こそしないものの、教師ですら手が付けられないほどのものを見せつける。制御出来るのは、リゼルヴィン本人だけだった。
誰もが思い出す。『黒い鳥』ではないと宣言されていても、『黒い鳥』になる可能性までは否定されていないことを。
すぐに腫物のように扱われ始めたリゼルヴィンを、ファウストはざまあみろと心の中で笑った。ファウストに代わって常に一位であり続けたリゼルヴィンに興味がないふりをしながらも、その実これ以上ない屈辱をファウストは味わっていたのだ。怒りと悔しさと、そして嫉妬が、ファウストを焼いていた。
苦しんでいるときに、また新たな苦しみが加わって、どうにかなってしまいそうだった。
愛しい姉の顔を見れば、少しは気分が晴れるだろうと、いつものように姉の部屋の扉を開けたとき。
こちらを見た姉が、口にしたのは。
「……どちらさま?」
今、ファウストが一番聞きたくない言葉だった。