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その部屋に頻繁に足を運ぶことは、母によって禁じられていた。
「……えーと、ごめん。誰だっけ」
「俺だよ、姉さん。あんたの弟だ」
名前を言って自分のことを思いだしてくれるかは、そのときの運だ。この日は、どうも運が悪い日だったらしい。うんうん悩んだ後、申し訳なさそうに思い出せないと告げる声は、ファウストの胸を抉った。
そんなことはいつものことだ。ファウストももう慣れて、落ち込むようなことも少なくなっている。
姉の部屋はファウストの部屋に比べて狭い。初めて足を踏み入れたときには、まるで住み込みの使用人の部屋だと思ったものだ。
この頃のファウストは、毎日のように姉を訪ねていた。
あまり深く関わってはいけない、と言い聞かされ、ファウストが六つになるまでは姉がいることすらも隠されていた。
母は姉のことを『出来損ない』と言い、親類も彼女のことをまるで物のように扱っていた。
最初の頃はファウストもその言葉を信じ、周囲の人間と同じように接していた。姉は『出来損ない』であり、一族に泥を塗る存在。だから敬う必要はないし、いないものとして扱ってもいいのだと、思い込んでいた。
それは今でも変わらない。姉は『出来損ない』だ。『天才』と呼ばれ、一族で最も優れている自分のことをなかなか覚えない人間など、出来損ないと呼ばずして何と呼ぶべきか。ただ、ファウストは、家族思いの自分でいるために、表面だけは取り繕っておこうと思っただけだ。
しかし、この日、ファウストは姉を心底慕うようになる。
「……それ、こうした方がいいと思う」
姉が読書をしている隣で、ファウストが空中に魔法陣を描いて暇をつぶしていたときだ。浮いていたファウストの指を取り、陣に線を一本付け足した。
魔力を持たない姉には、見えないはずだ。
驚いて姉の顔を見ると、すでに読書に集中しなおしている。
これは一体どういうことだ、と目に魔力を集中させ、姉が魔力を持っているかどうかを見直す。しかし、姉の体には一切魔力はなく、魔力の代わりとなるものもない。
姉が線を付け足した魔法陣を見ると、それはファウストが先程描いていたもの以上に精度がよくなっている。
姉は魔力を欠片も持たないが故に、一族の恥とされた。記憶力の悪さもあり、本家の娘だというのにこんな扱いをされている。
それなのに、どういうことだ。ただの暇潰しで描いていたとはいえ、『天才』であるはずのファウストが組み立てた魔法式を、ファウスト以上のものにしてしまうとは。それも、たった一本線を付け足すだけで。
「どうして、こうした方がいいってわかったんだ」
ファウストがそう問えば、こちらを向いた姉は不思議そうに答える。
「だって、どう見たってそっちの方が綺麗じゃないか」
何事もバランスが大切なんだよ。分量でもなく、質の良さでもなく、それぞれの材料をバランスよく組み合わせることが一番大切だ。
姉は、物事はすべてバランスを整えてやるだけで上手くいくものだと言った。
それはファウストが今まで信じてきたものすべてを覆すものだった。
どれほどの魔力を込めて発動させるかが肝心である。魔導師にとって魔力の質の高さ、そして魔力の量の多さが肝心である。
そう教えられ、そう信じてきた。だが、姉はそんなことはどうでもいいのだと笑う。
「どんなに元がよくたって、その力を使いこなせるかどうかは自分次第だ。だから質も量も大して意味はない。まあ、私が『出来損ない』だからそう思いたいだけかもしれないけどね」
――あんたは何もわかってない。
無性に腹が立った。殴ってでも発言を撤回させたくなった。
けれど、ファウストはそうはしなかった。出来なかった、というのが正しいかもしれない。
気付いていたのだ。クヴェート一族が、その血の力を過信しすぎていることを。気付いていて、ファウストは気付かないふりをしていた。
そして、『出来損ない』と呼ばれるこの姉の言うことに、救われたような気がした。
一族の期待を一身に背負い、『天才』であることを強要され、少しの失敗も許されない。どこへ行っても期待され、どんなに苦しくともクヴェートの子であることが逃避の道を塞ぐ。重圧が、ファウストを押し潰そうとしていた。
「――あんたはここにいちゃいけない」
姉は『出来損ない』ではない。姉は素晴らしい人間だ。自分よりも、『天才』に相応しい。
隔離され、軟禁状態にあるにも関わらず、そんな考えを持つ姉が、ファウストには眩しく、美しく見えた。記憶力が悪いことなど気にならないほど、優秀な人間に。
こんな家にいてはいけない。のびのびと学ぶ場所さえあれば、根気よく知識を与えてくれる人間さえいれば、姉はきっとファウストとは比べ物にならないほど『天才』になるだろう。今はただ、環境が悪いだけだ。本物の『天才』は、一見平凡より劣っているように見えるという。姉は本物の『天才』なのだ。
同時に、ファウストは思う。
自分が『出来損ない』であったら、どれだけよかっただろう、と。