2-5
ノックの音が聞こえて、ジュリアーナはようやく我に返った。すでにそこにシェルナンドの姿はない。
力の入らない足を無理に立たせて、一度鏡を覗き込む。ここ最近はどうも表情が変わりやすくなっており、いつもの無表情を保てなくなっていた。今回も少々絶望が顔に残ったままだったが、それを気にしている暇はジュリアーナにはない。何よりも、リゼルヴィンに命じられた仕事が最優先なのだ。
扉を開けると、ラーナが慌てた顔で立っていた。
「ちょっと、ジュリアーナ! お願い今すぐ玄関に来て! 私じゃ対応出来ないよ!」
「落ち着いてください、一体どうしたんですか」
「落ち着いてなんかいられないよ! ああもう! とりあえず来て!」
何があったのかわからないまま、ラーナに手を引かれて玄関まで出てみれば、そこには一人の男がいた。この街の住人ではない。
ジュリアーナにとってその男は、シェルナンドやレベッカと同じ場所に並ぶ相手だ。
「……主さまは現在、お出かけになっております、アルベルトさま」
アルベルト=メイナード。四大貴族の一角を担うメイナード侯爵家の当主にして、リゼルヴィンの夫である男。
なるほどこれはラーナが対応出来ないというのも頷ける。
挨拶もなしにリゼルヴィンの不在を告げたジュリアーナに眉一つ動かさず、アルベルトは何を考えているのか読み取れない無表情のままだ。ジュリアーナとはまた違った、感情を表に出さないよう訓練された人間の無表情。
「しばらくはお帰りにならないとのことですので、どうかお引き取りください」
ジュリアーナは口調がきつくなるのも抑えずに言う。アルベルトは、何か考えるような様子を見せただけで動かない。
この屋敷から、この街から一刻も早く立ち去ってほしいジュリアーナは、いらつきながらそれが終わるのを待つ。
「正確な時期はわからないのか」
「私どもには何も聞かされておりません」
「何のために外へ」
「昨日、主さまは四大貴族としてではなく、『王家の奴隷』としてお出かけになりました」
アルベルトの声は冷たい。不快に思っているのだろう。どんなに訓練され表情は隠せても、声は隠せない。たとえ上手く隠せたとしても、ジュリアーナやこの街の住人には、滅多なことでは隠しきれない。この街は悪人の街だ。悪人は、他人の心の動きに敏い者が多い。
そしてジュリアーナは、一瞬だけ、アルベルトが不快そうな表情をしたのを見逃さない。
「てめえよくも勝手に入り込みやがって!」
お引き取りください、ともう一度口にしようとしたそのとき、セブリアンが乱入してきた。怒っているのが誰の目にも明らかな表情をして。
アルベルトに掴みかかり、セブリアンは叫ぶ。
「この街に来たくねえっつったのはどこの誰だ! 今更になって、まだリルを苦しめる気か!」
セブリアンの怒りの理由に気が付いたジュリアーナは、その加勢に入りたくてうずうずしはじめたが、後ろで狼狽えているラーナを思い出してすんでのところで理性を保つ。
ただし、心の中ではセブリアンを大いに応援していた。
アルベルトはリゼルヴィンの敵だ。それならば、ジュリアーナにとっても、この街にとっても敵である。
「リル、とは、リゼルヴィンのことか」
静かに、アルベルトが問う。
それには苛立ちが込められていた。表情も変わり、セブリアンを憎々しげに睨みつけている。
隠しきれなくなったのか、隠すのをやめたのか。どちらにせよ、そんなもので怯むようなセブリアンではない。ハッと鼻で笑い、口の端を釣り上げて、アルベルトを見返す。
「俺とリルは他人が踏み込めねえほど仲がいいんでな。てめえとは違って、愛称で呼ぶことも許されてんだよ」
「誰に向かってそんな口を利いている。今すぐこの手をどけろ」
「あいにく礼儀正しい言葉使いなんざ教えてもらえなかったんだ。俺が知ってることなんて、てめえを殺す方法くらいなもんよ」
「それを実行出来るのならばやってみればいい。すぐさま牢獄行きだ」
「そんなもん怖くねえんだよ。法で縛られてること自体が俺らにとっちゃ牢屋に入れられてんのと同じだ。そんなもんのために我慢するような、俺らはそんなイイヒトじゃねえ」
セブリアンの声が一際低くなる。
ウェルヴィンキンズでは見慣れた、人殺しの顔をした。
「殺したきゃ殺す。それが俺らだ。てめえがリルの旦那でなけりゃ、この街に入った瞬間ぶち殺してる」
睨み合う二人に、ジュリアーナは溜め息を飲み込んでセブリアンの手を取った。
そろそろ止めなければ、本当にアルベルトが死んでしまう。ジュリアーナ個人としてはセブリアンと共に殺してやりたいのだが、そうしてしまえばリゼルヴィンに迷惑がかかってしまう。ラーナは怯えたままだから、ここはジュリアーナが止めるしかないのだ。
セブリアンもジュリアーナの気持ちを理解してくれたようで、舌打ちを残して手を乱暴に放した。動じる様子もなく服の皺を軽く伸ばすアルベルトはセブリアンをまた刺激してしまいそうだったが、ジュリアーナが名前を呼ぶと、なんとか堪えてくれる。
「アルベルトさま、今日のところはどうかお引き取りください。この通り、私どもはあなたさまのことを好ましく思っておりません。ましてここはウェルヴィンキンズ、何が起こっても不思議ではない街です。いくら昼とはいえ、あなたさまがこの街にいると、あなたさまの身が危ないのです。我が主さまはそれを望んではいませんので、一刻も立ち去ってください」
「俺が辛抱してる間に行け」
リゼルヴィンはあまり言葉使いを指摘することがなかったため、ジュリアーナは自分が使う敬語が正しいのかどうかわからなかったが、とにかくアルベルトに去ってもらいたくて早口で捲し立てた。セブリアンはまだアルベルトに鋭い視線を向けている。
「そうさせてもらうことにしよう。ここを訪ねたこと、リゼルヴィンに伝えてくれ」
「必ずお伝えします」
溜め息交じりにアルベルトがそう言って背を向ける。
ジュリアーナが軽く頭を下げ、見送ろうとしたそのとき。
「アルベルトさま?」
騒がしくしていたのが聞こえていたのだろう。
心底ジュリアーナはリゼルヴィンがこの場にいなくてよかったと安堵する。こんな場面、リゼルヴィンには見せられない。
「お久し振りです、レベッカ」
「ああ、やっぱりアルベルトさまだったのね! 本当に久しぶりだわ、またお会い出来てうれしい」
「私もですよ」
屋敷の奥から出てきたのは、他でもないレベッカで。
アルベルトの顔にそれまでの無表情はなく、目にした女性全員が熱っぽい溜め息を吐きそうな笑みを浮かべている。
リゼルヴィンがいなくてよかった。三年前のあの出来事を知っているジュリアーナは、怒りと共にそんなことを思う。セブリアンもそうなのだろう。彼から発せられる殺気がより激しいものになったのを見ると、そろそろ我慢の限界が近付いてきてはいるのだろうが。
レベッカはぱあっと花のような笑みを浮かべて、アルベルトに駆け寄る。アルベルトも、笑みを浮かべたまま、それを受け入れる。
「相変わらずのようね。女なら誰でも惚れそうなその顔、とっても懐かしいわ!」
「そんなことはありませんよ。あなただって相変わらずお美しい」
「まあ、ありがとう」
楽しげに話す二人だが、その会話が続くにつれ、ジュリアーナとセブリアンから放たれる殺気が鋭さを増す。
「ジュリアーナ! なんとかしてよぉ!」
これはまずいとラーナがジュリアーナの袖を引っ張って声を掛けると、冷静さを取り戻したジュリアーナがしかめっ面のまま二人に一歩近づいた。殺気が隠しきれていないが、なんとか笑顔を作ろうとして顔が引きつり、諦めてまたしかめっ面になる。
「楽しそうなところ大変申し訳ありませんが、レベッカさま、お部屋にお戻りください。アルベルトさまも、早くお帰りください」
「せっかく来てくれたんだから、そのまま帰すなんて失礼よ! リゼルヴィンはそんなことを教えたの? あの子は駄目ね。昔から使用人との距離が近すぎるんだから」
「主さまを悪く言うのは、いくら姉君でも許しません」
強く言ったジュリアーナに、ぴくりとアルベルトの眉が動いた。何を感じたのかは知らないが、妻を悪く言われたのに反論もしない夫であるアルベルトに不快感を与えたとしても、ジュリアーナは気にしない。そんなのは夫ではない。ジュリアーナのような人間を拾ってくれた、優しいリゼルヴィンには釣り合わない。アルベルトを、ジュリアーナは認めていないのだ。
ゆっくりと呼吸をして気持ちを落ち着かせ、ラーナにレベッカを部屋へ連れ戻すよう頼む。
「アルベルトさま、再三申し上げておりますが、このままではあなたさまのお命の保証が出来ません。気付いているとは思いますが、私も、そちらのセブリアンも、その気になれば今すぐあなたさまを殺すことが出来るのです。それだけの嫌悪があるのです。ですからどうか、私どもが我慢出来ている間に、お帰りください」
今この屋敷を任されているのは、ジュリアーナだ。リゼルヴィンが屋敷を出る前に、ジュリアーナにすべてを任せると言っていた。だから、ジュリアーナはこの屋敷を守らねばならない。
アルベルトがやってきたことも、本当は知らせたくない。
再び軽く頭を下げ見送る体勢を取ったジュリアーナに、笑顔を消し無表情に戻ったアルベルトも背を向ける。
「――リゼルヴィンは、彼女と仲直りをしたか」
振り返ることなく、アルベルトがどこか期待した声でそう問う。
「主さまは、姉君のことを嫌っていらっしゃいます。それがどうかなさいましたか」
「……いや。何でもない。忘れてくれ」
そう言ったアルベルトの声は、明らかに落胆していた。そして、ようやく屋敷を出ていって、馬車の音が遠のいていくのを聞いてジュリアーナはようやくもとの無表情に戻る。
アルベルトが何を思ってそんなことを訊いたのか、ジュリアーナにはまったくわからない。
だが、セブリアンは何かに気付いたのか、顎に手を当てて考え込んでしまった。