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リゼルヴィンの隣に立つのは常に自分でありたいと、ジュリアーナは願い、それを叶えるために努力をしてきた。
ジュリアーナは普通とは言い難い育ちだったため、世間一般の常識も知らず、まずそこから教えてもらう必要があった。だが、リゼルヴィンは嫌な顔一つせず、優しく一から教え、育ててくれた。何かものを考えることもしたことのなかったジュリアーナに、感情を教え、考えることを教え、自らの意思で行動することを教えた。それが今のジュリアーナを人間にして、今の人格を作り上げたのだ。
初めにリゼルヴィンに対して感じたのは、疑問。
何のために自分を助け、人間として育て上げたのか。なんの力も持たないジュリアーナを育てても、何もいいことはない。
次に感じたのは、感謝だった。
ジュリアーナを助け育てたことにどんな理由があっても、あの場所から救い出してくれたことには変わりない。ジュリアーナに温かい食事と、柔らかなベッドと、しっかりと体温を守ってくれる服を与えてくれた。風呂にも入れて清潔を保てる。何より、傍にいてくれる。
それがどうしようもなく嬉しく感じ、リゼルヴィンをどうしようもなく好きになった。感謝してもしきれない、という感覚を知った。
だから、ジュリアーナはリゼルヴィンへのせめてもの恩返しに、その隣にいようと決意したのだ。
リゼルヴィンは孤独な人だ。聞くところによると、神話の『黒い鳥』のせいで幼い頃から親しく話しかける者はいなかったらしい。両親でさえ、純粋に愛してやっているようではなかったと。
今のウェルヴィンキンズには、リゼルヴィンの幼少期、少女期を知る者は少ない。三年前にこの街はがらりと変わった。もともとこの街は特殊で、何年か住んで違う街に移る住人がほとんどなのだ。ジュリアーナの知り合いの中では、セブリアンしかリゼルヴィンの過去を知らない。そのセブリアンも、あまりリゼルヴィンの過去を教えようとはしない。
それでもぽろりと口から出てきた言葉に、ジュリアーナは怒りを感じた。リゼルヴィンに罪はないのに、神話などのせいでリゼルヴィンが苦しむのは理不尽だ。
そして、知った。ジュリアーナの中に、王であったという男がいることを。
リゼルヴィンはジュリアーナではなく、その男、シェルナンドを見ていたのだ。ジュリアーナがシェルナンドの器となるには、しっかりと人格が形成される必要があった。器にも魔力が必要であり、魔力をあまり持たなかったジュリアーナは、精神力を魔力に変換すれば器になれる。そのために、ジュリアーナはリゼルヴィンに育てられたのだ。
そう知ったとき、ジュリアーナの中のシェルナンドが目覚めてしまった。目覚めたとき、シェルナンドの記憶がジュリアーナに流れ込んできた。
それを見て、知ったのは、シェルナンドこそがリゼルヴィンのすべての不幸の元凶であるということ。
シェルナンドが憎くなった。ジュリアーナは、炎のような憎しみを覚えた。
夜になれば、シェルナンドがジュリアーナの体を奪い、好き勝手に動き出す。不快だった。この体は自分のものだと、押し込められた精神世界の中から、何度も何度も叫んだ。リゼルヴィンの隣に立ち、時に前を行くシェルナンドの首を絞めたくなった。
シェルナンドの目を通してみたのは、リゼルヴィンの幸せそうな顔。
ジュリアーナには見せない顔だった。子供のように無邪気に笑っていたのだ。あの、不気味な魔女のような笑みではなく。
まるで、大好きな父の隣に立てることを喜ぶ、娘のような――。
「だからお前が嫌いだ。死ね。殺してやる」
憎悪の燃える瞳でシェルナンドを睨みつけるジュリアーナを、シェルナンドは鼻で笑った。
何を思ったのか、シェルナンドはジュリアーナの部屋に訪れ、我が物顔で居座り何故嫌うのかと問うた。その美しい碧眼を見ると、その問いに答えなければならなく感じ、つらつらと答える。
つまらないのか、それとも面白がっているのかもわからないほど変わらないシェルナンドの表情に、苛立ちが積もっていく。
シェルナンドはリゼルヴィンの屋敷に戻っても、ジュリアーナの中に戻ろうとはしなかった。片方の目だけがくすんだ青をしており、その眼球を見る度、どうして言われた通りに渡してしまったのかと後悔する。眼球を渡し、シェルナンドに肉体を与えてしまったから、リゼルヴィンがあんなに苦しんだのだ。いっそ死にたいくらいに後悔している。
「貴様を作ったのには、二つ理由がある」
シェルナンドが徐に立ち上がり、鏡の前に立った。
鏡にシェルナンドの姿は映らない。ジュリアーナの眼球によって肉体を得ることは出来るが、すでに存在していないシェルナンドのその肉体は魔法で作られている。魔法とは思い込みのようなものだと、シェルナンドは言った。思い込みは、真実を映し出す鏡には映らないのだと。
「一つは、余の器にするため。死んでしまっては何も出来ん。何かを成し遂げるには、生きていなければならんのだ。だが、死を覆すことはあの女にしか出来んだろう。ならば依り代を、器をと探しているうち、貴様が最も適しているとわかった。あのような育て方をしたというのに、最も才能があったのだ。これには余も驚いたぞ」
その頃を思い出したのか、シェルナンドは懐かしそうに目を細めた。
こちらに向きなおしたシェルナンドは、今までジュリアーナが見たことのない表情をしていた。普段からは想像も出来ないほど、優しく、柔らかに微笑むのは、まるで――
「もう一つは、簡単なことだ。あの女に、同性の友人を持たせてやりたかった」
――娘を想う父親のような。
「余はな、知っての通り人でなしだ。だが、約束は守る人間だ」
信じられない思いでジュリアーナがシェルナンドを見ていると、シェルナンドは苦笑し、こちらに寄ってくる。
思わず後ずさると、どこか悲しそうな表情をした。
「そうだな、そう反応されるのが余には相応しい。余は愚かな父親だ。一人の娘を守るために、他の娘たちを犠牲にする」
一体どうしてしまったというのか。こんなのはシェルナンドではない。
戸惑い、ジュリアーナは部屋の隅へ逃げる。シェルナンドはやはり、悲しそうに微笑むだけ。
「血の繋がりはない。養子でもない。だが、あの女は――リースは余の娘だ。あれがそう望み、余がそれを叶えてやりたいと思った。父親とは、娘を守るもの。余は死んでもリースを守りたかったのだ」
「意味が、わからない。どういうことだ、なぜ、貴様が、そんな……」
シェルナンドから滲む優しさを、リゼルヴィンへの想いを、ジュリアーナは理解したくなくて頭を振った。
それは、ジュリアーナが得られなかった、家族を想う優しさ。そして、リゼルヴィンが得られなかったであろうもの。
ならばシェルナンドはリゼルヴィンの敵ではないのか。しかし、それならばリゼルヴィンが不幸になることなどなかったはずだ。
「余はリースに約束した。おまえが死ぬまでは、守ってやると」
「黙れっ!」
これ以上聞いていたら、ジュリアーナの支えとなっていた二つの感情のうち、一つが崩壊してしまう。
俯き、あの地獄の日々を思い出す。そうして、リゼルヴィンのことを想って、憎しみの炎を絶やすまいと歯を食いしばった。
シェルナンドの優しい微笑みが、普段の人を見下した笑みになっていくことに、ジュリアーナは気付かなかった。