2-3
リゼルヴィンが従わねばならないのは、契約を交わした王のみではない。王がこの者には従えと言えば、どんな相手であっても、逆らうことは出来ない。
エグランティーヌは『王家の奴隷』となれ、とリゼルヴィンに命じた。
対象がいくつかいる場合、主となった王の考える相手が対象になる。エグランティーヌは、フロランスを含めてそう命じていた。
「……最悪よ。あなた、一体どうしたっていうの」
絶対にやらないと契約による強制力に抵抗して、激しく咳き込み、血を吐いたリゼルヴィンが落ち着いたのは、しばらく経ってからだった。
抵抗をやめたのだろう。肩が上下しているが、咳は止まっている。
いつもの冷たい表情になったフロランスは、手を貸すこともなく、ただ見ているだけだった。
「そこまで言うならやってやるわよ。派手に殺してやるわ」
憎々しげにフロランスを睨みつけ、ふらふらと立ち上がったリゼルヴィンは、袖でぐっと口の周りについてしまった血を拭う。
呼吸が整うと、床に飛び散った血をそのままに、フロランスに声もかけず部屋から出た。その頭の中では、どうやって殺そうかいくつかの計画がすでに立てられ始めている。
リゼルヴィンが出て行った部屋の中では、フロランスが頭を抱えて苦悶の表情を浮かべていた。
フロランスとて、こんなことを命じたくはなかった。今は手を引いているものの、政治を行う立場にいた人間なのだ。リゼルヴィンに命じたことが、どれほど危険なものなのか、よく理解している。
「私も、弱くなったものです」
「賢明な判断だったのでは」
フロランスの呟きに返す声があった。そこに姿はない。男の声なのかも、女の声なのかもあやふやな声だけが響いた。
自嘲するように薄らと笑って、フロランスは顔を上げた。静かに、涙が頬を濡らす。
「これが賢明だとすれば、誰も死なず、リゼルヴィンにも苦しい思いをさせずに済むはずです。……リゼルヴィンは、あの方が、最後まで守り抜いたものだというのに」
「憎くはないのですか。自らが産み落とした子ではなく、他人であるあの女を我が子のように可愛がった夫君が」
くだらない問いだとでも言いたげに、鼻で笑う。
フロランスは王妃だった。今となっては国母である。
よって、その問いの答えは、訊くまでもない。
「この国に生まれた者は、皆私の子です。それに、例え私が国母となっていなくとも、あの方がリゼルヴィンを娘だというのなら、リゼルヴィンは私の娘でもあります」
「王太后さまも大変なお立ち場だ」
「私は母であるべきなのです。あなたが私の前に現れなければ、母であり続けることが出来たのに」
「それはそれは……。ですが、これでよかったとお思いになる自分も、いらっしゃるのでは?」
その声は次第に大きくなるようだった。フロランスの心の隙間にするりと入り込み、染み付いて、内側から溶かしていくようだ。
ここで答えてはならないと、歯を噛みしめる。リゼルヴィンと向かい合っていたときも、必死になって心を大きく揺らさないよう冷静を装っていたのだ。今も、きっと乗り越えられる。
そんなフロランスを笑うように、声は囁きに変わる。
「認めてしまえばいいのですよ。なに、王太后さまも、国母である前に、一人の人間だ」
シェルナンドを思い出す。気高く、その姿はまさに『黄金の獅子』であった。
彼の後を追って死んでいればよかったと思う。そうすれば、今、こんなことにはなっていなかった。フロランスはこんなにも弱くはならなかった。
「黙りなさい。あなたなんて、きっとリゼルヴィンが排除してくれます」
「それはどうだか。あの女は、まだ私が誰か気付いていない。気付かないどころか、簡単に罠にはまってくれる。自滅を辿るのも、時間の問題でしょう」
「……黙りなさい。それ以上私の娘を侮辱することは許しません」
「わかりました、王太后さま」
笑いの滲む声でそう言って、消える。
傍から見ればおかしな人間だろう。誰もいない場所で、ただ一人でぶつぶつと呟いているだなど。あの声はフロランスにしか聞こえないらしい。こんなところ、誰にも見せられない。
かつての自分は、シェルナンドの隣で、どんな醜いものを見ようと眉一つ動かさなかった。常に冷静に、人に言われるように厳粛で賢明な王妃でいられた。
それなのに、今はどうだ。
子を守りたくて仕方ないただの弱い母親だ。エグランティーヌを守るには、あの声に従って、エンジットに災いを呼び込むことしか道はなかった。
「アルヴァー=モーリス=トナー……」
声が名乗ったその名を、どれだけ探しても見つかりはしなかった。どこかで聞いたことのある名前なのに、それをどこで聞いたか思い出すことも出来ない。
せめてあの声に流されないように。あの声に流されてしまえば、フロランスという人間でいられなくなるのはわかっていた。
命じられてしまえば、リゼルヴィンは動くしかない。そこにリゼルヴィンの心は必要なく、最も効果的な方法でやり遂げるのみ。
「今すぐ王都へ向かって。私はしばらく街屋敷に滞在するわ。キャロルを呼んで一緒に来て」
「なんでまた急に」
「わけは後で話すわ。早くこんなところから出て」
言われるがままに、リズは馬車を走らせた。リゼルヴィンは酷く機嫌が悪いらしい。
こんなときのリゼルヴィンは手の付けられないほどの負の感情を抱えている状態なため、何も訊かずに従った方がいい。下手に刺激すれば、肉体を再生出来ないほど切り刻まれ、殺されてしまう。そんなことを躊躇いなくやってのけるくらいには、リゼルヴィンは人の道から外れている。
ネヴェルは大きな町だ。四大貴族の治める街は、ウェルヴィンキンズを除きすべて他の街より大きく栄えている。
フロランスのいた屋敷は街の隅の静かな場所にあった。そこからネヴェルを抜けるには、少々時間がかかってしまう。
転移魔法も、今は使えない。リゼルヴィンが魔法を使うと周囲の魔力を巻き込んでしまうため、この街で使えばクヴェートの者にリゼルヴィンが訪れたことを知られるだろう。これから起こす事件があまりに大きなものであるため、出来れば知られたくない。
馬車の中で、リゼルヴィンは険しい表情をして深く考え込んでいた。
対象の顔や名前を知らずとも、三日後にやってくるハント=ルーセンの男、と言えばすぐに調べられるだろう。まずはその男が今どこにいるか今日中に調べさせ、その従者の数によってどのように殺すか決める。従者以外にも目撃者がいた方がいいだろう。死んでも忘れないような、最も悲惨で、むごたらしい殺し方を見つけなくては。リズとキャロルは殺し慣れているから、二人から話を聞いてみよう。
街を出てすぐ、街全体を包んでいた結界を抜けたことを確認して、馬車ごと王都の街屋敷に転移する。
リズはキャロルを呼びに馬に乗ってそのままウェルヴィンキンズを目指し、街屋敷を任せていた者たちへの挨拶もそこそこに部屋に閉じこもった。
ウェルヴィンキンズに比べれば少ないのだが、ここにも多少の魔法に使う道具が置かれている。新たに持ってこなくとも、なんとかなるだろう。
「何かが、始まっているのよ」
気付けばおかしいことだらけなのだ。それに気付いたのは、マティルダ・ドールの件があってから。
エリストローラが言っていた、アルヴァー=モーリス=トナーの存在。その男がいたからこそ、エリストローラは道を外れた。
そもそもアルヴァー=モーリス=トナーは、リゼルヴィンが殺した先王ニコラスの傍にいた男だ。ニコラスを退位させるべく今はもう忘れ去られた内乱が起きた、その始まりの手紙を持ってきたのは、他でもない彼だ。あれに関わっていなかったはずがない。ジルヴェンヴォードを連れ帰るために、ウェルヴィンキンズまでやって来たのだから。
アルヴァー=モーリス=トナーがこの件に関わっていると断定することは出来ない。だが、関わっている可能性は高い。
「私を狙っている者がいるの……? 誰が、何のために」
リゼルヴィンの命を狙う者は、これまでも数えきれないほど存在してきた。しかし、それはシェルナンドが、リゼルヴィンが力をつけてからはリゼルヴィン自身が排除してきた。時に見せしめのような真似もした。だからこそ、今はそんな命知らずな真似をする者がいないのだ。この大陸でリゼルヴィンを超える魔法使いは、まだ見つかっていない。エンジットの中でリゼルヴィンに勝てる者など、存在するはずもないのだ。そんな相手を殺そうなど、誰が考えるだろうか。
異変が目に付き始めたのは、いつからか。思い返せば思い返すほど、おかしなことはたくさんあった。
シェルナンドの死があって、三年前の内乱があり、ニコラスを殺した。
おかしいことなどこの国のすべてだ。この国の歴史は改竄され続け、どれが真実で、どれが嘘なのか、もう誰にもわからない。
「とにかく、アルヴァー=モーリス=トナーを探すべきよね。パルミラを侍女から外して、アリスティドとルーツと一緒に調べさせて……」
アルヴァー=モーリス=トナーのことがわかれば、レベッカが何をしていたかもわかるだろう。国中に放っている『鳥』も今はそちらを探させることにする。
よし、と気合を入れ直して、リゼルヴィンは顔を上げた。
そして、部屋にかけていた魔法を解く。
「私が今やるべきことは、殺すことよ。誰もが怯えるほどの事件を、起こしてやろうじゃない」
にいっと口元に弧を描き、リゼルヴィンは魔法で隠していた部屋中に設置されている魔法道具の一つを手に取った。
大陸中から集めた、ありとあらゆる怪しげな呪具と、いわくつきの武器たち。
さてどれを使おうか。楽しそうに、リゼルヴィンは笑っていた。
リゼルヴィンが初めて人間を殺したのは、三年前の内乱のとき。
今となったらあれも楽しむべきだったと後悔している。腕をもがれるほどに苦戦したのだ、あれほどの状況になる可能性は、ないに等しい。リゼルヴィンは強くなりすぎた。誰も傷をつけられないほどに。
「さあ、どうやって殺してやろうかしら。内臓を全部引っ張り出す? それとも、頭だけ残して、他はぐずぐずに潰してしまうとか。どれも見慣れていてつまらないけれど、普通ならそうそう見れるものでもないものね」
今のリゼルヴィンは、まさに『悪の魔女』だ。殺すことに快楽を覚え、躊躇もなく、実行してしまう。
まだ噂として流れているだけで、『黒い鳥』の可能性があるとはいえ四大貴族のうちの一人がそんな人格を持っているとは信じられていない。
この国で神話は絶対だ。神話こそが正しく、国の始まりを支えた『鳥の末裔』は、清く正しいと信じられている。
「結局、私は『黒い鳥』であって、そうじゃないのよ。そうじゃなきゃ、こんな風に幸せを感じられるはずがないわ」
まるで子供が玩具を選ぶかのように、手当たり次第手に取って、リゼルヴィンは笑う。
『黒い鳥』は、己の不幸を呪った瞬間に、王に反旗を翻す。
リゼルヴィンはといえば、『黒い鳥』となる素質は十分にあると自覚しているのに、とてつもなく幸せなのだ。自分の守る街は狂ってはいても平和で、その住人達に慕われている自信もある。親は死んでしまっていないし、姉のことは殺したいほど嫌いだが、そんなことは些細なことだ。リゼルヴィンの幸せを崩せるほどではない。
何より、シェルナンドがいる。ジュリアーナがいる。
「気がかりなことがないと言えば、嘘になるけれど」
幸せだと胸を張って言えるくらいには、日々に満足しているのだ。
己の『不幸』を呪うなど、まだ、あり得ない。