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王太后フロランスは、夫であった先々王の没後、王都から離れ南のクヴェート領ネヴェルにて静かに暮らしている。表に立つこともなく、エグランティーヌの即位の際も、たったの一週間しか王城に留まらなかった。
というのも、フロランスはシェルナンドの遺言により、政治に口出しすることを禁じられているからである。
フロランスはエグランティーヌを生んだだけあって、学問に秀でていた。シェルナンドの在位中には数多くの手助けをし、女でありながらも一目置かれる存在であった。正妃としての権力だけでなく、純粋に慕う者も多かった。
ニコラスが後に王となることが確定したとき、シェルナンドは宮廷内の派閥争いが激化しないよう、フロランスを政治から遠ざけ始めた。フロランスもその目的をよく理解し、ニコラスが即位したと共にネヴェルの王別邸で暮らすようになったのである。
リゼルヴィンの治めるウェルヴィンキンズと、クヴェートの治めるネヴェルは正反対に位置する。
おかしな人間が集まりながらも、見る限りではこぢんまりとしてほのぼのとしたウェルヴィンキンズとは違い、ネヴェルは魔導師が集まる街だからか、あまり騒がしさがない。エンジットの中で最も犯罪率の低い街だ。リゼルヴィンは犯罪が少ないことを、魔法で隠しているだけだと考えているが。
ちなみに、ウェルヴィンキンズは多すぎず少なすぎない犯罪率を保っている。これはリゼルヴィンが報告書と記録をいじっているからだ。
長い距離を馬車の中で過ごすなど耐えられないとリゼルヴィンが根を上げたのは、出発して一日が経った頃だった。
「魔力が有り余っちゃって、じっとしていられないのよね。先に行っていていいかしら?」
すぐにでも転移魔法を発動しようとするリゼルヴィンを、同行し御者台に乗っていたリズが置いていく気かと留める。
街を出る前に、リゼルヴィンはいざというときのためにと魔力を結晶化した意思を飲み込んで来た。おかげで今、リゼルヴィンの魔力は満ち足りた状態なのだ。
そうなれば、常に魔法を使っていたリゼルヴィンだ、余っている魔力を消費したくなってしまう。魔法を使うことが生きがいのようなリゼルヴィンに、その状態でいろと言うのは無茶な話なのだ。
「だったら、一緒に行く?」
「あの結晶を飲んだのは、いざというときのため、でしょう。今使ってどうするんです」
「あら、それだったら大丈夫よ」
心配無用、とリゼルヴィンがリズに見せびらかしたのは、色とりどりの宝石のようなもの。
リゼルヴィンが屋敷で飲み込んだ魔力の結晶と、同じものだ。
「……たくさん持ってたんなら言ってくださいよ!」
「言っていなかったかしら。ごめんなさいね、うっかりしていたみたい」
「知っていたらワタシも馬車で移動なんてしませんよ。さあ、今すぐ馬車ごと転移させなさい!」
「主は私なのにあなたが命令するのね」
機嫌を悪くしたリズに苦笑しながら、リゼルヴィンは馬車ごと転移の魔法を発動する。
リゼルヴィンは呼吸をするように簡単に、魔法を発動させてしまう。複数人を移動させることの難しい転移魔法も、他のどんな魔法も、誰よりも簡単に使いこなしてしまう。
化け物、とリズは思う。リゼルヴィンを化け物と呼ばずして、誰をそう呼べばいいのか。
これだけの魔力を人間が持っていることは稀だ。無意識のうちに人間はその奥底に秘める力を抑えつけ、見ないようにする。魔力を持っていても、それに気付かない人間も少なくない。リゼルヴィンほどの魔力を持ち、かつこれほどに使いこなせるとなれば、それはもう人間ではなく化け物の領域だ。
瞬きをする間に、フロランスの住む大きな屋敷の前に移動した。誰かに見られていないか気にしたのだろう、いつもより少々時間がかかっていた。瞬きをする間など、本来のリゼルヴィンには必要ない。
流石は魔導師の都と呼ばれるだけはある。空気に混ざる魔力の量は並ではない。
「侮っていたわ、ネヴェル……。こんなに気持ち悪い街、初めてよ」
魔力を感知出来るリズは心地良く思ったのだが、他者の魔力に影響を受けやすいリゼルヴィンはそうではなかったようだ。馬車を降りた途端、口元を抑えて吐き気に耐え、真っ青な顔をした。
確かに流れている魔力は、使用済みの魔力だ。誰かが魔法を発動させた後に残る、絞りかすのようなもの。何人もの魔力が混ざり合っているのもあって、リゼルヴィンには辛いのだろう。リズからしてみればなんてことはなく、むしろ好ましくすらあるのだが。
フロランスからリゼルヴィンの訪問を聞いていたらしいその屋敷の使用人たちは、少しばかり驚いた顔をしたものの、本当は『黒い鳥』がやって来たことに何かしらの負の感情を抱いたはずなのに、それを顔や態度に出そうとはしなかった。フロランスの教育は行き届いているらしい。
リズは屋敷の中には入らず、馬車だけ置かせてもらって街の探索に出かけた。リズはリゼルヴィンに仕事を頼まれ他の街に行く度、その土地のことをよく調べてくる。同じ国の中でも地域によって文化に多少の違いがあるのが面白いのだという。
案内された部屋で待つよう言われ、使用人が扉を閉めた瞬間に、リゼルヴィンは部屋の中にも漂っている魔力を一掃した。魔力を浄化することは出来ないが、この部屋の中から魔力を追い出すことは出来る。
やがてフロランスがやってきて、微笑みもなく鋭さを感じさせる無に近い表情をした彼女に、リゼルヴィンは申し訳程度の礼を取った。本来ならば平伏すくらいのことはしなければならないのだが、リゼルヴィンがそんなことをするはずもない。
気にすることなく、フロランスは使用人に人払いを命じ、二人きりになってから口を開いた。
「排除していただきたい人間がいます」
「顔を合わせて早速それって、ほんと、あなたに感情はあるのかしら」
「では、雑談でも?」
「……いいわ。私が悪かった。あなたと雑談なんて、出来るわけないでしょう」
「そうですか」
エグランティーヌとよく似た顔は眉一つ動かさずに、エグランティーヌがまだ言えない言葉をはっきりと言う。
リゼルヴィンは、フロランスのこういうところは嫌いではない。心を揺らすことなく、淡々と話してくれるのはこちらとしても助かるのだ。エグランティーヌのように、いちいち遠まわしに言われても時間を無駄にするだけだからだ。
ふっと笑って、続きを促す。
「三日後に、ある者が王都にやってきます。従者が何人かいますが、それらは気にせずその主である男だけを殺してください」
「それじゃあ、殺したことがばれてしまうわよ」
「構いません。むしろ、そちらが目的です。誰にも邪魔されずに帰れるよう手配してください」
「……何が目的よ。その言い方じゃあ、他国の人間が来るんでしょう?」
他国の人間が何の罪も犯さず、何の理由もなく殺されたと知れば、その者の身分が高ければ最悪戦争になる。フロランスが何を考えているのか理解出来ずに、眉を寄せて問う。
その思考を疑うような目にも、何も反応せずに、フロランスは答えた。
「目的は、その男を殺し、従者を無事に帰らせること。それ以外にありません」
「それじゃあ戦争になるって言ってるのよ」
「ええ。それでも構いません」
「あなた気でも狂ったの!? 自分の娘が治める国よ、自分の夫が守りきった国よ! あなたが王妃であったこの国に、戦争を呼び込もうって言うの!?」
「……それでも」
声を荒げたリゼルヴィン。ここでようやく、フロランスは苦しげな表情をした。
「それでも、こうするしかないのです。抗うことは、出来ません」
常に冷静に、表情を変えることのなかったフロランスのその表情に、リゼルヴィンははっと息を飲んだ。
シェルナンドの近くにいたリゼルヴィンは、フロランスのこともよく知っている。その高貴な精神には、憧れすら抱いていた。
それなのに、今目の前にいるフロランスは、とても小さく見える。
「……何があったのよ」
「言えません」
「なによそれ……! それじゃあ、私はあなたが命じるままに、火種をまかなきゃならなくなるじゃない!」
思わず立ち上がり、怒りに震える体をなんとか静めようと心臓の辺りを握りしめる。
こんなに自分は冷静さを保てない人間だったか、と心のどこかで客観的に考えていたが、口をついて出る言葉は冷静さの欠片もなかった。
冗談じゃない。誰が戦争なんて起こさせるものか。この国は陛下が守った国だというのに――。
そんな言葉が飛び出しそうになったとき、フロランスが強く言い放った。
「命じます。三日後に王都へ訪れる、ハント=ルーセンの男を殺しなさい。――リース」
その瞬間、リゼルヴィンは体からすべての力が抜けるような感覚に襲われ、その場に崩れ落ちた。