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リゼルヴィンの敵はジュリアーナの敵。リゼルヴィンが誰かを嫌うのなら、ジュリアーナもその誰かを嫌う。
あの女――レベッカは、リゼルヴィンの最大の敵だ。だから、ジュリアーナにとっても、レベッカは最大の敵である。シェルナンドを除けば、の話だが。
「どうかなさいましたか、レベッカさま」
「ああ、ジュリアーナ。何か大きな音がした気がしたから、来てみたの。リゼルの部屋からだったのね」
こんな女を敬称つきで呼ばなければならないことと、自分の名前を当たり前のように呼ばれたことに吐き気すら感じながら、ジュリアーナはレベッカの目を見つめ返す。せめてこの嫌悪が伝わればいい。そう思いながら、続ける言葉を探した。
何も知らない人間から見れば、レベッカは妹を心配する優しい姉に見えるだろう。
それは真実かもしれない。だが、何をどう思っていようと、その行動がリゼルヴィンを追い詰め、傷つけたのに変わりはない。
「リゼル、どうしたのかしら……。泣いているの?」
「今は中に誰も入れるなと言われています。お部屋にお戻りください」
「それは出来ないわ、ジュリアーナ。私はリゼルの姉よ。妹が泣いていたら、傍にいて慰めるのが役目だわ」
胸を張ってそう言ったレベッカが、扉に手を伸ばす。その手を掴んで、ジュリアーナはレベッカを睨んだ。
ジュリアーナには姉妹という関係がどういうものかわからない。わからないが、今レベッカが中に入れば、リゼルヴィンが苦しむということはわかる。
「あなたさまの中ではそうかもしれません。ですが、それが本当に妹のためになるとは限りません。あなたさまは、それが主さまのためになるとお思いですか」
「と、当然だわ。私たちは昔から仲のいい姉妹だったのよ。リゼルのことは私が一番わかってる。いつも一緒にいたのよ。三年前だって」
「はっきりと言わせていただきます」
この女は何を言っても聞かないと判断したジュリアーナは、怒りを籠めて、強くその言葉を遮った。
「あなたさまの行動は、主さまにとっても、他の誰かにとっても迷惑です。そもそもあなたさまは、リゼルヴィン家の名前を捨てた身。私がこうして礼を取っているのも、こうして屋敷にいることを許されているのも、すべて主さまがそうすると決めたからです。本来ならばあなたさまのような方に礼など取りたくありません。この屋敷の使用人、全員が思っていることでしょう。あなたさまは今、ただのご客人に過ぎないのです。主さまの姉でも、リゼルヴィン家の子女でもない。この屋敷に居続けたいのなら、屋敷の規則と主さまの命に従っていただきます」
すでにこの屋敷に、レベッカの居場所などない。使用人も、屋敷の内装も、街自体も、レベッカがいた頃とは変わりきっている。
早口で捲し立てたジュリアーナは、レベッカの手をきつく握りしめた。何があっても、中に入ることは許さない。今のリゼルヴィンには、絶対に合わせない。
それがジュリアーナに出来ることだった。言ってしまえば、ジュリアーナが出来ることはそれしかなかった。リゼルヴィンを直接守ることは、ジュリアーナには不可能だった。ならばせめて、この女からは守ってやりたい。
レベッカはジュリアーナに気圧されながらも、妹の傍にいてやるのが姉の役目であると、一歩も譲らない。
本当にリゼルヴィンの姉であるか疑いたくなるほど頑なに、レベッカはジュリアーナの言葉を理解しようとしない。他人の心情を読み取るのは苦手だと自称しているリゼルヴィンでも、その言葉の裏に何かが隠されていれば見逃さない。その上今のジュリアーナの言葉は、隠そうともしていないのだ。リゼルヴィンが会いたくないのだと、誰が聞いてもはっきりと伝わってくる。それを理解出来ないどころか、理解する努力すらしないとは、本当に血の繋がった姉なのだろうかと不思議になってくる。
「部屋にお戻りください。今すぐに」
「嫌よ! 誰に向かってそんなことを言っているの!」
ついに声を荒げたレベッカに、面倒なことになってしまったとジュリアーナは舌打ちした。レベッカの手を引いて、半ば引きずるようにしてリゼルヴィンの部屋の前から立ち去る。
その間もわーわー騒がれ罵倒されたが、甘ったるい貴族のお嬢さまの罵倒など痛くも痒くもない。この世にはもっと醜い言葉がある。それを投げつけられるのが当たり前だったジュリアーナに、そんな生ぬるい言葉を投げつけても、罵倒にすら聞こえない。
リゼルヴィンの部屋から最も離れた場所に客室が、レベッカに与えられた部屋だ。かつてレベッカが使っていた部屋は、三年前に撤去された。きっと、この客室も、レベッカが屋敷を出たらすぐに改装されるのだろう。レベッカがいた形跡を残さないために。
そこへ押し込んで、素早く扉に魔法をかけた。シェルナンドから分け与えられた魔力の使い方も、この二月で少しは慣れてきた。初歩の初歩でしかない簡単な魔法のみではあるが、レベッカが外に出られないよう。扉に外側から鍵を掛けるくらいはなんとか出来る。ジュリアーナは魔法式を持たないため、わざわざその場で魔法式を組まねばならないのが難点だが。
確かに魔法が発動したのを見届け、ジュリアーナはリゼルヴィンの部屋へ戻る。リゼルヴィンがジュリアーナを拒んでも、ジュリアーナから離れていくことは出来ない。
戻った頃にはもう泣き声も聞こえなくなっており、心底ほっとしてその場に座り込んでしまいそうになった。
それならばもう大丈夫だろうと、まだいくつか残っている仕事を再開しようとしたそのとき、中からリゼルヴィンが出てきた。目が少し赤くなってしまっているものの、その表情は晴れやかで、頼もしさすら感じさせる強気な笑みを浮かべていた。
「ごめんなさいね、取り乱してしまって。もう大丈夫よ。いつもありがとう、ジュリアーナ」
「……主さまの、お役に立てたでしょうか」
「何を言っているの。レベッカを部屋に連れ戻してくれたのは、本当に助かったわ」
褒められていて、感謝されているはずなのに、ジュリアーナは素直に喜べなかった。
リゼルヴィンはどうしたって、シェルナンドから離れられない。ジュリアーナがリゼルヴィンから離れられないように、きっと。
また、口の中に血の味が広がった。悔しくてたまらない。シェルナンドが憎くてたまらない。
シェルナンドと共にいれば、リゼルヴィンの未来に幸福など訪れない。ジュリアーナはそう確信している。絶対に、リゼルヴィンは幸せにはなれないのだ。
どうにかしてシェルナンドを殺してしまわなければ。それも、出来るだけ早く。
黙り込んだジュリアーナを心配したリゼルヴィンに一度頭を下げ、その場から離れる。
体調が悪いと言って他の侍女に仕事を任せ、自室に帰った。
紙とペンを取り出して、あまり得意ではない手紙を書き始める。ジュリアーナは最近、ようやくすべての文字を書けるようになった。難しい本はまだ読みづらい。難しい言葉も、まだ使えない。子供が書くような手紙にならないように出来る限り堅苦しい文章を心がけ、それでも大人ぶった子供が書いたものにしか見えなかった。
書きたいことをすべて書き終えた頃には、月が一番高いところに浮かんでいた。
太陽が顔を出す直前まではしっかりと眠り、普段より早く起きて身支度を整える。誰もが寝静まる頃、ジュリアーナは手紙を持って屋敷を出た。
「――見えているぞ、ジュリアーナよ」
誰もいないはずのジュリアーナの部屋で、シェルナンドはそう呟く。
愉快そうに笑いながら、窓の傍に寄り、遠ざかっていくジュリアーナの背を見送る。
ジュリアーナの部屋には、新しい鏡が置いてあった。
「貴様も、リースも、余から逃れられはしない」
このとき、シェルナンドが先を見ていれば、何か変わっていたのかもしれない。あるいは、ジュリアーナが手紙を届けに行かなければ。
誰も知らなかった。リゼルヴィンも、ジュリアーナも、シェルナンドでさえも。
その秘密を知る者は、誰もいなかった。