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「……それは」
この質問が来ることを知っていたジュリアーナだったが、やはりその瞬間になってしまうと、何を言っていいかわからなくなった。言おうと決めていたことはあるのに、いざ口に出すとなると苦しい。ジュリアーナが言った後のリゼルヴィンがどのような反応をするかも、ジュリアーナは知っているのだ。せっかく決めた覚悟は、純粋に不思議がっているリゼルヴィンにあっけなく砕かれていた。
「……申し訳ありません、主さま。私は、大きな嘘を吐き続けていました」
正直にすべてを話すことにして、少し表情を暗くしながら、ジュリアーナは頭を下げる。
リゼルヴィンはジュリアーナが話そうとしている内容を悟ったのか、みるみるうちに絶望を顔に滲ませた。
「あの男は――シェルナンドは、今、私の中には存在しません」
「……嘘よ。陛下は、あなたの中にいることで、存在を保っているのよ? それなのに、あなたから離れられるわけがないじゃない。大体、あなたの中から陛下の魔力が……」
そこでリゼルヴィンは、ジュリアーナの右目に巻かれた包帯を見て、はっと息を飲んだ。
「だから、傷が治っていなかったのね」
「はい」
出来るだけ、冷静に。そう心がけようとしても、ジュリアーナの声は震えていた。
嘘を吐きたかったわけではない。いつかはシェルナンドを殺してやろう、リゼルヴィンをシェルナンドから解放してやろうと決意してはいるが、こんな風にシェルナンドを遠ざけることは望んでいなかった。ジュリアーナも、まさかこんなにも長くシェルナンドが戻ってこないとは予想していなかったのだ。
思わずそんな言い訳をしかけて、きゅっと口を結んだ。
リゼルヴィンはその白い顔を更に白くして、今にも魔法を暴発させそうになっていた。それを必死で抑え込むために、泣くことも叫ぶことも出来ないのだろう。口を開いては閉め、何かを訴えるようにこちらを見ていた。
ああ、これだからこの人は、と心臓をぎゅっと握りしめられたように苦しくなる。
こういうとき、リゼルヴィンはジュリアーナを責めないのだ。大層な理由があるわけでも、ジュリアーナを特別好きでいてくれているわけでもない。ただ、シェルナンドの娘で、シェルナンドに守るよう命じられたから、という理由でジュリアーナを責めないのだ。
ますますシェルナンドが憎くなる。シェルナンドの存在は、リゼルヴィンの中に深く根付いて消えてくれない。ジュリアーナが見たいのは、リゼルヴィンの苦しそうな表情ではない。
「申し訳、ありません」
「謝らないで。陛下なら、きっとすぐに戻ってらっしゃるわ。消えては、いないんでしょう?」
すがるような声に、ジュリアーナは頷く。この右目がある限りは、消滅していないはずだ。
「……少し、一人にしてちょうだい」
「ですが」
「お願い、一人にして。そうじゃないと、あなたを殺してしまいそうだわ」
ぎゅっとスカートを握りしめているリゼルヴィンの手が、震えていた。
ジュリアーナとしては、リゼルヴィンに殺されることは本望だ。今ここで殺されてしまっても、文句どころか感謝の言葉を言ってしまうだろう。だが、リゼルヴィンはそれを望んでいない。
唇を噛みながら静かに部屋を出れば、中から何かを破壊する音が聞こえた。その音は続き、シェルナンドを呼ぶ声も混ざっている。
「遅かったようだな」
その声に答えるように、廊下の向こうから、聞きたくもない声が聞こえた。
「貴様っ! 何故もっと早く戻らなかった!」
いつの間にかそこにいた、人間のものとは思えない金髪碧眼を持つ男に、ジュリアーナは鋭い憎しみを籠めて叫ぶ。
シェルナンドは悪く思っている様子もなく、ジュリアーナから目を離し、リゼルヴィンの部屋の扉を見た。
すでに破壊音は止まっている。代わりに、すすり泣く声が。
「あれは弱くなったと思わぬか、ジュリアーナよ」
こちらを見ずに、シェルナンドが問う。その声からは、何を考えているのか探ることは出来ない。
不快さに歯を噛みしめて、噛みつくようにジュリアーナは返した。
「主さまは強い。この国の、この大陸の誰よりも! 貴様さえいなければ!」
「余がいなければ、と? 笑わせる。ほんの二月ほど余がいなかったと知っただけでこの様ではないか。結界すら保てなくなるとは……再教育せねばならんな」
にやりと、不気味な笑みを口元に浮かべて、愉快そうにシェルナンドは扉に手を掛けた。
反論も出来ず、ただ見ているしかないジュリアーナは、口の中に血の味が広がるのを感じた。暴れ狂う怒りを耐えるために口内を噛むのは、ジュリアーナの悪い癖だ。
先程の取り乱し様は、いくらリゼルヴィンが狂信的にシェルナンドを敬愛しているからといって、行き過ぎている。リゼルヴィンが涙を流しそうなくらいに取り乱すとは、今まで一度もなかったことだ。
ジュリアーナはリゼルヴィンとシェルナンドの関係を深くは知らない。シェルナンドが中に入ってきてからというもの、何度かその記憶が流れ込んできたりもしたが、その中にリゼルヴィンとの記憶は何一つなかったのだ。あったのは、シェルナンドがニコラスに、リゼルヴィンを従えるための偽の方法を教えた場面だけ。
結局自分はリゼルヴィンのためにと考えて行動しているようで、何も知らず、何の役にも立てていないのだと悔しくなる。
リゼルヴィンの部屋に入ることは出来ず、かといってそこから離れることも出来ず、廊下に立ったまま、扉を見つめる。
どんなときでも、ジュリアーナはリゼルヴィンのことばかりを考えてきた。人間らしい生活と、人間らしい感情をくれたリゼルヴィンは、ジュリアーナにとって何よりも大切なものなのだ。リゼルヴィンがいない世界など考えられない。リゼルヴィンがジュリアーナを置いていなくなるなど、考えたくもない。
だからこそ、リゼルヴィンの気持ちも、わかるような気がするのだ。
ジュリアーナがリゼルヴィンのために動き続けるのと同じように、リゼルヴィンはシェルナンドのために動き続けているのだ。
たとえそれがどんなに苦しいものだとしても、どんなに傷つくものだとしても、リゼルヴィンに命じられたら喜んで行動する。リゼルヴィンも、シェルナンドに命じられたなら、それこそ世界を滅ぼすことだってするのではないか。世界を滅ぼすとまではいかずとも、大陸を震撼させられるくらいの力を、リゼルヴィンは持っているのだから。
部屋の中で、リゼルヴィンとシェルナンドは、一体何を話しているのだろう。泣き声は少しだけ大きくなり、けれどその声には恐怖ではなく安堵が滲んでいる。
かつて主従の関係にあった二人。最強の奴隷であるリゼルヴィンと、リゼルヴィンを初めに従え様々な偉業を成し、賢王と呼ばれたシェルナンド。
ただそれだけではないと、ジュリアーナは考えている。たったそれだけの関係ならば、傍にいなくなっただけであれほど取り乱したりはしない。
リゼルヴィンは、肉体の強度こそ一般的な人間と同じものだが、精神の強度は常人にはとうてい手の届かない強さを誇っている。表でどんな表情をし、どんな言葉を言っていても、その精神が大きく揺れることはほぼあり得ない。それくらいでなければ、あれほどの量の魔力を押さえ込み操ることは出来ないのだ。
そんなリゼルヴィンがあれだけ取り乱すのだから、シェルナンドはきっと、何か他の繋がりも持っていたはずだ。リゼルヴィンの中に強く根を張り、奥深くに存在を刻み込むほどの、何か特別な関係を持っていたはずなのだ。
シェルナンドの記憶を覗けないのならば、こちらで勝手に探るまでだ。どんな手を使ってでも、リゼルヴィンをシェルナンドから解放してやらなければならない。それがジュリアーナに出来る、一番の恩返しだと思っている。
落ち込んでばかりはいられない、と顔を上げたそのとき、こちらへ近づく足音に気付く。
先程まで庭にいたくせに。そう間の悪さに苛立ちながら、ジュリアーナはいつもの無表情を作る。少しでも気を抜くと、怒りが表情に出てしまいそうだった。