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リゼルヴィンと真の契約を交わしたその日から、エグランティーヌの体調不良が続いていることを、リゼルヴィンは知っている。
シェルナンドの魔力を受け継いでいるからといって、エグランティーヌはジュリアーナと同じく少量、そして魔法式も受け継がなかったのだ。魔力は使われなければ呼吸と同じように当たり前にあるものとなり、他に影響を及ぼさない代わりに、何にも使えなくなっていく。
そんなエグランティーヌに、突然リゼルヴィンの特殊で強大な魔力を多量に流し込めば、どうなることか。本来ならば体調不良では済まないところ、なんとか持ちこたえただけ幸運だと思うべきだ。
その体調不良を理由に、エグランティーヌはリゼルヴィンに会おうとしない。それが、体調不良だけが理由ではないと、それもリゼルヴィンは知っている。
契約がエグランティーヌに与えた影響は体調不良だけではない。契約を結び、リゼルヴィンの魔力を流し込まれたわりに影響したものは少ないが、ある意味で、これはリゼルヴィンにとってもエグランティーヌにとっても、果ては国にとっても、不利益になり得るものだった。
リゼルヴィンへの、猜疑心。
エグランティーヌはリゼルヴィンを、心から信頼することが出来なくなった。その笑みの裏には何か隠されているのではないか、その言葉の真の意味は逆のものではないのか。それまで友人として傍におり、リゼルヴィンを恐れず笑みを向けていたエグランティーヌは、疑ってしまう自分と、信じようとし続ける自分との間で、揺れている。
ずっと国を裏切る『黒い鳥』を見る目を向けられていたリゼルヴィンが、エグランティーヌの変化に気付かないわけがない。四大貴族の会議にやってきたエグランティーヌが、一度もリゼルヴィンと目を合わさなかったのを見て、すぐに気が付いた。
エグランティーヌとは、四年の付き合いだ。実際はシェルナンドを通して知り合っていたのだが、友人と呼べるようになったのは、エグランティーヌがアダムチーク侯爵家に降嫁してからだ。
四年も友人をやっているのだから、傷つかないことはない。だが、エグランティーヌの現在の立場を考えれば、これでよかったのかもしれない、とも思う。リゼルヴィンを信頼出来ないということは、良好な関係を築くことが出来ず、国を守るためにリゼルヴィンの力を解放することを躊躇う可能性がある。しかし、リゼルヴィンをよく思っていない者の多い今の状況では、エグランティーヌがリゼルヴィンと友人であることで、いらぬ敵を作ってしまう。
どちらがましなのか、リゼルヴィンにはわからないし、わかろうとも思えない。
ただ、リゼルヴィンが心配することは、せめて今回だけでも力を解放してくれるかどうか、ということだけだ。
もしかしたらまた体調不良を言い訳に面会してくれないかもしれない、と心配しつつ、通された部屋でエグランティーヌを待つ。四大貴族以外に事情は話せないため、どうしても会って話さねばならないことがある、とだけ伝えてもらったが、果たしてエグランティーヌが来てくれるかどうか。
そんなリゼルヴィンの心配は、杞憂に終わった。
姿を現したエグランティーヌは少しばかりやつれ、疲弊している様子だった。
いくら体調が悪くても、エグランティーヌのことだ、仕事に支障を来さないよう無理をしてでも働いているのだろうとは予想していた。馬鹿だな、少しくらい周りに頼ればいいのに、と思いつつ、立ち上がってにっこりと笑う。
「お久し振りにございます、女王陛下」
「……態度を改めないでください。エーラと呼んで、リィゼル」
複雑な気持ちを押し殺し、エグランティーヌはそう返してリゼルヴィンの正面に座った。部屋に二人きりになり、愛称で呼ぶことを許す。
「そう。じゃあ、お言葉に甘えさせていただくわ。エーラ、調子はどう? 体調不良が続いているって聞いたけれど、契約の反動はまだ治まっていないようね」
「心配される程では、ないよ。これくらいは仕事に支障を来すほどでもないし、動けないこともない」
それではこれまで面会を断ってきたのはどうしてか、と意地悪な質問をしようかと口を開いたものの、何も言わずに閉じた。
矛盾に気付いていない風を装って、リゼルヴィンは早速本題に入った。
「『マティルダ・ドール』の件、今夜片付けようと思っているの。エリストローラはやっぱり黒だったわ。それで、この指輪の効力を弱めて欲しいのだけれど」
瞬間、エグランティーヌが嫌そうな顔をしたのを、リゼルヴィンは見逃さない。
エグランティーヌがリゼルヴィンの魔力を封じ込めるために使ったものは、首輪ではなく指輪だった。律儀に約束を守ってくれたのだ。その指輪は今、リゼルヴィンの右手の中指にはめられている。
指輪自体の力はさほど強くはない。だが、エグランティーヌとの契約は、リゼルヴィンもエグランティーヌも予想していなかったほど強力なものとなってしまっている。
強すぎる契約は、双方に負担がかかる。リゼルヴィンは、必要以上に魔力を制限されてしまうため、一度に大量の魔力を使うと、下手をすれば生命維持も出来なくなってしまう。エグランティーヌは、流れ込んだ魔力に耐え切れず、精神崩壊や、命を落とす危険性も跳ね上がる。
どちらにとってもいいことなどない。けれど、こればかりはどちらにも非はなく、どちらにもどうすることも出来ない。
この契約がそういう仕組みになっているからだ。主となる者の力量によって、自動的に魔力の制限量が変わってくる。よほど魔法に精通している者でなければ、自分で制限量を決められはしない。
「魔法を使わずに解決することは、不可能なの?」
「不可能ね」
即答だった。エグランティーヌは、少しだけ気分を害した表情をした。
いいかしら、とリゼルヴィンも少しだけ、怒りを声に込める。
「そもそもの話、私は魔法ですべてを解決してきたのよ。契約のことでどうこう言うつもりはないけれど、今までの主はみんな、それなりの魔力を残したままにしてくれていたの。そりゃあ、契約の力が強くて魔法が使えなくなったこともあるわ。けれど、そのときだって主の『許す』の一言である程度の魔法の使用なら認められた。私が何を言いたいかって、そんなの簡単なことよ」
そこで一度言葉を切り、リゼルヴィンは射抜くようにエグランティーヌを睨んだ。
そのあまりの鋭さに、ぞわりと全身の毛が逆立つような気持ち悪ささえ感じる。
「私は何があってもあなたに命令なんてしない。頼み事だって、あなたが主となった以上、自分のためだけのものはもうしないわ。だから、こんなときくらい私の言うことを聞きなさい。忘れているようだから思い出させてあげるけれど、私は『黒い鳥』と呼ばれているのよ。魔力の量も魔法の腕も、この国で私に敵う人間なんていない。その気になれば、こんな国一つ、簡単に消せちゃうの。あなたのために、この国のために、民のために動いている今のうちくらい、私の機嫌を取っていた方が賢明なんじゃないかしら。――国を守りたくないなら、話は別だけれど」
リゼルヴィンの琥珀色の瞳に揺れるのは、エグランティーヌに対する怒りなのか。それとも、『黒い鳥』と蔑み、汚れ役はすべてリゼルヴィンに押し付ける国への怒りなのか。
どちらにせよ、エグランティーヌは嫌というほど思い知らされた。
リゼルヴィンは、その気になれば簡単に国を消せる。
そうならないように契約をしていることは、十分理解しているつもりだった。だが、契約だけでは不十分だったのだ。
契約とはいわば、リゼルヴィンを無理に抑えつけ、鎖につないでいる状態だ。その鎖は主とリゼルヴィンとの信頼や、リゼルヴィン自身の主に対する感情で出来ている。
不安定なもので出来ている鎖は、いつ壊れてもおかしくはない。
エグランティーヌはこれまでの自分がいかに甘かったかを痛感した。契約を結んだことで、リゼルヴィンを完全に支配し、完全なる味方につけたと思い込んでいたのだ。鎖の強度など、気にもしていなかった。
「……わかった。魔力の制限を弱め、魔法の使用を『許す』よ」
「あなたならわかってくれると思っていたわ、エーラ」
もしかしたら、ここでなんとしてもリゼルヴィンの制限を弱めてはいけなかったのかもしれない。断固としてその申請を却下し、『奴隷』であると立場を思い出させなければならなかったのかもしれない。上位にいるのはエグランティーヌだと、強く刻み込んでやらねばならなかったのかもしれない。
正解がどれか、エグランティーヌにはわからなかった。間違った判断をしてしまったかどうかすら。
エグランティーヌは、リゼルヴィンの目に耐えられなかったのだ。国を消す、なんてことを本当に考えているのかもしれない、と思ってしまったのだ。
リゼルヴィンはふっと笑って、ゆったりと立ち上がる。扉に手を掛けたとき、エグランティーヌを見ることなく言った。
「私を、疑ってもいいのよ。あなたの今の立場は、女王陛下なんだから。……私を疑って、当然よ」
その言葉がどれほどエグランティーヌを追い詰めたことか。
リゼルヴィンの友人でありたいと願う心と、国を背負う者として不穏分子であるリゼルヴィンを常に疑わなければならない心。
エグランティーヌの中でせめぎ合い、なんとか均衡を保っていただけの二つの感情は、ますます揺れる。
どちらに身を委ねればいいのか、エグランティーヌにはわからない。
リゼルヴィンが何を考え、何を求めているのかも。
目を覚ます度に暴れていた『ウェスパ』を、その都度眠らせていたミランダは、自分の作る毒がどれほどのものか嫌というほど見せつけられた。
ニコラスを殺してしまったあの日、ミランダは境界線を越えてしまった。後悔はしていない。してしまえば、ニコラスを殺したことまでも後悔してしまう。それだけは避けなければならない。どんなに愚かな望みであれ、ニコラスが望んだのは、ミランダに殺されることだったのだから。
苦しげに眉を寄せながら目を閉じ眠ったままの『ウェスパ』を眺めていると、いっそのこと殺してやった方がいいのではないかとさえ思ってしまう。
すべての感覚が研ぎ澄まされる代わりに、服用するたびに脳が破壊されていく、危険な毒。
それを飲まされ続けていたのだ、もうまともな人間には戻れないだろう。依存性も強く、毒を求め続けるくらいならば、いっそ死んだ方がましだと思うかもしれない。
いやだなあ、と力なく呟いたとき、ノックの音が部屋に小さく響いた。
「大丈夫だったかしら、ミランダ」
「うん、まあ、なんとか。……早かったね」
「今のエーラと話なんて出来ないわよ。私の話なんか、ちゃんと聞いてくれないもの」
入ってきたのはやはりリゼルヴィンで、どこか浮かない表情をしているのは、エグランティーヌとのすれ違いが続いているからだろう。
エグランティーヌは正義感が強い人間だ。対して、リゼルヴィンは悪の限りを尽くす女。
隠していたわけではないが、リゼルヴィンが行う悪は必要性があるからこそだと信じていたエグランティーヌだ。そこに意味も必要性もない悪が紛れ込んでいると知った今では、かつてのように信じられるはずもない。
「大変だね」
「本当に。人の心がわからないって、こういうとき面倒なのよ」
苦笑と共にそう言えば、リゼルヴィンも同意する。
眠る『ウェスパ』に近付いたリゼルヴィンは、その額に手を当てる。
出ていく前より元気そうなところを見れば、エグランティーヌに魔力制限を緩めさせることは出来たのだろう。
「治せそう?」
「……これくらいなら、治せそうね。少し障害は残るかもしれないけれど、今よりはだいぶましになるでしょう」
ミランダの問いに答えながら、リゼルヴィンは目を閉じる。
破壊された脳を治すのは、いくらリゼルヴィンでも慎重に魔法を使わなければならない。
少しでも間違えば取り返しのつかない失敗をしてしまう。人格が変わるくらいならばまだいいものの、完全に壊してしまうことだってあるのだ。
ゆっくりと、慎重に魔力を流し込み、『脳を治す』イメージを固める。
そのイメージに沿って魔法を発動させると、リゼルヴィンが触れている『ウェスパ』の額がぼんやりとした光に包まれる。
しばらくして、光が収まっていくのと同時に、ふうっとリゼルヴィンが息を吐きながら目を開いた。
「これで大丈夫でしょう。上出来なんじゃないかしら。障害も残さずに治せたわ。あとは、依存から脱出させてあげるだけ」
「よかったぁ……。ありがとう、リゼルヴィン」
「あら、あなたが礼を言うのね。これくらい、どうってことないわ。今夜の肩慣らしみたいなものよ」
額から手をどけて、リゼルヴィンは笑う。
リゼルヴィンにとってはどうということはなくても、ミランダから見れば奇跡に近い。自分の作った毒のことは、自分が一番わかっているつもりだ。
すぐに体中にある傷も治してやって、リゼルヴィンは部屋を出てしまった。
これからエリストローラの元へ行くという。休む間もなく働くリゼルヴィンは、仕事に関しては結構真面目なのだ。
ミランダは部屋にとどまって『ウェスパ』を見守り続ける。少なくとも明日までは、『ウェスパ』の傍にいるつもりだ。
ふと窓の外を見てみれば、空が暗くなり始めていた。道理で部屋が暗く感じたわけだ。近頃は、日が沈むのが早くなってきた。
部屋に灯りを灯すため、ジュリアーナが入ってくる。
暗くなってきているというのに、ジュリアーナがまだ働いているのを見て、ミランダは違和感に気付いた。
「ジュリアーナ……まだその目、治ってないのか」
一月前、なかったことになってしまったささやかな内乱のとき、ジュリアーナは右目を怪我したらしく、以来包帯を巻いている。
だが、いくらジュリアーナが『二回迎えた』からといって、一月経っても治らないというのはおかしい。
「……どうか、主さまには何も言わないでください。主さまは、まだ気付いていらっしゃらないようですので」
「いや、それはいいんだけど……。一体どうして」
言いづらそうにしながらも、気付いたのはリゼルヴィンの魔法をよく理解しているミランダだ。適当な言い訳では納得しないと、ジュリアーナは嘘偽りなく理由を話す。
「どうか、どうか主さまにだけは何も言わないでください。……今回の件が終われば、自然にお気付きになられますから」
そのジュリアーナの必死な表情に、ミランダは口外しないことを誓った。
ミランダもまた、このことを知ったリゼルヴィンが何を仕出かすかわからないほど動揺すると、わかっているのだ。