2-1 偽りの王女たち
ジルヴェンヴォードは賑やかな声で目を覚ました。扉の向こうから足音と話し声が聞こえる。それも、数人のものが。
寝衣から外に出られる格好に着替えて、そっと部屋の外に出てみる。昼間はリゼルヴィンとジュリアーナを含めて五人しか見かけなかったのに、廊下に二人の侍女がいた。初めて見た顔だった。てっきり、四人しか侍従がいないのかと思っていた。
茶髪の侍女が、リゼルヴィンを呼んでくるから部屋へ戻れ、とジルヴェンヴォードに言う。ジュリアーナとは違い、愛想のいい侍女だったが、ちらりと見えた左手には、あるはずの薬指がなかった。
残った右目に真っ黒な眼帯をした赤毛の侍女が、扉を開けて部屋へ戻るよう促す。こちらは眼帯のおかげで、少しばかりきつい印象だ。背筋がぴんと伸び、声も出で立ちも凛としたものだった。
部屋へ戻されたジルヴェンヴォードは、一緒に部屋に入ってきた眼帯の侍女の視線を背に受けながら、窓を開けて街を見下ろす。この部屋は二階の、丁度大通りが見える位置にあった。
オイルランプの灯りが、石畳とレンガの街を美しく照らす。オイルランプはエンジットではまだ普及していない。王都の主要な通りにはいくつか設置されているが、街中にあるのはウェルヴィンキンズくらいだろう。他の街では、あってロウソクが一本入ったランタンだ。
「すごいわ、とってもきれい。噂では、あんなに恐ろしい街なのに、とっても美しいわ……」
思わずそう感嘆の声をあげると、背後からそうでしょう、とリゼルヴィンの声がかけられた。茶髪の侍女が眼帯の侍女の隣に立ち、リゼルヴィンもそこにいた。
「私の街は美しいのよ。温かくもどこか冷たいランプの灯りは、この街にぴったりでしょう」
「本当に、本当にきれいです。でも、どうしてこんなに?」
「夜にロウソクだけじゃあ、不便だもの。ここは夜が昼よ、月明かりだけじゃ、なんにもできないでしょう。ここまで灯りがあるのは、今はこの街だけでしょうけれど、きっとすぐにエンジットのどこでも見られるようになるわ」
興奮気味のジルヴェンヴォードに、リゼルヴィンも歩み寄りながら誇らしげに街のことを話して聞かせる。
この街の住人は、基本的に普通の人間と何ら変わりないこと。魔法使いすらいないこと。皆、各々仕事を持ち、食糧以外に生きていくのに必要なものは大抵揃っていること。食糧や、どうしても自給できないものは、リゼルヴィンが直々に仕入れてきていること。
そして、今夜は住人の中でも重要な役割を担う者たちが、屋敷に集まって会議を行っているという。
「騒がしくてごめんなさいね。あなたが来てることなんて、知らないものだから。この街では住人たちが自ら街の方針を決めるのよ。もちろん私が大抵のことはやってしまうけれど、住人でなければわからないこともあるわ。何より、街は住人のためにあるんだもの。このランプだって、会議で決めたことなのよ」
なるほど、だから声が聞こえたのかとジルヴェンヴォードは納得する。そして、リゼルヴィンがその経歴をも納得させるような人間であることに、すっかり感心していた。住人の声を取り入れる領主というのは聞いたことがあるが、ここまでして住人の望みを聞く領主は今のところリゼルヴィンくらいだろう。
ジルヴェンヴォードは、リゼルヴィンのことをとても恐ろしい魔女だとは思えなかった。
確かに、その黒髪も、その喪服も、リゼルヴィンの持つ雰囲気も、他とは違った感じがする。まだリゼルヴィンが魔法を使っているのを直接見ていないからかもしれないが、ジルヴェンヴォードにとっては、恐れを与えるわけでなく、むしろよくしてくれている優しい女性だ。今日初めて出会った相手だというのに、ジルヴェンヴォード自身も驚いている。けれど、どことなく、親しみを感じていた。
柔らかく微笑んだリゼルヴィンが、そっとジルヴェンヴォードの肩を抱き寄せた。
「ジル、あなたは王族なんだから、この街のことを知るべきだわ。けれど今はだめ。今は知るべきタイミングではないわ。だから、ね。私が言いたいこと、わかるかしら?」
「……はい」
微笑みは柔らかくとも、その目は鋭かった。
ジルヴェンヴォードが素直に頷くと、リゼルヴィンは満足そうに肩を抱く腕をほんの少し強くした。
きっとリゼルヴィンは、これ以上ジルヴェンヴォードにウェルヴィンキンズのことを知られたくないのだろう。王族として知るべきではあるが、今は知るべきではない。それは暗に、これ以上は立ち入るなと言っているようなものだ。
「ねえ、ジル?」
いつにも増して優しい声音のリゼルヴィンに、びくりと肩が跳ねてしまった。リゼルヴィンはそれにくすくすと笑う。
「あなたって本当に素直なのね。王族には向いていないわ」
「よく、言われます……恥ずかしい……」
ただ名前を呼ばれただけだというのに、肩が跳ねてしまうなんて、と恥ずかしさに顔を真っ赤にしながら、リゼルヴィンに導かれるまま椅子に座る。リゼルヴィンは食事のときと同じように向かいに座ったリゼルヴィン。茶髪の侍女がにこにこと笑いながら二人にお茶を出す。
あなたに訊きたいことがあるの、楽しげにするリゼルヴィンの前で、お茶の湯気が揺らいだ。
「まだ、あなたが飲まされた毒が一体何なのか、わかっていないみたいなのよねえ。私も私で薬に詳しい友人に訊いてみたけれど、気を失うだけの毒なんて知らないらしいわ。直球で訊かせてもらうけれど、あなた、誰かに恨まれるようなことをしたことある? ああ、違うわね、王族なら恨まれていなくても暗殺未遂なんてよくされるわね。質問を変えるわ。あなた、誰が自分を殺そうとしたと思う?」
まっすぐ見つめてくるリゼルヴィンと目を合わせられなくなって、ジルヴェンヴォードは目をそらしてしまった。それでも、リゼルヴィンは楽しげなままだった。
「大体、姉二人もその場にいたんだから、警備を強化していたはずよ。毒味だって、ちゃんとさせたんでしょう?」
「ええ、もちろん、やってもらうのはすごく申し訳なくて、嫌ですけど……」
「そうよね、他の二人のカップには入っていなかったものね。でも、菓子にも毒入りがあったっていうじゃない? そのとき、二人は菓子に手を付けなかったのよね? あなたも」
「あまりお腹がすいていなかったので……話に夢中になっていたし……」
「毒入りの菓子は一種類だけだったらしいわ。いくつか種類がある中で、一種類だけ。そして、侍女が確認したときには付着していなかった、カップの毒。これってどういうことなのかしらね? 毒入りの菓子はあなたが好むものだったんでしょう? 二人の姉ではなく、あなただけを狙ったものよね?」
子供のように笑うリゼルヴィン。ジルヴェンヴォードは小さく、わかりません、と呟くことしかできなかった。
それを聞き取ったらしいリゼルヴィンは、表情を変えずに身を乗り出した。ジル、と怖いくらいに優しい声で名を呼ばれて顔を上げると、リゼルヴィンはにこりと笑った。
「わからないならわからないなりに、答えなさい。あなたは王族でしょう」
恐ろしかった。間近にあったリゼルヴィンの瞳は、思わず見入ってしまいそうな琥珀色をしている。口元は笑っているのに、その瞳は笑っていなかった。これほど冷たい笑みを、ジルヴェンヴォードは見たことがない。
リゼルヴィンは悪魔の女だ、と誰かが言っていた言葉を思い出す。これほど冷たい笑みは、悪魔にしかでないだろうと納得してしまう。
一度そう納得してしまうと、もうリゼルヴィンが恐ろしくてたまらなくなった。今すぐにでも息の根を止められそうな気がして、体の芯の部分が冷えていくようだった。
そんなジルヴェンヴォードの様子に、リゼルヴィンは満足げに目を細めた。
「あなたは王族としての自覚が足りないわ。本当にあの、賢王シェルナンドの娘なのかしら」
座りなおして、リゼルヴィンはジルヴェンヴォードの父であり、先王の名前を出した。
離れたことに安堵しつつ、本当に先王の娘なのかと言われ、ジルヴェンヴォードは泣きそうになった。何度も言われてきたことだ。現王であるニコラスや厳粛で賢明だと言われるエグランティーヌはもちろん、純粋で無垢だと言われるアンジェリカまでもが、流石はあの賢王の子だと言われるほど冷静に物事に対処していくのに、ジルヴェンヴォードはそれができなかった。あんなに完璧な人間にはなれない、と何度も泣いた。自分はあんな風にはなれないのだと、ずっと反論したかったが、できなかった。王族なのだ、それくらいできなくては、国のために何かを成すことなど不可能だ。
リゼルヴィンが、はあ、と大きな溜め息を吐く。ジルヴェンヴォードは唇を噛み、俯いた。
溜め息を吐きたいのはこっちの方だ。本当はこんな街にいたくないのだから。