6-2
ゆっくりとゆっくりと下へ降りていく。底は見えず、ジュリアーナの姿も見えない。不安ばかりが膨らんでいくが、ジルヴェンヴォードは無心になろうと努力しつつ、慎重に足を壁にかける。
そもそもどうして井戸の底などに行かなくてはならないのか。不思議に思わないわけではないが、ジルヴェンヴォードはジュリアーナには逆らえない。騙され、両親を殺され、焼けつくような憎しみを知っても、ジルヴェンヴォードの根は優しいままだった。ジュリアーナから身分を奪ってしまったことを、本人が許した今でもまだ引きずっている。
「ジルヴェンヴォードさま、あと少しです」
ようやく下からジュリアーナの声が聞こえ、ほっとする。ジュリアーナが死んでいないのだから、ジルヴェンヴォードも死なないだろう。
この井戸に水はなかった。確かに水の気配があったのに、下りてみれば少し湿っているだけで、どんなに下へ行っても水などない。
更に下りてから思い切って下を見ると、底まではちょうどジルヴェンヴォードの背丈ほどの高さだった。
「さあ、ジルヴェンヴォードさま。手を」
ジュリアーナがこちらへ伸ばす手を取り、半ば飛び降りる形で底へ足を着けた。
心臓がどくどくと忙しく動いている。地面に足がついたのに、まだ浮いているようで気持ちが悪かった。
ジルヴェンヴォードから縄を解き、落ちていた石で壁を叩いて底に辿り着いたことをアンバーに伝える。するすると縄が引っ張られ、井戸にふたがされた。
光がまったくなくなってしまい、何も見えなくなる。こちらへ、と手を引かれたところには、壁だったはずのところに人一人がやっと通れるような空洞があった。
まずジュリアーナがそこを通り、その向こうで灯りが灯った。ジルヴェンヴォードもそこをくぐり、ランプを持ったジュリアーナにまた手を取られる。
「あの、ジュリアーナさま。ここは一体」
「王族に代々伝わる秘密の通路です。あの井戸から王城へ繋がっています。ここ以外にもあと三つ、四大貴族の領地にそれぞれ通じているらしく。四大貴族はそれぞれ王城への道を持っていますが、この道とは別のもので、この道を知るのは本当に王族のみとなっています。現在、これを知っているのは私だけですが」
自分に流れる王族の血が嫌いだと言うのに、ジュリアーナは王族のみが知るこの道を、たった一人だけ知っている。本来は知るはずはなかったのだが、シェルナンドがジュリアーナの中に入ってきたとき、ジュリアーナの頭に入り込んでしまった記憶からこの道の存在を知った。正直に言ってしまえば知りたくなかったのだが、今こうして役に立っているだけよしとする。
「王城へ行って、どうするのですか」
ジルヴェンヴォードの問いに、こちらを見ることもなく、当たり前のようにジュリアーナは答えた。
「決まっているではありませんか。現国王ニコラスに文句を言いに行くのです。私をこんな風にしたのはお前のせいでもあるのだと、はっきりわからせてやるのです。行きたくないかもしれませんが、ついてきていただきますので逃げられませんよ。あなたとニコラスを会わせろと、主さまの命ですから」
王城、と聞いて止まりそうになった足は、止まらなかった。
文句を言いに行くのなら是非ともついていく。王城など近寄りたくも見たくもないが、ニコラスに文句を言える機会は少ない。今回だけで十分なくらい、思い切り文句を言って罵倒してやろう。そう思うと、ジルヴェンヴォードの足取りは軽くなった。後ろめたさも恐怖も不安もない。ただ、ニコラスに文句を言いに行くだけ。ただそれだけ。もう王でなくなるのだから、不敬罪にも当たらないだろう。
ニコラスを思い出すと、アンジェリカとエグランティーヌを思い出した。
アンジェリカはジルヴェンヴォードを見て、少しだけ不安を感じていたようだと、今になってみれば思う。初めの頃はどこか笑顔にぎこちなさがあった。だが、段々と本当の姉妹のように接してくれた。あの頃は、本当の姉妹だと思い込んでいたため嬉しかったものだが、真実を思い出した今、とてつもなく申し訳ない気持ちになる。
更に申し訳ないのが、エグランティーヌだ。エグランティーヌは先王と似ていると言われていたジルヴェンヴォードをよく可愛がってくれた。金髪も碧眼も素晴らしいと褒め続け、嫁ぎ先のセリリカ公国の情報をかき集め、あちらに行ったらまずどう動くべきか考え教えてくれていた。エグランティーヌ自身が金髪碧眼を受け継がなかったために、よく似ていると言われたジルヴェンヴォードに安心したのだろう。ずっと隠されて育ってきたことになっていたが故に、ジルヴェンヴォードは先王の子ではないのではと言われ続けていた。庇ってくれていたエグランティーヌを、故意でなくとも騙してしまっていたのだ。
思い出せば、二人ともジルヴェンヴォードに優しく接してくれていた。ニコラスは憎いが、あの二人は、とても愛おしい。本当の姉妹であったら、どれだけよかったことだろう。
虫や鼠も這う道をひたすらに進んでいくと、古ぼけた、しかし頑丈そうな扉が現れた。ジュリアーナがその扉に手をかざすと、独りでに扉が開く。魔法がかかっているのだろう。
その先は、数段上るだけの階段。
「この先は王城のある部屋に繋がっています。誰も使っていない部屋です。使えない部屋、とも言います。万が一にもないとは思いますが、誰かに遭遇してしまうかもしれません。そんなときは、私がいいと言うまでは喋らず、出来るだけ物音を立てずに速足でついてきてください」
ジルヴェンヴォードが緊張した面持ちで頷くと、ジュリアーナはふうっと息を吐いた。ジュリアーナも、少しは緊張しているのだろうか。それとも、ジルヴェンヴォード以上に王族を憎むジュリアーナは、ニコラスに会えることが楽しみなのだろうか。
「では、行きますよ」
階段を上りきると、また扉があった。同じようにして開ける。
その先には、慣れた空気が流れていた。
一目で高価なものとわかる物に囲まれた部屋。王家の紋章の入ったものもいくらか見える。
流れる空気から、ジルヴェンヴォードはこの部屋が王城の一室であると認めざるを得なくなった。一度も入ったことのない部屋であっても、なんとなくわかるものだ。
テーブルセットには何か書かれた紙が数枚散らばっており、中には書きかけの紙もあった。零れたインクはまだ乾ききっていない。
そこで、ジルヴェンヴォードは違和感に気付く。この部屋には、扉がなかった。ジルヴェンヴォードたちが入ってきた扉も、まさか扉があるとは思えないほど巧妙に隠されている。
「この部屋は、時が止まっているのです。もう随分誰も立ち入っていませんので、ご安心を」
誰かいたのではと警戒したジルヴェンヴォードに、ジュリアーナは訳知り顔でそう言った。
一直線に暖炉へ向かったジュリアーナは、ためらうことなくその中に入り、探るようにその壁を触って、あるところで手を止めた。その部分だけが外れ、ジルヴェンヴォードを手招き、ジュリアーナは先に奥へ行ってしまう。
慌ててその後を追うと、入り口は屈まなければ通れない大きさだったが、立ち上がれるほどの高さはあった。
「階段を下りた先に、地下牢があります。大陸が戦乱に明け暮れていた時代に使われていてた、捕虜を囲うためのものです。ニコラスは、そこにいます」
ジルヴェンヴォードを見ずそれだけ言って、ジュリアーナは階段を一歩一歩、まるで躊躇うように時間をかけて下りて行った。後を追いながら、その背がいつもより小さく感じる。
ランプだけで十分照らせるくらいに階段の幅は狭く、人一人がようやく通れるほどだ。
井戸を下りたり暖炉に入ったりと、汚れるようなことをたくさんしたため、ジュリアーナが魔法で服を綺麗にしてくれた。ジュリアーナは魔法を使えただろうか、と思い返してみたが、この数日の交流の中だけでは判断出来なかった。魔法を使うような場面がなかったのだ。
「こちらです、ジルヴェンヴォードさま」
下りきったところで、ジュリアーナは立ち止まる。声は変わらないが、よく見れば体が震えていた。
「ジュリアーナさま……大丈夫ですか?」
「少々興奮しすぎているようです。なんてことはありません」
振り向いたジュリアーナは、今にも笑い出しそうで、泣き出しそうな、なんとも言えない表情をしていた。
ジュリアーナは王族が嫌いだ。自分を含めても、嫌いだ。
だが、誰も彼もが嫌いというわけではない。すべての不幸の原因である先王シェルナンドが一番嫌いで一番憎く、その血を引くというだけで、他はおまけ程度だ。シェルナンドの存在のすべてが憎い。生きた証とでも言うべきその子らは、シェルナンドが死ねば後はどうでもいい。
この「シェルナンドが死ねば」というのはもちろんジュリアーナの中から消えるということであり、存在自体が消滅するということである。
おまけ程度とは言っても、嫌いなのには変わりない。特にニコラスは、リゼルヴィンに大変な迷惑をかけ、不幸を味あわせ、泣かせた。それはジュリアーナにとって万死に値する罪である。出来ることならこの手で殺してやりたい。手足の指を一本一本切り取り、関節をあらぬ方向へ捻じ曲げ、じわじわと肉を削ぎ、この世の苦痛を残らず味あわせてから殺してやりたいくらいだ。リゼルヴィンがそれを許すことは決してないために、それをしないだけで、何も言われなければ勝手にそうしていただろう。
冷静にならなければ。今夜は、ジルヴェンヴォードとニコラスを会わせ、自分の正体を明かすために来たのだ。我を忘れてニコラスを傷つけることは、我らが主には許されていない。
ジュリアーナは深呼吸を二回ほど繰り返して、前を向きなおす。
「行きましょう。愚王ニコラスに、八つ当たりをしに」