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自室に到着すると、まず寝室を覗いてミランダがちゃんといるか確かめた。朝、暇潰しにと渡した本を開くこともなく、ミランダは寝台で上体を起こしたまま、窓の外を眺め何やら考え事をしているようだった。こちらに気付くこともなかったため、あえて声を掛けないでおく。声を掛けたとしても、深く考え込んでいるときのミランダには誰の声も届かないからだ。
そっと寝室の扉を閉め、ジュリアーナを探しに部屋を出た。
リゼルヴィンの屋敷も、王城と同じく普段と何も変わらなかった。昼間に屋敷で働く者は少なく、しんと静まり返っている。
ジュリアーナは昨夜も動いていたため、今日は休めばいいと今朝声を掛けたのだが、結局いつも通り働くといって聞かなかった。この時間だ、ジルヴェンヴォードと共にいるだろう。そう考えてジルヴェンヴォードの部屋へと足を運んでいたとき、廊下でばったりと目的の人に出会った。
「主さま、お帰りになっていたのですね」
「ええ。すぐにまた戻るけれど」
探す手間が省けたリゼルヴィンは、ジュリアーナと共にジルヴェンヴォードの部屋へ向かった。丁度、ジュリアーナと二人で話したかったこともあったため、好都合だ。
「ジュリアーナ、あなた、どうしたいの?」
「どう、とは」
「あなたが第三王女だって、ジルに話したんでしょう? 今なら、元の身分に戻してあげることも出来るわよ。ただ、すぐにセリリカへ嫁ぐことになるけれど」
リゼルヴィンは表情を変えず、微笑んだままで、ジュリアーナの好きにするように言った。ジュリアーナが望むのならば、元の身分に戻してやることも、今のままでいることも、国を乗っ取ることもしてやると。
「主さまがご迷惑でないのならば、私は」
少しだけ考えて、ジュリアーナは申し訳なさそうに答える。
「私は、主さまのお傍に居続けたいと思っています。身分など、元より人間の扱いですらなかったのですから、なかったも同然です。勝手だとはわかっています。私の存在のせいで、主さまにご迷惑をかけてしまったことも、重々承知しています。ですが、私は……。私は主さまのお傍で、こうしてほんの少しでもお役に立てることが、一番の幸福なのです」
ジュリアーナにとって一番の幸福は、リゼルヴィンの役に立つことだ。常に傍に控え、主の望むものを言われずとも用意し、そのために行動出来ることが、何よりも幸せに思う。
あんな地獄を味わった身分になど戻りたくもないし、いい記憶のない『ジルヴェンヴォード』なんて名前にも戻りたくない。
何より、憎くて憎くてたまらない王族になるなど、死んでも嫌だ。
そう言ったジュリアーナの頭を、リゼルヴィンがそっと撫でた。
「じゃあ、その方向で動きましょう。ジルにもよく言って聞かせなきゃならないわね」
「ほっ、本当ですか! ありがとうございます、主さま!」
「当たり前じゃない。私も、あなたがいなくなるのは寂しくて耐えられないわ」
心底嬉しそうにジュリアーナが笑い、それを見てリゼルヴィンは満足げに頷いた。
ウェルヴィンキンズに来てすぐのジュリアーナは表情がまったく変わらなかった。あの頃に比べると、まだ無表情が目立つが、少しずつ色々な表情をするようになってきた。
ジルヴェンヴォードの部屋につき、ノックをして中に入る。怯えが浮かびながらも、しっかりとした目でこちらを見たジルヴェンヴォードは、ジュリアーナに駆け寄った。
「ジュリアーナさん、いいえ、ジルヴェンヴォードさま。やっぱり、わたし『ジュリアーナ』に戻ります。今までずっとこの名前を勝手に借りてしまって、本当に、ごめんなさい。すぐにお返ししますから、どうか」
「それについて、話があるわ。ジル、とりあえず落ち着いて、座って。ジュリアーナもね。あなたたちは、ちゃんと話し合わなきゃ駄目よ」
渋々といった様子でリゼルヴィンに従い、ジルヴェンヴォードが座った。ジュリアーナもその正面に座り、リゼルヴィンは少し離れた窓枠に寄りかかりながらこちらを見る。
ジルヴェンヴォードはジュリアーナの正体を知って、大変なことをしてしまったのだと改めて思い知らされたという。いくらニコラスのせいだとは言っても、今まで気付かずに呑気に暮らしていた上に、本物の第三王女であるジュリアーナにこんな暮らしをさせてしまっていたというのは、許されない罪である、と。
「王族でもなんでもないのに、この身分を奪ってしまったこと、本当にごめんなさい。死罪になっても文句は言いません。ですから、王女さま、どうか王城にお戻りください」
「それは出来ません」
「どうして……。だってあなたは、本当の王女さまでしょう、もとの生活に戻るべきです。わたしがいたから、今までずっと」
懇願するジルヴェンヴォードの言葉を遮るように、ジュリアーナは強く言った。
「あなたがいてもいなくても、私がこの生活をやめることはありません。私はこの生活を気に入っているのです。そもそも、勘違いなさっています。私は確かに第三王女として認められていましたが、あなたが迎え入れられてから今までの暮らしと、私が生まれて王城を去るまでの暮らしは、天と地ほどの差があります。あなたは王女として大切に接せられたでしょうが、私は家畜にも劣る扱いをされてきました。あなたがもし私と同じ扱いをされていたとして、今更そんな場所に帰りたいと、思いますか?」
具体的にどのような扱いをされたか聞かずとも、ジュリアーナの無表情ながらどこか憎々しげな表情から、どれだけ酷いものだったか想像出来たのだろう。ひっ、と小さく悲鳴を上げたのを、ジュリアーナは聞き逃さなかった。
「あなたも嫌なのだと思います。あの王がいなければ、あなたは両親と共に幸せな暮らしを続けられ、両親が殺されることもなかったのですから。先王に似ているなどと言われ、過度な期待をされることもなく、平凡な幸せを掴めていたでしょう。あなたの大切なものを奪い、それを嘘で誤魔化したあの王のいる場所になど、帰りたくないはずです。ですが、あなたが少しでも私に対して申し訳ないと思っているのでしたら、私に構わず『第三王女ジルヴェンヴォード』を名乗り続けてください。私は私で、あなたの本当の名前である、この『ジュリアーナ=フィアード』を名乗り続けます。人生の交換とでも思っていてください。そうしてくれることが、私に対しての償いです。お願いできますか」
ジュリアーナの提案に、ジルヴェンヴォードは泣き出した。嬉しかったからではない。あの場所に帰れと言われたからだ。ジュリアーナは、自分が帰れと言ったら、ジルヴェンヴォードが帰らざるを得られなくなると知っていて、そう言った。『ジルヴェンヴォード』がいなくなってしまえば、大変なことになってしまう。国がどうなろうと、王族がどうなろうと、ジュリアーナの知ったことではないが、そうなればきっとリゼルヴィンにも多くの仕事が回ってくるだろう。ジュリアーナの望みは、リゼルヴィンの傍に居続けることだ。迷惑をかけたいわけではない。
ジルヴェンヴォードに同情しないこともない。自ら第三王女に成りすますと決めたのなら気に入らないが、ジルヴェンヴォードだって被害者のようなものだ。ジルヴェンヴォードがジュリアーナの立場だったら王城に帰りたくないと思うように、ジュリアーナもジルヴェンヴォードの立場だったら帰りたくないと思う。
だが、助けようとは思わない。ただ同情するだけだ。それも、ほんの少しだけ。
自分に対して申し訳ないと思うなら、その思いを利用して、第三王女で居続けさせる。万が一にでもジュリアーナが本物の『ジルヴェンヴォード』だとばれて、王城に連れ戻されるようなことがないように、ジルヴェンヴォードには今まで通り第三王女でいてもらわなければ困る。
「すぐに嫁ぎに出るのです。そして、あの王はすぐに死にます。二度と会うことはありません。ですから、お願いできますか」
泣きっぱなしのジルヴェンヴォードだが、それでも頷いた。頷くしか、なかった。
セリリカに行くのだから、あんな憎い男の顔を二度と見なくて済む。それだけがジルヴェンヴォードの希望だった。
「ありがとうございます、ジルヴェンヴォードさま。セリリカ公国にて、お幸せになってください」
そう言ったジュリアーナの表情は明るく、優しく、そして幸せそうだった。
これでジュリアーナは二度と王女に戻らなくて済むのだ。身代わりが出来たことは、何よりもの収穫だった。