5-1 選択する者
窓から差し込む光で、朝を迎えたことを知った。
ジルヴェンヴォードは椅子から立ち上がり、窓を開けて空気を肺一杯に吸い込んだ。
昨夜は一睡も出来なかった。本当の自分の記憶を取り戻してからというもの、両親と自分を引き離したニコラスが憎くてたまらない。両親を殺したのはリゼルヴィンだが、リゼルヴィンは悪くない。ニコラスが自分を『ジルヴェンヴォード』にしなければ、こんなことにはならなかったのだ。そう考えていると、とても眠れそうにはなかった。
「違う、私は……私はジルヴェンヴォードじゃないわ」
明るくなっていく空を見つめながら、自分が口にした言葉にはっとする。
自分の名は、他にある。ならば本来のジルヴェンヴォードは一体誰なのか。
「そうだわ、だって、そうよ、あの人がきっと」
一人、思い当たる人がいる。
なりふり構わず部屋を飛び出した。彼女は基本的に昼間の担当だ。とても早くから働いていると、ウェルヴィンキンズに滞在している間にわかっている。今だって、きっと屋敷のどこかにいるはずだ。
廊下を駆け、階段を駆け下り、その後ろ姿を見つけて確信する。
「ジュリアーナさんっ!」
「何かありましたか、こんなに朝早く……」
「あなたでしょう!?」
肩で息をしながら走ってきたジルヴェンヴォードに驚いた様子もなく、ジュリアーナは振り向く。
ああ、やはりそうだ。正面から顔を見れば、すぐにわかる。
「あなたが、本物のジルヴェンヴォードなんでしょう!?」
右目は包帯で隠されているが、そのきりっとした目や顔だちは、ほんの少しだが確かに先王シェルナンドに似ている。
ジュリアーナこそが、本物のジルヴェンヴォードで間違いない。
そもそもジュリアーナに初めて会ったときの親近感は、金髪碧眼の持ち主だったからではなかった。
今、『ジルヴェンヴォード』と呼ばれている自分の、本当の名前が『ジュリアーナ』だったのだ。
ニィ、と口の端だけ釣り上げて、ジュリアーナが笑う。
「よくわかりましたね、ジルヴェンヴォードさま。――私こそが、この国の第三王女、『ジルヴェンヴォード』で間違いありません」
「おはよう、ミランダ。気分はどうかしら」
「……最悪だよ。全部覚えてる」
ミランダが目を覚ますと、リゼルヴィンがベッドに腰掛けてこちらを見ていた。
ゆっくりと上半身だけ起こし、優しく微笑むリゼルヴィンの手を握る。まだ、ミランダの手は震えていた。
「朝起きて、昨日の出来事がすぐ思い出せるなんて、初めてだ……。恐ろしくてたまらないよ。なんだって、いきなり、あいつが……」
「私が話をつけてきたわ。だから大丈夫。しばらく彼は来ないわよ」
「わかってる、リゼルが動いてくれたんだろう? 今まで守ってくれていたのも、リゼルだ。信じてる、信じてるよ……。でも、やっぱり怖い……」
ミランダの手を握り返し、リゼルヴィンはミランダをそっと抱きしめた。
弟と会うことが、ミランダは何よりも恐ろしい。
グロリア――ファウスト=クヴェートは、クヴェート伯爵家の子だ。その彼が弟となれば、ミランダもまた、クヴェートの子となる。『グロリア』という名前は、ミランダのものだった。
だが、今のミランダは、ただのしがない研究員の『ミランダ=フェルデラッド』だ。貴族でもなんでもない。
それはミランダがあの家を飛び出してきたからだ。家出をして、もう四年ほどになる。ミランダは交流のあったリゼルヴィンに頼り、その頃はまだ友人でもなんでもなく、ただ顔見知り程度の間柄だったが、リゼルヴィンはミランダの尋常ではない様子に何かあったのだと察して匿ってくれた。事情を聞いたリゼルヴィンはミランダに協力することを決め、新たな名を与え、住む場所と生きる術を与えた。それが、あの研究所で薬を研究することだった。
感謝してもしきれないほど助けてもらい、ミランダは申し訳ないと言っていたが、リゼルヴィンとしてはそれで大切な友人が出来たのだから安いものだ。『黒い鳥』と言われる自分と対等に仲良くしてくれる者など少ない。
ミランダは迷うことなく名を捨て、新たな人生を歩み始めた。どれだけの覚悟が必要だったかはリゼルヴィンにはわからない。はっきりと言えるのは、その道がミランダにとって、それまでの人生よりいいものだったということだけだ。家族に追われることを恐れ怯えていたあの頃に比べて、今のミランダは生き生きとした笑顔を浮かべている。それが何よりの証拠だ。
家を飛び出してきた理由はいくつかあるが、中でも「弟が生まれたから」という理由が大部分を占めていた。
ミランダは生まれつき記憶力が悪かった。他で普通より劣っているところはないのだが、記憶力が普通よりもかなりと劣っていた。それもばらつきがあり、ほんの数分前のことを忘れることもあれば、もう随分と前のことを覚えていることもある。つい先程は忘れていた事柄でも、今は覚えていたりと、なかなか厄介なもので、自分の名前すら忘れてしまうこともあった。代々魔導師を輩出してきたクヴェート家では珍しく魔法を使えなかったのもあり、ミランダは親類に蔑まれ、ないものとして扱われていた。
しかし、ミランダは女だ。政略結婚には使える。
唯一の使い道のために、不自由な生活を強いられることはなかったが、部屋の外に出ることも許されず、勉強することも許されなかった。故にリゼルヴィンのところに飛び込んできたときは、ミランダは最低限の文字しか読めなかった。
そんなミランダの存在を、不必要なものとした出来事が、弟の誕生だった。
弟のファウストは生まれてすぐに天才と呼ばれた。溢れる魔力の量はクヴェートの血を引く者でもそうそう持たないものだった。十になる頃にはその優れた頭脳もあり、天才そのものだった。
ファウストさえいれば、クヴェートは安泰だ。親類も両親も、皆がそう言った。ミランダを政略結婚に使う必要がなくなったのである。ファウストほどの力を持つ魔導師ならば、良家の娘をもらうことは簡単だ。
次第にミランダの扱いが悪くなっていった。食事が出ない日もあった。もっと酷いときは、食事に毒が盛られていた。それでも生きてこれたのは、ミランダの傍に居続けてくれた心優しい乳母のおかげだった。乳母は自分の食事をミランダに分け与え、毒の入った食事を見分けその毒が何か教えてくれた。かつては女医を目指していたという乳母は、それはそれは薬や毒に詳しく、ミランダもその影響で記憶力が悪くとも徐々に知識をつけていった。
そして、四年前、その乳母が流行り病で死んだ。
乳母は病が流行していることを知ってすぐ、ミランダに「私が死んだらすぐにこの家から逃げてください」と言った。ミランダも家族に見つからないようこっそりメモをして、その言葉を忘れないようにした。案の定乳母は流行り病にかかり、死んでしまったが、毎日メモを確認していたミランダはすぐに家出の準備をした。その協力者は、乳母の親戚の子であった使用人と、乳母の友人であった庭師の二人だけだった。
二階にあったミランダの部屋の窓から見えるのは、屋敷の裏庭だ。乳母の友人であり、ミランダにも優しくしてくれた庭師の協力で、勇気を振り絞ってミランダは窓から飛び降りた。地面には落ち葉が大量に敷かれており、痛みはあったが大した怪我はしなかった。ミランダが立ち上がってすぐ庭師はその落ち葉を片付け、使用人は窓を閉めた。ありがとう、と小さく礼を言って、ミランダは振り返らずに逃げた。逃げなければ、この家に居ればいつか殺されるのは目に見えていた。
クヴェートの領地である街は王都の南にある。とにかく遠くに行くために、北のウェルヴィンキンズに向かった。リゼルヴィンとは数回だけ仕方なく連れて行かれた社交の場で面識がある。それだけで助けてもらえるかはわからないが、そこへ向かうしかなかった。
話を聞いたリゼルヴィンの表情を、今でもミランダは忘れない。ミランダの話を聞いて涙を浮かべてくれたリゼルヴィンは、ミランダにとって救世主だった。
同時に、それからミランダは追ってくる家族への恐怖を強くする。死んだことにされたとリゼルヴィンから聞いても、安心は出来なかった。