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  作者: 小林マコト
第一部 愚王 
25/131

4-5

 嫌な汗が出る。早く目を離したいのに、エグランティーヌは動けなかった。

 汗で滑って剣が落ちそうになり、慌てて掴みなおす。今ここでニコラスを殺してはいけない。


 しかし、ゆっくりとこちらに近寄るリゼルヴィンはどうだろう。ニコラスを殺そうとしているのではないか。エグランティーヌを、殺そうとしているのではないか。

 エグランティーヌの怯えに気が付いたリゼルヴィンは、申し訳なさそうな表情をして、いつもの声で言った。


「安心なさい、殺す気はないわ。殺すなら扉を開けた瞬間に殺してるわよ。だからその……あまり見ないでくれるかしら。こんな怪我、恥ずかしくて他人に見られたくないもの」


 リゼルヴィンが一歩一歩踏み出すたびに、その腹から流れた血が床に赤い模様を作る。血の染みた真っ黒な喪服は、腹の部分が裂けて、リゼルヴィンの白い肌がちらちらと見えた。


 そこにあるはずの、グロテスクな傷は、なかった。

 ただ滑らかな肌があり、傷ついた様子もなく、真っ赤な血がついて乾き始めているだけ。治癒をした様子はなかった。


 リゼルヴィンは、死なないのか。エグランティーヌは思う。リゼルヴィンはまさに悪魔の女だ。正真正銘の悪魔だ。人間如きがどんなに傷つけても、たとえ殺しても、絶対に死なない。人ならざる、穢れた存在。


「これだから嫌なのよね……。エーラ、冷静になって。恐れることは何もないのよ。宣言するわ。私は私の唯一の主が許す限り、あなたの味方であり続ける。だからほら、私を怖がらないで」


 パンッ、とリゼルヴィンが手を叩いた音に、はっと我に返る。

 それまでの恐れはなく、疲れで重たいが体も動いた。エグランティーヌは何事もなかったかのように、ニコラスから退いた。抵抗することもないだろう。ニコラスの目には、何の光も映っていないようだ。ただ、柔らかな笑みを浮かべているだけだった。


 リゼルヴィンはエグランティーヌから恐怖を一滴残さず取り除いた。あまり自信のない魔法だったが、上手くいったようで安心する。友人に恐れられて傷つかないわけがない。


「この男をどうするの? 本人は、裁かれたいようだけれど」


 リゼルヴィンの問いに、エグランティーヌは考える。

 ニコラスを民衆の前で処刑するつもりでここに来た。だが、そんなことをしては他国に情報が洩れ、厄介なことになるだろう。これからエンジットとの取り引きをやめてしまうかもしれない。

 そんなことにならないためにも、出来るだけ波風立てず、誰にも知られず、ごく自然に退位させたい。ニコラスはどんな決定が下っても、頷き従うはずだ。


「……王は不治の病に罹り、床に臥せったと民に公表しようと思う」

「そう、そうするの」


 エグランティーヌの答えに、リゼルヴィンはつまらなさそうな顔をするが、何も文句は言わない。結局何のためにここに来て、エグランティーヌの味方のような真似をしたのかはわからないが、リゼルヴィンは国を乗っ取ろうなどという考えは持っていないようだ。


「契約を結ぶんだ、エーラ。リゼルヴィンと契約を結べ。そうすれば、リゼルヴィンは君の味方になる」


 寝転んだままのニコラスが、掠れた声でエグランティーヌに言う。

 リゼルヴィンも、その言葉に頷き、エグランティーヌの前に跪いた。


「ニコラスの言う通り、仮だけれど、今ここで契約しておいた方がいいでしょう。私の言う言葉を繰り返しなさい」


 そもそもリゼルヴィンの言う契約とは何なのかよく理解出来ていないが、二人の真剣さに、エグランティーヌも頷いた。


「いい、手を出して。一言だけよ、繰り返して。――『汝、我が僕となりて、我が命に従うと誓え』」


 言われた通りに右手をリゼルヴィンの前に出し、リゼルヴィンの言葉を繰り返す。


「『汝、我が僕となりて、我が命に従うと誓え』……」

「――『誓う。我が腕は主の剣となり、我が肉体は主の盾となり、主の命に従うと誓う』」


 言いながら、リゼルヴィンがエグランティーヌの右手の甲に額をつける。


 触れた先から、リゼルヴィンの魔力が流れ込んでくるのを感じた。魔法については何も知らないエグランティーヌだが、それが魔力なのだとはっきりとわかる。

 心が満たされるような、そんな気分になり、ふわふわと眠気すら感じる。そして何より、リゼルヴィンを征服した気分で舞い上がりそうだ。

 実際、この行為はリゼルヴィンがエグランティーヌの所有物となる契約だ。仮契約だからこそ魔力が流れ込む量が少なく、幸福を感じるだけで、正式な契約をする際は悶え苦しむことだろう。魔力とは本来、荒々しく人間の手には負えないものだ。


「これで、私はあなたの奴隷になった。あなたは私の主になった。仮契約の期間は一月。正式な契約を結びたいのなら、期間内に言いなさい。ちゃんとした説明をするわ」


 エグランティーヌとは反対に、ぐったりと疲れ切った表情でその場に寝転がるリゼルヴィン。

 やってしまった、とどこか後悔している様子に、少し心配になる。ニコラスは満足げにこちらから目を離した。


「リィゼル……そんなに私の奴隷になるのが嫌?」

「嫌に決まっているでしょう……。ああ、違うわ、あなたの奴隷ならいいとも思える。けれど、これじゃあもうあなたは友人じゃなくなっちゃうじゃない……。せっかく仲良くなれたと思えたのに……。なんであなたが王族なのよ……」


 ふてくされたようなリゼルヴィンに、エグランティーヌは嬉しくなって笑ってしまった。きっ、とリゼルヴィンが睨んでくるが、それでも笑いが止まらない。

 まさかリゼルヴィンがここまで自分を大切に思ってくれているとは。

 エグランティーヌより三つ年上のリゼルヴィンは、普段の落ち着いた雰囲気もあり、友人でありながら姉のような存在だった。しかし、時折見せる可愛らしい一面は、とてつもなく愛おしく思える。今回も、とても可愛らしくて、愛おしい。


「じゃあ、奴隷なんて言わないで、友人として傍にいてよ。首輪もいらない。リィゼルの魔力を抑えるものが必要なら、もっと他の、可愛らしいものにしよう。私もリィゼルと友人でいたい」

「あー、そうね、ええ……。そっちの方が私にも都合がいいわ。正式に契約を結ぶことになったら、ちゃんと話し合いましょう。私の話も、聞かせてあげる」


 恥ずかしくなったのか、立ち上がり、頭を掻くリゼルヴィンに、またも笑いが込み上げる。

 いい友人を持ててよかった、と心底思う。リゼルヴィンが一緒にいてくれるのなら、エグランティーヌも頑張れる。


 命じなさい、とリゼルヴィンがふと真顔に戻って言った。


「私に、グロリアと共に情報操作をしろと命じて。このことは絶対に国外に洩らすなと。そして、民の記憶からも、このことを消せと」


 リゼルヴィンの目は本気そのもので、エグランティーヌが命令するのを待っていた。

 たった今、友人として傍にいてくれと言ったばかりなのに、命じてしまったら友人でいられない気がして、エグランティーヌは躊躇う。


 そんなエグランティーヌに、リゼルヴィンはゆるゆると首を振った。


「あなたが許すなら、私はあなたの友人でいるわ。何を命じられたって、あなたが道を間違えなければ、私は傍にいる。友人だもの、少しくらい命令(おねがい)されたって、叶えてあげるわ」


 優しい笑みに安堵し、エグランティーヌはすうっと息を大きく吸った。

 そして、リゼルヴィンが言った言葉を繰り返すように、緊張しつつ命じた。


「今日この事件を、王宮魔導師グロリア=クヴェートと協力し、すべての国民の記憶から抹消せよ。国外に洩らすことは許さない」


 エグランティーヌのまっすぐな目に、リゼルヴィンは微笑んだ。


「御意に。――我が友人のため、この命に代えてでも」


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