3-1 血と雨
あの日も確か雨だったな、とリゼルヴィンは窓を開け空を見上げる。
ここ最近顔を出していた太陽が、今朝は分厚い雲に隠されていた。
「約束の日よ、エーラ。今日は雨だわ……」
湿った風を肌に感じ、独り言ちる。
無意識に口角が上がるのがわかった。エグランティーヌとアンジェリカに面会してから一週間、ずっとリゼルヴィンは機嫌がいい。
「どうだ、ずっと望んでいた展開を迎えた、今の気持ちは」
リゼルヴィンの隣で、壁にもたれてこちらを見る、肩につくほどの長さの金髪の男がリゼルヴィンの様子を見て鼻で笑った。
「最高の気分です。ここまで気分のいい日は、もう何年振りかわかりません」
「そうか。それは結構なことだな」
その男は、この世の人間の髪とは思えない程、はっきりした金色の髪を持っていた。ニコラスの輝く金でもなく、アンジェリカのように白に近い金でもない。ジルヴェンヴォードの陽だまりのような金でもなく、ジュリアーナのくすんだ金でもなく、ギルグッドのぎらぎらした金でもない。はっきりとした金だった。ニコラスより輝き、アンジェリカのように薄くなく、ジルヴェンヴォードのような優しげな色でなく、ジュリアーナのようなくすみは一切なく、ギルグッドよりもぎらぎらと濃い金。
そしてその男の目は、真っ青だった。深海を思わせるほど濃く、絵の具でも表現出来ないような鮮やかな青。
すべてを見下したようなシニカルな笑みを浮かべたその男に、リゼルヴィンは敬語を使い、礼儀正しい態度を取っていた。
「ですが、本当に良いのですか」
「構わんと何度言えばわかるのだ。余が良いと言うのだ、貴様は何も言わず従えばよかろう」
「申し訳ありません。では、このまま」
男はリゼルヴィンが頭を下げたのを満足げに見下ろす。
「激しい雨になりそうだぞ、リースよ」
昔を思い出すな、と男は言う。
リゼルヴィンとこの男との間には、他者には入り込めない強い繋がりがあった。誰が見てもわかるほどのそれは、主従の関係であると、察しのいい人間ならばすぐに気付くだろう。
「間近で見れんというのが残念でならん。これほどまでの見世物はそうそうないぞ。あのエグランティーヌがこのような動きをするとは信じられんかったが、面白いほど予定通りに転がってくれた」
男は笑う。その笑みは狂気じみていて、リゼルヴィンは背筋がぞくりと泡立つような感覚に襲われた。
「命令だ、リースよ。余にこれ以上ないほどの見世物を見せよ。どのようなことをしてでもだ」
リゼルヴィンの首に手を伸ばした男は、細い首に巻かれた、『王家の奴隷』の証である黒い首輪を取り払った。
リゼルヴィンの周囲の空気が、微弱な電気を纏ったのようにピリピリと男の肌を刺激する。
首輪を解かれたリゼルヴィンは、本来の強大な魔力を取り戻した。しかし急激に解き放たれてしまったせいで、体内で消化することが出来ず、リゼルヴィンの体中に深い切り傷が生まれた。魔力が暴走した結果、内側から体を傷つけられたのだ。傷から勢いよく血が飛び出し、口からも血が吐き出される。
男はおかしそうに笑ったままだ。手を貸そうとも、心配している素振りも見せず、服や顔に飛んできたリゼルヴィンの血を拭うことすらもしなかった。男の金髪をリゼルヴィンの血の赤が染める。
「なあ、リースよ。余は貴様に期待している。貴様ほど優秀な奴隷はそうそういない。良き玩具として、余を楽しませてくれ」
魔法での治癒でどうにか傷を塞ぎ始めたリゼルヴィンは、ぜえぜえと肩で息をしながらも、その場に片膝をついて首を垂れる。
「承知、しました……。我が主、シェルナンド=ヴェラール=エンジット陛下」
男は笑う。リゼルヴィンも、血にまみれながらも恍惚とした表情で笑う。
この男の名は、シェルナンド=ヴェラール=エンジット。
建国以来最も優れた王と謳われ、賢王と呼ばれ、三年前に国中から惜しまれて死んだ先王その人である。
その頃、エグランティーヌもまた、空を見上げていた。
雨の気配に眉を寄せる。まだ準備が万端でないというのに、約束の日がやってきてしまった。
ぎりぎりと親指の爪を噛む。苛立ったときの悪い癖だ。
天気というのは、完璧に予測することは出来ない。おおよその予測は出来ても、魔法でも使えない限り的中させるのは難しい。そんなものに腹を立てても仕方がないのだとはわかってはいるが、やはりまだ時期が早すぎる。
だが、降ってしまうのは明らかだ。まだ時間が欲しいところだが、決行するしかない。
エグランティーヌは腰に剣と銃を提げ、仮面で顔を隠し、マントについたフードを深く被る。グロリアほど上手く隠すことは出来ないが、簡単にはエグランティーヌだとばれないだろう。動きやすいようにマントの中は男装してある。靴も、ヒールなど以ての外。デザインではなく履きやすさと動きやすさを重視したものだ。
いつも結い上げていた深い茶髪は、切ってしまった。抵抗がなかったと言えば嘘になるが、エグランティーヌはあえて髪を切ることで覚悟を確かなものにした。慣れない短髪は首にちくちくと刺さって少し気になる。
エグランティーヌはアダムチークの屋敷に一週間、一度も帰っていない。
徹底して『第二王女エグランティーヌ』として動いていたのだ。エンジットでは降嫁しても国にいる限り王位継承権を返上する義務はない。地位も保障され続ける。したがって、エグランティーヌは『アダムチーク侯爵夫人』と『第二王女エグランティーヌ』という二つの地位を同時に保持していた。
王族一人一人に与えられる一定の財産と私兵を上手く活用し、エグランティーヌはたった一週間で王家に立ち向かう準備を進めた。準備がまだだ、とエグランティーヌは考えているが、これでも十分勝機はある。
エグランティーヌは、兄であり、王であるニコラスを倒すつもりで動いている。