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  作者: 小林マコト
番外編 セブリアン・パレット
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9

 アリスティド・リオネルは、ハント・ルーセンの片田舎で生まれた。

 十代まではごく平凡な男だった。特別なことは何もなく、まさに平凡。それでも幸せだった。友や、家族がいたから。


 変わってしまったのは突然で、アリスティドの意思は一切考慮されないまま、友とも家族とも引き離されてしまった。他でもない、家族の手によって。

 家の借金のかたに、アリスティドは売られた。知らない間に父がこしらえていた借金はあまりに莫大で、姉を売ってもまだ足りず、アリスティドを売ることになったのだ。

 兄だけを残して、姉もアリスティドも売って、しかし父は己を省みようとはしなかった。元はいい父親だったというのに、どこでどうして変わってしまったのか。愛したはずの父を、アリスティドは嫌った。あんな男は父ではないと吐き捨てて、精神の安定を図った。


 ハント・ルーセンは人身売買も奴隷制度も完全には否定していない。娼館や富豪の家には未だに奴隷が置かれていたりする。


 売られた先で、アリスティドは上手く生きられなかった。最初の所有者の屋敷には、アリスティドと同じような境遇の奴隷が沢山いた。

 一芸に秀でているわけでもなく、また人付き合いもそれほど得意ではない。それでも、鈍くさいわけでもなければ頭が悪いわけでもないのに、アリスティドは周囲から浮いていた。仕事も出来ないわけではない。思い当たる節は一つもなく、改善も出来ずに、ただ、居心地の悪いままそこにいるしかなかった。


 転機が訪れたのは、初めにアリスティドを買った屋敷の主が、アリスティドを手放すことにしたときだ。

 新しい所有者の男は、アリスティドにこう尋ねた。


「他人を汚すか、自分を汚すか、どちらか好きな方を選べ」


 意味はわからなかったが、男が早く答えよと言うので、慌てて「他人を汚す方」と返事をした。男は無言で頷き、アリスティドを下がらせた。


 翌日から地獄のような訓練が始まった。『他人を汚す』という男の言葉が、正しくは『他人を殺す』という意味だと知ったのは、アリスティドと同じく『他人を汚す』方を選んだ奴隷を殺してしまってからだった。


「俺には出来ません。人を、殺すなんて。もう無理です」


 自室で眠っていても、食事をしていても、常にアリスティドは死の危険と隣り合わせになっていた。人を殺すには、殺される可能性が付きまとう。それを回避しながら相手を確実に殺せるようにと、日常生活すら訓練になっていたのだ。


 疲れ切ったアリスティドは、男に直訴した。ほかのことならどんなことでもするから、『他人を汚す』なんてことをやめさせてくれ、と。

 それを聞いた男は、機嫌の悪さを隠すことなく、アリスティドを睨みつけた。


「そのように言う者は、望むようにしてやったところでまた不満を言う。なんでもする、と言うのであれば、男娼にでも下げてやろうか」

「それ、は」

「嫌か。ならば一度選んだものを貫け。不満は結果を出してからにしろ」


 厳しく言われ、アリスティドは絶望しかけた。


 しかし日々を過ごすうちに、成果さえ出せば許してくれるのではないか、と希望を持つことにした。訓練が始まってからというもの、特別才能があるわけでもなく、失敗もたくさんしてきたが、腐ることなく一層励むようにした。出来るだけ、人を殺さなくて済むように。


 いつもぎりぎりのところを生きた。アリスティドと同じく訓練を受けていた者たちは、増えたり減ったり、気が狂った者も狂えなくて死を選んだ者もいたが、なんとかアリスティドはその地獄を生き抜いた。

 初めての仕事がどんなものだったか、後々になればもうどうでもよく、あまり覚えていなかった。本当はどうでもよかったのではなく、諦めがついたから忘れてしまったのだということを、アリスティドが気付くことはない。


 自分の心と上手く折り合いをつけながら、いくつかの仕事をこなした。いつしか両親は薄れ、人を殺すことに歪んだ使命感を持つようになる。


 エンジットへ行くことが決まったのは、ハント・ルーセンが経済的にも随分と安定したのがきっかけだった。


「この国はもう一人で立てるはずだ。しかし、忌々しいエンジットは未だ我らからの搾取をやめようとしない。老いた獅子は恐るるに足りず、今こそ打ち取るべきとは思わないか」


 男は権外に、エンジット国王を殺せと命じているのだ。アリスティドはそう察した。

 この男――後にリゼルヴィンによって挫かれる、ルノー・スタチナは卑劣極まりない男だ。直接の命令は下さない。そうすることで、関与していないと言い張れる逃げ道を作る。

 アリスティドは慣れてしまっていた。ルノー・スタチナが言うのだから、今こそエンジットの手から逃れるべきなのだと思った。そのために、自分が、エンジット国王を殺すべきなのだと。


 しかし、真にルノーが命じたかったこととは違った。続いた言葉に、アリスティドは、次は自分が死ぬのだろうと、思わずにいられなかった。


 国境を越え、祖国と似ているようで全く違うエンジットに驚いた。大陸の中でも古く、歴史ある国である。独立からまだ日の浅いハント・ルーセンとは、違った。

 文化面においては、隣国ともあってそう戸惑うこともなかったのだが、言葉と宗教が難しかった。

 大陸において最も信仰されているのは『守護女神』にまつわる宗教である。ハント・ルーセンもそのうちの一宗派を国教としていた。

 しかし、エンジットは独自の『エンジット建国神話』を信じきっている。宗教国家顔負けの信仰率だ。普段はさほどでもないのに、ふとした拍子に、国民全員が狂信者かと本気で思ったこともある。


 新王が立ち、一年ほど経った頃だった。ようやくエンジット国内の騒めきも落ち着き始め、かつての賑わいを取り戻し始めていた。そんなときに、アリスティドは来た。

 王城へ忍び込むのは思いの外簡単で、これは罠かと注意はしたが、特に何事もなく、往生で働く者の一人としてしばらく過ごした。そしてこれまた思いの外早く、王の近くに配属された。


 国王ニコラス=グランズ=ヴェル=エンジットは若い男だという。凡才で、時に愚かで、決して賢王を呼ばれることはないだろう、というのがルノーの評価だ。


 毎回、標的を見る前は震えが出る。他のことには慣れたのに、この時間だけは慣れない。

 殺さなければ、と思う。殺すことこそ、自分が存在する意味に繋がるのだと。心底そう思っているのに、恐れることなど何もないはずなのに、震えてしまう。

 意を決してニコラスを見た。金髪に碧眼の、若い男だ。アリスティドとそう年齢も変わらないその男は、優しげな顔をしている。その顔はアリスティドが見てきた為政者の顔ではなく、なるほどこれは侮られるだろう、と納得してしまった。王を殺すのは初めてで、らしくなく少し緊張したりしていたが、体の震えも止まった。


 時期を見計らって更にしばらく、王の世話をして過ごす。そろそろか、と思い始めた日、ニコラスに異質な訪問者が現れた。


 ニコラスが彼の私室にいるとき、外からノックをされ、扉を開けてやれば、そこには黒い女とくすんだ金髪の侍女が立っていた。黒い女の目はアリスティドをすり抜けてニコラスに向けられ、奴隷として生きていた頃を思い出してしまう。反対に、侍女はじっとアリスティドを見ていた。


「来たわよ、ニコラス。今日は何の用かしら」


 およそ国王に対する態度ではなかった。動き自体は品があるのに、面倒だと思っているのがありありとわかる。促されるのを待たず、黒い女は勝手にソファに座った。

 金髪の侍女は表情筋が死にきった無表情で、扉近くで待機するアリスティドの隣に立ち、こちらをちらちら見てくる。


 私室にまで通されて、このような態度を取るということは、ニコラスとは親しい仲なのだろう。黒い髪に琥珀の瞳、きっとこの女は、『黒い鳥』のリゼルヴィンだ。ルノーから渡され、自分でも調べた情報の中から、女の名を当てた。


「そう怒らないでほしいな、僕だって、出来るだけ君に頼りたくはないんだけど」

「ならもっとしっかりすることね。まずはその顔をやめなさい、情けない」

「はは、それは難しいなあ」


 アリスティドの同僚がお茶を淹れようと動き出したのを見て、その仕事を代わる。

 これは逃せない絶好の機会だ。リゼルヴィンは国中で嫌われている。危うい立場で、悪の魔女であるとすら囁かれている。ここで上手く、リゼルヴィンのせいに出来れば、ニコラスを殺したのがハント・ルーセンからの刺客だと知られないままで終われるだろう。


 何も疑われず、アリスティドは用意を始める。金髪の侍女の目は痛かったが、それが逸らされた瞬間に、さっと一つのカップに毒を垂らした。

 そのまま、ニコラスに毒入りを、リゼルヴィンに毒なしを置く。ニコラスはわざわざアリスティドに「ありがとう」と微笑んで言った。


 二人の目の前で、同じポットから入れたお茶を飲んで見せる。毒は入っていないと知らせ、元の位置へ戻る。表情を殺し、これからに備えた。


「まあ、今日は許してあげましょう。よかったわね」


 リゼルヴィンが口の端を上げてみせた。不気味な笑顔だった。

 慣れているのだろう、ニコラスはそれにすら笑みを返して、アリスティドが置いたカップに手を添えた。


 いける。そのまま、そのまま口に運びさえすれば――。


 顔には出さず、期待する。ニコラスは疑いすらしていない。このまま、殺せるはずだ。

 けれど。


「馬鹿ね」


 突然、リゼルヴィンが、自分の前のカップとニコラスのそれを交換した。


「危機感を持ちなさい、国王陛下」


 ぐっ、と一気に飲み干して、邪悪と形容するに相応しい笑みを浮かべる。


 その姿はまさに悪の魔女、悪魔の女。


 アリスティドは必死になって震えが出ないように耐えた。あの笑みは、自分に向けられているのだと瞬時に悟った。ニコラスの方を向いているのに、それでも、アリスティドへ向けていた。

 殺される。きっと、逃げられない。


 毒は即効性のものだ。その効き目を証明するように、リゼルヴィンが小さく苦しむ。以前、同じ毒で殺した相手はのたうち回って死んだが、リゼルヴィンは少し呻いただけだった。

 しかし、確実に効いていたのだろう。しばらくすると、ソファから力なく滑り落ちた。


「リゼルヴィン? 大丈夫かい? 今度こそ死んだのかな」


 呑気なニコラスは慌てることなく、そんなことを言った。床に倒れるリゼルヴィンを見ることもなかった。金髪の侍女が表情も変えずに走り寄る。


「……まずい毒ね」

「そりゃあ、美味しい毒なんてないんじゃないかな。あるんだったら、どうしても殺されることになったとき、それを飲んでみたいよね」

「薄情な男。馬鹿」


 まるで日常だった。対等な友人が、ふざけあって笑っているようだった。

 金髪の侍女に支えられて立ち上がったリゼルヴィンは、唾液が漏れた口元を侍女に差し出されたハンカチで拭く。顔がほんのり赤くなっているのは、恥ずかしさからだろうか。死んだはずなのに、リゼルヴィンは動いていた。


「ジュリアーナ、彼のもとに」


 もう大丈夫だから、と侍女を離れさせる。何をするつもりなのか、動けなくなったアリスティドは見ているしかなかった。


「ニコラス、あなたが甘い男だってことをよく知られているようね。でも残念、私に罪を擦り付けようとするまでは賢い判断だとは思うけれど、彼は調査不足だわ」

「そうだね、僕と君との間にしかない習慣までは、流石に調べられなかったようだ。……あれ? 彼?」

「あら。気付かなかったの?」


 はっと我に返ると、金髪の侍女が、やはり無表情のままアリスティドの前に立っていた。


「――そこの侍女、男よ?」


 指さされたと同時に、アリスティドは何も出来ないまま、金髪の侍女に取り押さえられた。


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