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アリスティド・リオネルは、ハント・ルーセンの片田舎で生まれた。
十代まではごく平凡な男だった。特別なことは何もなく、まさに平凡。それでも幸せだった。友や、家族がいたから。
変わってしまったのは突然で、アリスティドの意思は一切考慮されないまま、友とも家族とも引き離されてしまった。他でもない、家族の手によって。
家の借金のかたに、アリスティドは売られた。知らない間に父がこしらえていた借金はあまりに莫大で、姉を売ってもまだ足りず、アリスティドを売ることになったのだ。
兄だけを残して、姉もアリスティドも売って、しかし父は己を省みようとはしなかった。元はいい父親だったというのに、どこでどうして変わってしまったのか。愛したはずの父を、アリスティドは嫌った。あんな男は父ではないと吐き捨てて、精神の安定を図った。
ハント・ルーセンは人身売買も奴隷制度も完全には否定していない。娼館や富豪の家には未だに奴隷が置かれていたりする。
売られた先で、アリスティドは上手く生きられなかった。最初の所有者の屋敷には、アリスティドと同じような境遇の奴隷が沢山いた。
一芸に秀でているわけでもなく、また人付き合いもそれほど得意ではない。それでも、鈍くさいわけでもなければ頭が悪いわけでもないのに、アリスティドは周囲から浮いていた。仕事も出来ないわけではない。思い当たる節は一つもなく、改善も出来ずに、ただ、居心地の悪いままそこにいるしかなかった。
転機が訪れたのは、初めにアリスティドを買った屋敷の主が、アリスティドを手放すことにしたときだ。
新しい所有者の男は、アリスティドにこう尋ねた。
「他人を汚すか、自分を汚すか、どちらか好きな方を選べ」
意味はわからなかったが、男が早く答えよと言うので、慌てて「他人を汚す方」と返事をした。男は無言で頷き、アリスティドを下がらせた。
翌日から地獄のような訓練が始まった。『他人を汚す』という男の言葉が、正しくは『他人を殺す』という意味だと知ったのは、アリスティドと同じく『他人を汚す』方を選んだ奴隷を殺してしまってからだった。
「俺には出来ません。人を、殺すなんて。もう無理です」
自室で眠っていても、食事をしていても、常にアリスティドは死の危険と隣り合わせになっていた。人を殺すには、殺される可能性が付きまとう。それを回避しながら相手を確実に殺せるようにと、日常生活すら訓練になっていたのだ。
疲れ切ったアリスティドは、男に直訴した。ほかのことならどんなことでもするから、『他人を汚す』なんてことをやめさせてくれ、と。
それを聞いた男は、機嫌の悪さを隠すことなく、アリスティドを睨みつけた。
「そのように言う者は、望むようにしてやったところでまた不満を言う。なんでもする、と言うのであれば、男娼にでも下げてやろうか」
「それ、は」
「嫌か。ならば一度選んだものを貫け。不満は結果を出してからにしろ」
厳しく言われ、アリスティドは絶望しかけた。
しかし日々を過ごすうちに、成果さえ出せば許してくれるのではないか、と希望を持つことにした。訓練が始まってからというもの、特別才能があるわけでもなく、失敗もたくさんしてきたが、腐ることなく一層励むようにした。出来るだけ、人を殺さなくて済むように。
いつもぎりぎりのところを生きた。アリスティドと同じく訓練を受けていた者たちは、増えたり減ったり、気が狂った者も狂えなくて死を選んだ者もいたが、なんとかアリスティドはその地獄を生き抜いた。
初めての仕事がどんなものだったか、後々になればもうどうでもよく、あまり覚えていなかった。本当はどうでもよかったのではなく、諦めがついたから忘れてしまったのだということを、アリスティドが気付くことはない。
自分の心と上手く折り合いをつけながら、いくつかの仕事をこなした。いつしか両親は薄れ、人を殺すことに歪んだ使命感を持つようになる。
エンジットへ行くことが決まったのは、ハント・ルーセンが経済的にも随分と安定したのがきっかけだった。
「この国はもう一人で立てるはずだ。しかし、忌々しいエンジットは未だ我らからの搾取をやめようとしない。老いた獅子は恐るるに足りず、今こそ打ち取るべきとは思わないか」
男は権外に、エンジット国王を殺せと命じているのだ。アリスティドはそう察した。
この男――後にリゼルヴィンによって挫かれる、ルノー・スタチナは卑劣極まりない男だ。直接の命令は下さない。そうすることで、関与していないと言い張れる逃げ道を作る。
アリスティドは慣れてしまっていた。ルノー・スタチナが言うのだから、今こそエンジットの手から逃れるべきなのだと思った。そのために、自分が、エンジット国王を殺すべきなのだと。
しかし、真にルノーが命じたかったこととは違った。続いた言葉に、アリスティドは、次は自分が死ぬのだろうと、思わずにいられなかった。
国境を越え、祖国と似ているようで全く違うエンジットに驚いた。大陸の中でも古く、歴史ある国である。独立からまだ日の浅いハント・ルーセンとは、違った。
文化面においては、隣国ともあってそう戸惑うこともなかったのだが、言葉と宗教が難しかった。
大陸において最も信仰されているのは『守護女神』にまつわる宗教である。ハント・ルーセンもそのうちの一宗派を国教としていた。
しかし、エンジットは独自の『エンジット建国神話』を信じきっている。宗教国家顔負けの信仰率だ。普段はさほどでもないのに、ふとした拍子に、国民全員が狂信者かと本気で思ったこともある。
新王が立ち、一年ほど経った頃だった。ようやくエンジット国内の騒めきも落ち着き始め、かつての賑わいを取り戻し始めていた。そんなときに、アリスティドは来た。
王城へ忍び込むのは思いの外簡単で、これは罠かと注意はしたが、特に何事もなく、往生で働く者の一人としてしばらく過ごした。そしてこれまた思いの外早く、王の近くに配属された。
国王ニコラス=グランズ=ヴェル=エンジットは若い男だという。凡才で、時に愚かで、決して賢王を呼ばれることはないだろう、というのがルノーの評価だ。
毎回、標的を見る前は震えが出る。他のことには慣れたのに、この時間だけは慣れない。
殺さなければ、と思う。殺すことこそ、自分が存在する意味に繋がるのだと。心底そう思っているのに、恐れることなど何もないはずなのに、震えてしまう。
意を決してニコラスを見た。金髪に碧眼の、若い男だ。アリスティドとそう年齢も変わらないその男は、優しげな顔をしている。その顔はアリスティドが見てきた為政者の顔ではなく、なるほどこれは侮られるだろう、と納得してしまった。王を殺すのは初めてで、らしくなく少し緊張したりしていたが、体の震えも止まった。
時期を見計らって更にしばらく、王の世話をして過ごす。そろそろか、と思い始めた日、ニコラスに異質な訪問者が現れた。
ニコラスが彼の私室にいるとき、外からノックをされ、扉を開けてやれば、そこには黒い女とくすんだ金髪の侍女が立っていた。黒い女の目はアリスティドをすり抜けてニコラスに向けられ、奴隷として生きていた頃を思い出してしまう。反対に、侍女はじっとアリスティドを見ていた。
「来たわよ、ニコラス。今日は何の用かしら」
およそ国王に対する態度ではなかった。動き自体は品があるのに、面倒だと思っているのがありありとわかる。促されるのを待たず、黒い女は勝手にソファに座った。
金髪の侍女は表情筋が死にきった無表情で、扉近くで待機するアリスティドの隣に立ち、こちらをちらちら見てくる。
私室にまで通されて、このような態度を取るということは、ニコラスとは親しい仲なのだろう。黒い髪に琥珀の瞳、きっとこの女は、『黒い鳥』のリゼルヴィンだ。ルノーから渡され、自分でも調べた情報の中から、女の名を当てた。
「そう怒らないでほしいな、僕だって、出来るだけ君に頼りたくはないんだけど」
「ならもっとしっかりすることね。まずはその顔をやめなさい、情けない」
「はは、それは難しいなあ」
アリスティドの同僚がお茶を淹れようと動き出したのを見て、その仕事を代わる。
これは逃せない絶好の機会だ。リゼルヴィンは国中で嫌われている。危うい立場で、悪の魔女であるとすら囁かれている。ここで上手く、リゼルヴィンのせいに出来れば、ニコラスを殺したのがハント・ルーセンからの刺客だと知られないままで終われるだろう。
何も疑われず、アリスティドは用意を始める。金髪の侍女の目は痛かったが、それが逸らされた瞬間に、さっと一つのカップに毒を垂らした。
そのまま、ニコラスに毒入りを、リゼルヴィンに毒なしを置く。ニコラスはわざわざアリスティドに「ありがとう」と微笑んで言った。
二人の目の前で、同じポットから入れたお茶を飲んで見せる。毒は入っていないと知らせ、元の位置へ戻る。表情を殺し、これからに備えた。
「まあ、今日は許してあげましょう。よかったわね」
リゼルヴィンが口の端を上げてみせた。不気味な笑顔だった。
慣れているのだろう、ニコラスはそれにすら笑みを返して、アリスティドが置いたカップに手を添えた。
いける。そのまま、そのまま口に運びさえすれば――。
顔には出さず、期待する。ニコラスは疑いすらしていない。このまま、殺せるはずだ。
けれど。
「馬鹿ね」
突然、リゼルヴィンが、自分の前のカップとニコラスのそれを交換した。
「危機感を持ちなさい、国王陛下」
ぐっ、と一気に飲み干して、邪悪と形容するに相応しい笑みを浮かべる。
その姿はまさに悪の魔女、悪魔の女。
アリスティドは必死になって震えが出ないように耐えた。あの笑みは、自分に向けられているのだと瞬時に悟った。ニコラスの方を向いているのに、それでも、アリスティドへ向けていた。
殺される。きっと、逃げられない。
毒は即効性のものだ。その効き目を証明するように、リゼルヴィンが小さく苦しむ。以前、同じ毒で殺した相手はのたうち回って死んだが、リゼルヴィンは少し呻いただけだった。
しかし、確実に効いていたのだろう。しばらくすると、ソファから力なく滑り落ちた。
「リゼルヴィン? 大丈夫かい? 今度こそ死んだのかな」
呑気なニコラスは慌てることなく、そんなことを言った。床に倒れるリゼルヴィンを見ることもなかった。金髪の侍女が表情も変えずに走り寄る。
「……まずい毒ね」
「そりゃあ、美味しい毒なんてないんじゃないかな。あるんだったら、どうしても殺されることになったとき、それを飲んでみたいよね」
「薄情な男。馬鹿」
まるで日常だった。対等な友人が、ふざけあって笑っているようだった。
金髪の侍女に支えられて立ち上がったリゼルヴィンは、唾液が漏れた口元を侍女に差し出されたハンカチで拭く。顔がほんのり赤くなっているのは、恥ずかしさからだろうか。死んだはずなのに、リゼルヴィンは動いていた。
「ジュリアーナ、彼のもとに」
もう大丈夫だから、と侍女を離れさせる。何をするつもりなのか、動けなくなったアリスティドは見ているしかなかった。
「ニコラス、あなたが甘い男だってことをよく知られているようね。でも残念、私に罪を擦り付けようとするまでは賢い判断だとは思うけれど、彼は調査不足だわ」
「そうだね、僕と君との間にしかない習慣までは、流石に調べられなかったようだ。……あれ? 彼?」
「あら。気付かなかったの?」
はっと我に返ると、金髪の侍女が、やはり無表情のままアリスティドの前に立っていた。
「――そこの侍女、男よ?」
指さされたと同時に、アリスティドは何も出来ないまま、金髪の侍女に取り押さえられた。




