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森は静まり返っていた。ぼんやりとした月明かりは降っているものの、目が慣れるまでは闇そのものに包まれてしまう。
『惨たらしいことですね。どちらも救いようがないとは、思いませんか』
何の感情も滲ませない顔で、イストワールは言った。
リゼルヴィンの姿をしているため、そのまま闇に溶けてしまいそうだ、とギルグッドは馬鹿なことを思う。黒い髪は光を反射せず、塗り潰されたようだ。少し目を離した隙に、溶けていなくなってしまいそうだった。
結局、殺し合ったセブリアンとアリスティドは、どちらも助からなかった。
セブリアンは三度アリスティドを殺し、アリスティドもまた同じだけセブリアンを殺した。アリスティドはもう、生き返ることはない。
『さて、早く片付けてしまいましょう。こんなところに長居する必要はありません』
「良心の欠片もないとは聞いていましたが、ここまでとは。見事なまでに自分の手だけは汚しませんね」
『守るべきもののためなら、手段は選んでいられません。人を殺してでも、何をしてでも、私は私自身を守らなければならないんです。それも、最も無垢なままで。だから人を使います。人に人を殺させます。正しくはないと知っていますけど、構わないでしょう。世界は私が穢れない限り、私を認識しません。何をしようと、私が罪に問われることはないんですから』
その言葉を聞いて、イストワールに人の常識や考えは通用しないのだと思い知らされる。面倒になって、ギルグッドは剣を抜いた。
アリスティドは死んだが、セブリアンはこのまま放置していると再生してしまう。『アルヴァー=モーリス=トナー』の力は凄まじいものだ。魔術師たちがリゼルヴィンの骨を欲しがるのも納得がいく。
『頭に穴をあけてください。昨夜のように。リゼルヴィンの骨の欠片を取り出せば、この男も動けなくなるでしょう。確実に殺さないと』
言われた通りにする。セブリアンの頭に穴をあけてやれば、欠片を入れたときのようにぐちぐちかき回しながら、イストワールがそれを探した。
イストワールは無垢でいなければならない。人を恨まず、憎まず、まして人を殺してはならない。
ずっとそうして生きてきたと聞いた。歴史を綴る者として、淡々と、なすべきことだけをなし、人を恨むことも憎むこともせず、穢れを拒んで生きてきたと。
しかし、今のイストワールは、自ら穢れを得ようとしている。あの男――賢王シェルナンドだけは必ずや殺そうと動いている。これまで忌避してきた穢れを、全身に浴びることになったとしても。
『見つかりました。これを、砕いてください。あなたなら容易いでしょう』
白い指に赤がよく映えた。どこか、芸術のようですらあった。
きっと世界で最も赤が似合うと言っても過言ではないほど、リゼルヴィンには赤が合う。リゼルヴィンのなめらかな白い肌も、一切の色彩を拒む黒髪も、これ以上ないほど赤が映える。決して絶世の美貌を持っているわけではないのに、赤を纏った途端、誰もがリゼルヴィンから目を離せなくなる。
だからこそ、リゼルヴィンはその過酷な運命に選ばれたのだろう。この世で最も美しい、血の赤を纏わせるために。
欠片は至極簡単に砕けた。剣を持ち出す必要すらなかった。
ギルグッドがそうしている間に、イストワールは『彼』の顔をぺちぺちと叩いていた。本当に死んでいるかどうか確かめているのだろう。
『この人も哀れです。人であり、人でなく、失敗作とすら呼ばれてしまったかわいそうな人。それなのに、あの男を信じた。リゼルヴィンと同じように。でも、表にすら出られなかったこの人よりは、確かにリゼルヴィンの生は幸せだったのかも、しれませんね』
そうは言いながら、イストワールはやはり表情を変えない。
「むしろ、主さまの方が不幸だったと、私は思いますけどね」
ギルグッドの言葉に、イストワールは首を傾げた。
しばらく理由までは言わないでおいたが、イストワールの首の角度が深くなったことから、ギルグッドも先を口にした。
「表に出されず、失敗といわれ、ないものとして扱われるのは、確かに不幸でしょう。しかし主さまは、表に出され、あからさまに悪く言われることはなくとも、好奇や嫌悪の対象にされました。身内に裏切られ、そこに存在することを認識されながらも無視され、少しも関与していないことまで主さまのせいにされる。いつしか他人に信じられることを諦め、無自覚のまま、他人を信じられなくなった。存在そのものが悪とすら言われた。それこそ、耐えられないほどの不幸だと思ってしまいます」
リゼルヴィンが自分に向けていた目を思い出す。ギルグッドを見るリゼルヴィンの目は、ギルグッドを信じてはいなかった。彼女自身も、そのことには気付いていないだろう。疑いは隠し通せていると思っているだろうし、自分が他人を信じきれていないということに、気付いてすらいない。
哀れな女だ。シェルナンドに出会いさえしなければ、いっそシェルナンドが存在しなければ、きっと幸せになれただろうに。
『あなたも、リゼルヴィンが好きなんですか』
「ええ、好きですよ。主と呼ぶくらいには。ウェルヴィンキンズの住人のほとんどは、リゼルヴィンが好きでしょうね」
少なくともこの失敗作よりは、と指させば、そうですか、とイストワールが頷く。
リゼルヴィンのことも、『彼』のことも、イストワールのことも、ギルグッドは一通り知っている。
三者とも哀れだが、『彼』は中でも特別愚かで好きではない。
自分を作り出した王に従うのはいい。しかし自ら動くことはなかった。リゼルヴィンでさえ、状況を変えようと考えて、自ら行動してきたというのに。
逆らえずとも動けたのだ。イストワールだって、結局は囚われてしまったが、今もこうしてシェルナンドから逃れようともがいている。
不幸は誰かと問われれば、リゼルヴィンもイストワールも不幸に違いないのに。
「不幸に身を浸していれば、許しと救いが与えられる。そこはやみつきになってしまいそうなほど甘い、蜜の中です。けれど、私はそこに居続ける人を好きにはなれません。努力をやめた者は、これ以上なく醜い」
ギルグッドは特別リゼルヴィンに恩を感じているわけでも、思い入れがあるわけでもない。
ただ、好きではある。不幸から逃れようともがく様は、滑稽で大変好ましい。そして、自らの不幸に気付かず、幸せだと言ってのける様も。リゼルヴィンは本当に、自分は幸せに生きていると思い込んでいる。今の幸せを守るために、不幸から逃げようと走り続けているのだ。
その先が、真の悲劇になりうるとも知らずに。
「苦しんでいる人に、努力しろと言うのは酷でしょう。わかっています。ですから本人には言いませんよ。私はその不幸に陥ったことはない、だから気持ちを真にわかってやることは出来ない。他者の気持ちにとやかく言う権利はないと、わかっていますよ。だからこれは、私が勝手に、私一人で思っていることです。共感せよとはだれにも言いません」
『……不幸の形は、みなそれぞれ違います。結局、どちらかましかなんて、決められないのでしょうね』
比べられたら、見下したり、悔しがったりして、それが仄暗いものであったとしても、力が得られるかもしれないのに。
うつむいたイストワールは目を閉じ、何か祈るように音にならない言葉を呟いていた。その最後には、はっきり「ごめんなさい」と口にして。
『さて』
ようやく顔を上げたかと思えば、あんなに暗い表情をしていたのに明るく笑っていた。ギルグッドに笑みを向けている。
『せっかくですから語ってあげましょう。ここで死んだ三人――いえ、二人の歴史を。あなたは知っていることもあるでしょうけど、これが最後ですから。お座りになって。聞きたくないと思うのなら、耳をふさいでしまいなさい。これは弔いです。あなたのためではありません』
「なんですか、いきなり」
『昔はこうしてよく、死者の弔いに昔話をしたんです。そもそも私の生き方はずっとそういうものでした。町から町へ、国から国へ、大陸から大陸へと旅をして、その道中、親切にしてくださった方にはその人の知りたい歴史を語りました。そして死者には、その人生を。これはまあ、弔いとは名ばかりで、本当はただの嫌がらせです』
しばらくぶりに語れる、ずっと囚われていたものだから、語る相手がいなかったのだと、心底楽しげにイストワールは言った。
弔いと言ったり嫌がらせと言ったり、それまでまったく見せなかった幼げな笑みを見せたりで、はしゃいでいるのがありありとわかった。
イストワールもまた、生き方を定められた存在だ。死者にその人生を語り聞かせ、過ちすら他者にこうして語られるのはさぞ不愉快だろうと想像して、吐き出してはならぬとされていた日頃の鬱憤を晴らしていたのかもしれない。人を恨まないでいるのも、憎まないでいるのも、決して簡単なことではない。
木にもたれて、話を聞く体勢になったギルグッドに、満足げに頷く。そのままイストワールは、上品にお辞儀をして見せた。
『夜明けが来る前に、少しだけ。ではまず、アリスティド・リオネルの歴史を』




