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偽物――リゼルヴィンの姿をしたイストワールは、セブリアンの呼吸が止まったのを確認してから、ギルグッドに剣を抜かせた。
その際にぐるりと一回転させてから抜いたため、セブリアンの胸に大きな穴が開いた。目を細めて、そこにあるはずの石を探す。白い指を赤く染めながら、リゼルヴィンの骨から作られた核を取り除いた。
『協力してくださったことには感謝しておきましょう。礼を言います。ありがとう』
「目的はなんだ」
『知っているでしょう。あの男を殺す、それだけです。邪魔をしますか』
徐々に再生していくセブリアンの胸の穴に手を入れて、完全に治ることを阻止しながら、イストワールは何でもないことのように「あの男を殺す」と言い切った。
あの男。イストワールが、唯一、最も憎んでいる男。
それが誰だかギルグッドは知っている。イストワールがどんな手を使ってでも、その男を殺そうと躍起になっていることも。
あえて問うことで確かめたのは、今ここに、イストワールがいるはずではないからだ。
「貴様はあの部屋から出られなかったはずだ。どうやって出てきた? それも、リゼルヴィンの姿で」
イストワールは銀色の髪に赤の瞳を持つ女。賢王シェルナンドによって、どこかに封じられて以来、外には出られなかったはずだ。
封じられたどころか、イストワールの存在すら、世にはほとんど知られていない。知っているのは直接彼女と関わりがあった者のみで、その者たちも封じられたことを知らない。すべてシェルナンドが一人でやったことだった。故に、外側から彼女を出すことも出来ない。
そのはずだった。ギルグッドが知っている限りでは。
リゼルヴィンの顔で、イストワールがにやりと笑う。不思議と不気味さはない。子供が悪戯を思いついたときのような笑顔だ。
『あなたはリゼルヴィンの味方でしたね。でも、あの男との繋がりもある。そう簡単には、お話出来ませんよ。ねえ』
「ならばそれでいい。自分で調べる。……主さまに危害を加えていたら、どうなるかわかっているな」
ギルグッドの言葉に、イストワールはきょとんとして、首を傾げた。
『あなた、リゼルヴィンの味方、なんですか』
「……わからないのか」
『ええ、まあ。情けないことではありますが。この姿をしている間は、私はイストワールではなく、リゼルヴィンですから。多少は知識を持ち込めましたけど、私が集める「歴史」には接続出来ませんし。リゼルヴィンに不可能なことは、今の私にも不可能です』
「なるほど。つまり今の貴様は、主さまと存在そのものを交換している、ということか」
『……あっ』
「間抜けが。そんな反応をしてしまえば、図星だとばれるぞ」
『……最低な男。どうしてそんなところまで似てるんですか、最悪です』
忌々しげにギルグッドを睨みつけるイストワールに、ギルグッドは取り繕うのをやめることにして、一度大きく息を吐いた。
実のところ、ギルグッドもイストワールに会うのは初めてだ。どのように対応すればいいのか悩んだ末に、あの男と同じような態度を取っていたが、思っていたよりは警戒すべき相手ではないかもしれない。
「似たくて似たわけではありませんよ。知らないようですから教えてあげますが、私は正真正銘、主さまの味方です。確かにあの男との繋がりがあるにはありますが、ただ繋がっているだけです。決してあの男の味方ではありません」
『……信用出来ませんけど』
「しなくても結構ですよ」
態度を変えたギルグッドに、イストワールはますます疑いの目を向けた。
日の暮れた暗い路地で、死体が転がったまま、男と女が平然と話をしている。傍から見たらおかしな光景だ。しかも女の方は、死体の胸に開いた穴に手を突っ込んだまま。冷静に考えて、イストワールは溜め息を吐き、諦めた。
『わかりました。信用はしません。でも認めます。リゼルヴィンの味方であれば、私の協力者とも取れます。いいですか、キャロル=ギルグッド』
空いている方の手の指で、セブリアンの額をとんとん、と軽く叩く。そしてギルグッドに言った。
『ここに、穴を開けてください。このアルヴァー=モーリス=トナー、使えるところまで使いますよ』
セブリアンはウェルヴィンキンズで生まれ育ったとしているが、実際はごく幼い頃に街へ連れてこられただけだった。それなのにそうだと言っているのは、ウェルヴィンキンズに連れてこられる以前のことをよく覚えていないためである。
セブリアンをウェルヴィンキンズに連れてきたのは、ある画家だった。まるで現実を切り取ったかのような絵を描く、とても腕のいい画家だ。
画家とセブリアンとの間に血の繋がりは明らかに存在しない。画家本人もそう常に言っていたし、父親と呼ぶことも決して許さなかった。セブリアンには衣食住の提供をしてやっているだけで、教育と呼べる教育をしたことはない。けれど、セブリアンは、彼のことを父親だと思っていた。
連れてこられてすぐのことは、あまり覚えていない。幼かったからだろう。セブリアンのはっきりとした記憶が始まるのは、リゼルヴィン家の次女――後に住人たちから「主さま」と呼ばれることになる、黒い髪に琥珀の瞳を持つ女児に出会った日からだ。
画家に連れられて、リゼルヴィン家の屋敷を訪れたときのことだ。連れてきたくせにセブリアンを放置して、リゼルヴィン家当主アンドレイとどこかへ行ってしまった画家を恨みながら、屋敷の庭を見ていた。そこで、次女に出会った。
彼女は、とても生きている人間とは思えない青白い顔をしていた。長い黒髪もあって、少なくともこの世の存在ではないと、失礼なことを思った。
微笑むことすらせず、美しく咲いた赤い花を見ていた彼女が、その目をセブリアンに向けたとき。
セブリアンは、この女を殺したい、と強く思った。
何故かはわからなかった。それまで一度も、そんな物騒なことを思ったことはなかった。それなのに何故か、将来、自分はこの女を殺すのだと確信した。
それが、リゼルヴィンとの、一度目の出会いだった。
以来、画家はリゼルヴィン家に用があるときは、必ずセブリアンを連れていくようになった。連れていき、必ず次女と会わせた。
セブリアンが出会ったあの日のような殺意を感じることもなく、ごく穏やかに次女との交流は続いた。いつの間にかセブリアンは次女のことを妹のようにすら思っていたし、次女は特別に懐くことはなかったが、それなりに接してくれるようにはなった。この頃のリゼルヴィンは確か八つか九つで、表情はほとんど変わらず、何を考えているのか誰にもわからなかった。
画家は、画家としての仕事以外の顔を持っていた。魔法使いとしての顔だ。周囲にはほとんど黙っていたが、解けなくなった魔法や呪いを解いてやるのが本業だった。それで金を稼いでいるため、リゼルヴィン家以外からの依頼は一切受けずにいても、自分の生活とセブリアンの食い扶持に困ることはなかった。また、珍しい先見の力を持っていたため、アンドレイの相談役にもなっていたらしい。
飲んだくれのクソ野郎だったが、本当はとんでもなく頭がいい。セブリアンの行動にいちいち文句をつけるが、時々、見透かしたようなことも言ってくる。それが窮屈でならなかった。
次女が十三だか十四だか、それくらいになったとき、セブリアンはあることに気が付いた。彼女が通う魔法学校で、恐れら、鬱陶しがられているということだ。本人から話を聞く限り、彼女自身はそんなことに気付かず、ごく普通に生活していると思い込んでいるようだった。それが当然だとでも言うように、それが普通であるとでも言うように、怒りどころか疑問すら抱いていなかった。
直接、お前は鬱陶しがられているんだ、恐れられ、しかし侮られ、馬鹿にされ、負の感情をぶつけられているんだと言うか言うまいか悩んだ。
思えば次女は、ウェルヴィンキンズですら誰にも相手をされていなかった。存在しないもののように扱われ、それを当然と受け取っていた。酷い扱いばかりされていた。
家でふつふつと沸く怒りを抑えていたとき、画家が不機嫌な顔で言った。
「お前、それをお嬢に話すんじゃねえぞ」
何故だと問えば、眉間の皺が深くなった。
「初めから誰にも相手にされないことと、信じてた相手に裏切られる絶望、どっちが深いと思う。……いや、お嬢はどっちもだ。そうではないと信じていたのに、初めから誰にも相手にされていないと気付かされたとき、どれだけの絶望を感じると思う。今はまだ時期が早い」
曰く、次女はこれから先、なすべきことから逃れられない。今がずいぶんとましだと思うほど、苦しい目にも合う。多くの不幸が襲ってくる。裏切られ続けるのもあり得るだろう。そんなときになって、ようやく次女は自分が初めから誰にも相手にされていなかったのだと気付く。そうして、裏切られたのではなく、当然のことだったのだと思う。だって、誰にも信じられていなかったのだから。だから自分も、誰も信じなくていい。信じなければ二度と裏切られない。そう、考えるようになる。
今よりもっと不幸になってからしか、そんな考えには至らない。だから今は気付かせるべきではないと、画家はセブリアンに言った。
意味がわからなかった。そんなことは次女を苦しませるだけだと思った。
それでもセブリアンは、画家の言いつけを守り、次女には何も言わなかった。セブリアンにとって、画家が最も大切な存在だったからだ。
どうであれ次女は順調に成長していった。ひねくれることもなく、明るくもないがそれなりに笑うようにもなった。他者との間に、必ず一線を引いていたけれど。
やがて画家はセブリアンを置いて旅に出た。元々、生まれも育ちもウェルヴィンキンズだったが、十六になったときから旅をしていたらしい。当時、魔法使いのいなかったエンジットでの限界を感じたからだという。独学を続けるにも、それだけでは幅の狭い人間になってしまう。だからと国を出て、大陸のあちこちを回っていた。セブリアンを拾ってしまったことで、旅を中断するしかなくなったのだと画家は嫌味を言った。
拾ってくれと頼んだ覚えはない。毎日のように酒を飲み、何かにつけて文句を言い、気に入らなければ些細なことでも手を上げる。そんな人間に拾われたくはなかった。そうは思うも、セブリアンは何も言わなかった。自分を置いていくということの方が気に入らなかったからだ。
いい機会だからとセブリアンもウェルヴィンキンズを出て、王都の隅に一人で暮らした。次女は止めなかった。かといって、送り出しもしなかった。
セブリアンが王都へ出て一年が経つか経たないか、それくらいのときに、ウェルヴィンキンズ領主、アンドレイ=リゼルヴィンとその妻が不慮の事故で死んだ。その後しばらくは代理が立ち、成人を迎えた次女が家を継いだ。リゼルヴィン、と名乗るようになる。
もう関係のないこと、とセブリアンは気にせずに生活した。王都は平和だ。平和すぎて退屈なくらいに。それでもセブリアンは、ずっとウェルヴィンキンズに寄り付きもしなかった。
王都の生活はごくごく普通、特別なことは何もなく、しかしセブリアンの精神を削っていった。
赤が、見えない。王都で絵を描いて生活していたセブリアンは、それに気が付いた。
そして、かつて自分は、くすんだ世界に生きていたのだと思い出す。どこかで見た美しい赤に世界を彩られ、その代償に、二度と赤を見ることが出来なくなったのだと。
セブリアンは色への執着が強い。画家が色を重要視していたからだろう。画家が絵を描く度に、パレットにたくさんの色が作られていく。気に入らない色は決して使わず、時にはちょうどいい色がないからと依頼を断ることすらあった。それを近くで見ていたからか、セブリアンも色に対して細心の注意を払うようになった。
何より、画家が唯一、セブリアンを認めたのが、色についてだったからだ。
セブリアンは色を作るのが上手かった。それだけは認められて、セブリアンは、自分にはその能力しか価値がないのだと思い込んだ。
だから、赤が見えないのだと気が付いたとき、深い絶望に陥った。生きている意味をなくしてしまった。
どこかで見た『至高の赤』、あれをもう一度見たいと思った。強く願った。あらゆる画材を手に入れたものの、そう呼ぶにふさわしい赤はなく、得たいものが得られない苦しみがセブリアンを苛んだ。
そして――血が、最も赤いことを知る。
人が死ぬ瞬間。人体から血が噴き出す瞬間。そのとき、セブリアンの目にも見える、素晴らしい赤が現れる。
それも『至高の赤』ではなかったけれど、赤が見られるだけでもセブリアンは救われた。赤を見ている瞬間だけ、セブリアンは生きている実感を味わえた。
以来、セブリアンは夜な夜な人を殺すようになる。夜の闇に紛れて人を殺す。噴き出す赤は夜によく映えて、全能感に満たされる。
幸せだった。――赤が消えてしまうまでは。
セブリアンが見えるのは、血が噴き出す瞬間だけ。すぐに赤は吐き気のする汚い色に変わってしまう。だから何度も刺すのだが、それでも、見えなくなるときは必ず訪れる。
規模の大きな反乱が起きたことも、その鎮圧にリゼルヴィンが派遣されたことも、セブリアンには関係なく、いっそ知りさえしなかった。
三年前――もうすぐ、四年前になるあの日。二度目のリゼルヴィンとの出会いは、確かに救いだった。
あの日は雨が降っていた。いつものように女を殺した。噴き出す血は鮮やかで美しく、柔らかい肉も、美しい女の顔もどうでもよく、ただ赤を見つめていた。
そこへ、いるはずのないリゼルヴィンが現れた。
リゼルヴィンはセブリアンを責めなかった。意識を奪い、ウェルヴィンキンズへ連れ帰ったが、セブリアンには何も問わなかった。何故殺したのか、それすらも。
三度の生を与えられたと知るのは、しばらく経ってからだ。赤を見ようとまた殺そうとしたセブリアンに、リゼルヴィンは自分を殺せと言った。自分はそう簡単には死なないから、むしろもう死んでしまっているようなものだから、一度しか生きられない誰かを殺すのではなく、何度も死ねる自分を殺せと。
言われた通りに、殺しただろうか。よく覚えていない。
リゼルヴィンは病み荒んだセブリアンを懐柔し、街の門番をさせた。セブリアンもリゼルヴィンの傍に置かれている間はずいぶんと落ち着いて、殺意も、衝動も、抑えられるようになった。
リゼルヴィンの友人であるというミランダ=フェルデラッドに眠れないのだと話せば、薬の研究員をやっている彼女がセブリアンに合う薬をくれた。落ち着いて、普段は殺したいとも思わなくなった。時々、発作のように殺してしまったけれど。
三度も生きられるようになってしまったと知ったときは荒れた。今すぐ死にたかった。赤を見られない自分は生きている意味がない。必要とされない。価値がない。そう喚くセブリアンに、リゼルヴィンは慰めを与えることはしなかった。頷きもしなかった。ただし、契約を持ち掛けた。
その『至高の赤』を探す手助けをする。代わりに、リゼルヴィンの手足となり、その命をリゼルヴィンのためだけに使え。
差し出された手を拒むことは出来なかった。二度目の出会いは、確かに救いだったのだ。
リゼルヴィンの手を掴んだ瞬間――セブリアンを、あの全能感が包んだのだから。




