7-2
街屋敷に戻ってすぐ、レベッカを部屋に行かせ、リゼルヴィンは服を着替えた。
白いブラウスに、黒いスカート。同じく黒い編み上げブーツを履いて、このところ切っていない髪を一つにまとめる。これも黒のリボンで結んだ。つばの広い黒の帽子を被って、鏡の前に立つ。
身に着けている色合いはいつもとほとんど変わらないが、喪服の印象が強いリゼルヴィンがこのように少し服装を変えるだけで、自分でも随分と違って見えた。ちょっと歳のわりに無理をしすぎている気もするが、こういう格好は中流階級の婦人はよくするものだし、第一この格好でリゼルヴィンだとわかる者はいないだろうと気にしないことにする。
寂しい胸元にも黒のリボンを結んで、小さな籠を持つ。中にはいくらかの金とハンカチだけを入れる。手土産はどこかの店に寄って買うことにする。
誰にも見つからないようにこっそりと街屋敷を抜け出す。管理人にだけは、出かけることを告げておいた。
高級住宅街を抜け、市場のある通りへ向かう。賑やかに行き来する人々に紛れながら、色とりどりの野菜や果物を眺め、林檎を三つ買った。
そこから最も賑わう大通りへ出て、最近評判の菓子屋に入る。ここでもタルトを多めに五つ買う。もう少し大きな籠を持ってこればよかったかと思い、路地でこっそり魔法をかけ、籠を大きくした。誰も見ていないようでほっと胸を撫で下ろす。
辻馬車に乗って目的の場所へ辿り着くと、リゼルヴィンの記憶の中のそこと少しも変わらない建物に、懐かしさがこみ上げた。
ミレーシア区にある、かつてリゼルヴィンも通った王立魔法学校。門の脇には門番が二人、これも変わらない。
「あの、学長さまにお話があって来たのですけれど」
二人の門番のうち、より優しげな右の男を選んで声を掛ける。彼は人の良さそうな笑みを浮かべた。
「学長さまとお約束を取り付けておりますか?」
「いいえ、けれど学長様は、きっと私が来ることを知っておられると思います。繋げてもらえますか」
「わかりました。では、こちらにお名前の記入をお願いします」
渡された紙にさらさらと『リゼルヴィン』とだけ記入する。敵意のある者や身分を詐称した者が名を書くと、文字が消えてしまう魔法のかけられた紙だ。今のリゼルヴィンはどちらにも当てはまらないので、当然書いた名が消えることはない。
リゼルヴィンから受け取った彼は、書かれた名を見てぎょっとするも、文字に異変がないからと何も言わなかった。
身分の確認を終え、彼が指笛を吹く。すると門の上に置きもののように微動だにせず止まっていた鳥が動きだし、リゼルヴィンの肩に乗った。
「学長さま、聞こえていらっしゃいますか? お話があって参りました」
『久しいですね、リゼルヴィン。これほど急とは、あなたらしくありませんね』
鳥がくちばしを動かして喋った。驚きもせず、懐かしげに目を細めながら、リゼルヴィンは話しかけ続ける。
「ええ、お久し振りです。ちょっと学長さまのお顔が見たくなったものですから」
『構いません。お茶でも用意して、待っていましょう』
「まあ。ありがとうございます」
それだけ会話をして、鳥は元の位置に戻り、また置きものになる。門番の彼も、リゼルヴィンの道を塞ぐことはなかった。
一歩、敷地内に足を踏み入れると、そこはもう外の世界とは全く違う場所だ。
まず空気が違う。良質な魔力が流れているのに、学生たちが魔法の訓練をするためその魔力の残りかすも漂っている。気分がいいのか悪いのかわからない場所だ。
ミレーシア区はその面積のほとんどを、この王立魔法学校が占めている。ほとんどこの学校のための土地であり、それ故にミレーシア区は魔法区とも呼ばれている。
ただ、敷地自体は広いものの、在学する学生は全体で三百に届くか届かないかである。エンジットに魔導師が少ないことは大陸でも有名であり、こればかりは国がどんな手を打とうと変えることはほぼ不可能である。
シェルナンド以前の王は魔導師の数を増やすことに重きを置いていたが、シェルナンドはその方向を変え、魔導師一人一人の力を強化することにした。そこで王立魔法学校を設立し、施設を充実させるためにミレーシア区を整理し土地を確保したのだ。
様々な施設があり、同じような形のものも多いため、初めて訪れた者で迷子になる者は多い。けれど、建物の上に掲げられている旗の色を見ればすぐに見分けることが出来る。黄色が教師たちの研究室、青が図書室といった風に分けられているのだ。まあ、そう話しても、青の旗が多すぎて結局わからなくなるのだが。
青の旗が掲げられた一際大きな塔を目指し、歩く。道行く学生たちが挨拶してくるものだから、こちらも微笑んで返す。まだ幼い子供から大人まで、この学校の年齢層は様々だ。
塔の扉に手をかざせば、固く閉ざされたそれが独りでに開く。一歩踏み入れれば、やはり勝手に扉が閉じた。
螺旋階段をひたすらに登る。塔の内部は本がぎっしり詰まった壁に、ついでのような扉がいくつかあるだけだ。
最上階の扉は、他のものとは違って重々しく大きいものだ。この王立魔法学校の学長室である。
小さくノックをして、扉を開ける。部屋の中はぐるりと本棚に囲まれていて、入りきらなかった本は腰ほどの高さの小さな本棚に押し込まれている。そこに、気難しそうな顔をした、真っ白な髪と立派な髭の老人がいた。
「お久し振りです、学長さま」
老人はゆっくりと頷いて見せる。この老人こそ、リゼルヴィンの恩師であり、エンジット唯一の王立魔法学校の学長である。
リゼルヴィンが学生であった頃、その学びのほとんどを見ていたのは、この学長その人であった。リゼルヴィンはシェルナンドによって基礎を教えられていたため、通常より随分と早い進級であり、学長の他に教えを与えられる者がいなかったのだ。
学長は魔力量こそリゼルヴィンにもファウストにも劣るが、その知識、実力共に大陸有数の魔導師である。エンジットの生まれではないのだが、魔法学校の創立のためシェルナンド直々の誘いで民となった。それまでは国から国へ、大陸から大陸へと世界中を旅していたという。その広い見識は人格にも影響を与えたのか、何事にも冷静な目を向け、ただ黙々と研究を続けるのみの姿勢は他者に理解されにくく、しかしそれすら彼が気にすることはない。彼によると、すべては神の御心のまま、人間の手を出すべきものではないという考えのもと、他者に理解を求めることはすべきではないとのことだ。
時に変人とすら呼ばれる彼は、誰にもその本来の姿を見せず、実年齢も教えていない。普段は気難しい老人の姿をしているが、実際のところはそうではなく、ある者は目立たない平凡な壮年と、ある者は息を飲むほどの美青年であると言う。教え子たるリゼルヴィンも、ファウストも、実のところどうなのかは知らない。
「砂糖は、いりませんね」
学長――カスパールは、リゼルヴィンにお茶を差し出しながら言う。このカスパールという名すら真の名前ではないというのだから、謎に包まれた男だ。
「ええ、そのままで。ありがとうございます」
落ち着いた声は、けれどよく通る。老人らしからぬはっきりとした声だ。
白く立派な髭を撫でながら、カスパールはリゼルヴィンをじっと見つめる。
「あなたは、変わりませんね。けれど、大きく変わった」
「そうでしょうか。学長さまは、ええ、あまり変わりませんけれど」
「時を歩むものに、変わらない者はいないと知ってはいても、あなたは驚くほどに、変わらない。私のような老人の歩みは、当然、遅い。しかしあなたは、そうではないはずです。何故、こうも変わらないのか……」
「私が生きていないからですよ、学長さま。あなたなら、よくわかっているでしょう。私の本質と、真実を」
ゆったりとした声に、リゼルヴィンですら呑まれそうになる。その紫の瞳はすべての物事を見通すようでいて、正面のリゼルヴィンをすり抜けて遠くを見ているようにも思える、不思議な色をしていた。
カスパールは皺だらけの手でリゼルヴィンの手を取った。乾いた手。けれど、ほんのりと温かい。
「ひとは、生きているものです。こうして触れられるなら……」
「私でも?」
「もちろん。あなたも、私でさえ、生の歩みから逸れることはない」
「どうかしら。私は――」
死んでいるとは、言えなかった。生きているとすら、リゼルヴィンは言えない。
この状態が一体何であるか、リゼルヴィン本人もわからない。教えられてはいる。だが、本当にそうと言うには、わからない。
カスパールと話していると、普段は少しも気にならないことが、当然であるはずのことが、わからなくなる。それは本当なのか、本当に信じてもいいことなのか――。疑ってはいけないことを疑ってしまいそうになる。
そんなリゼルヴィンの様子を見て、カスパールは優しい声をした。
「ひとは、ひとである以上、死からは逃れられず、生もまた然り。あなたがどうであれ、私がどうであれ、ひとであり続ける限り、ほんの少しずつ、時に大きく、変わっていくものです」
「……」
「あなたが何を悩んでいるのか、私にはわかりません。私はあなたでは、ないのですから。けれど、あなたは私の教え子であり、私はあなたの師であることは、変わらぬ事実。師である以上、前線を退いた老体ながら、私はあなたのために、動くつもりです」
「……あなたの力を借りられるなら、それ以上に心強いことはありません」
ここでリゼルヴィンは一度お茶を口に含み、どう切り出すかを考えた。心臓が痛いほど跳ねている。確かな用があって訪れたというのに、すっかりカスパールに呑まれていた。
カスパールはこちらをじっと見つめている。やはりその目はどこか若々しく、リゼルヴィンはカスパール青年説を推すことに決めた。知恵と力のある魔導師が、年若い姿のまま長らく生き続けるのは、この世界ではそう珍しくもない。
どうせリゼルヴィンは、この老人には勝てないのだ。カスパールはリゼルヴィンが力で無理に押そうとしても、ひらりとかわし、細く鋭い針で心臓を突くのだろう。そのくらい楽にやってのけるほど、カスパールという老人は、自らの力をよく理解し、よく使いこなしている。
「今の私がどうであれ、もう私の死はすぐそこまで近付いています。死神の吐息が耳元で聞こえるくらいに」
あくまで当然のことであるように、リゼルヴィンは言う。嘘を言っても、意味はないのだ。下手に誤魔化してカスパールの協力を得られないよりはましだ。
「どう死ぬかまではわかりませんが、きっと良い死に方ではないだろうということはわかっています。代々『黒い鳥』は、罵られ、踏みにじられ、人々の呪いを一身に受けて病むか処刑されるかのどちらかです。私なんて、今までにないくらい酷い死に方をしても、文句は言えないようなことをしてきました。だから、きっとよくない死に方をするでしょう」
カスパールの表情は変わらない。何も考えていないような無で、リゼルヴィンの琥珀の目を見ている。
自分で自分の墓穴を掘っているような気持がした。相変わらず馬鹿な女だと自嘲しながら、カスパールの目を見つめ直す。
「私の骨の処理をお願いします。あれはあまりに強い力を持っている。私が死んで、私の骨を狙う者は多くなるでしょう。その前に、なんとかお願いします」