追放の章 1 「強制排除」
月明かりの中、標的が姿を現した。
紺色の作務衣に身を包んだ男が手桶を持って井戸に向かう。
手押しポンプを上下させて井戸水を汲んでいる。
桶を手にした男がもと来た勝手口に向かう。
家の中からの明かりが男の顔を照らす。
確認した。
顔も身体的特徴も手渡された写真に酷似している。
あれが、特殊処理の対象の一方であることに疑いの余地はない。
家の中にはもう一方の標的も確実にいる。
情報によれば、余命幾許もない病人であり、床から立ち上がることも出来まい。
標的は既にこちらの手の内にあるに等しい。
N県K村。
13世帯32名の過疎の村である。
この村は今、国家保安庁特殊部隊に包囲されていた。
「・・・陸自部隊より連絡。県道および全ての林道を完全に封鎖しました」
「・・・1班、ターゲットを確認。ターゲットA・B共に1階の寝室にいます」
「・・・2班、包囲完了。いつでも行けます」
「・・・3班、突入準備完了」
スコープで窓越しに人影を見ていた隊長、戸部陽一はレシーバーのマイクに小声で命じた。
「作戦開始」
平成XX年特別国会、内閣総理大臣所信表明演説
・・・あの9.11米国同時多発テロに端を発する所謂「対テロ戦争」は、昨年我が国において発生した「3.15事件」により新たな段階に達したのであります。
9.11以来、我が国は世界的なテロとの戦いに有形無形の協力を果たしてまいりましたが、他方で我々日本政府及び日本国民は「対岸の火事」として、吹き荒れる国際テロリズムの嵐を楽観視したのではないでしょうか?
我々は余りに無知であり無力でした。
我々の無知と安全に対する驕りが、我々日本民族を三度核の災禍に晒す結果を招いたのではないでしょうか?
新しいテロリズムとの戦いは、今や民族・国家の存亡を賭けた戦争と言えます。
しかし、この「テロ戦争」から民族・国家の生存と国民の生命・財産を守るに我々は余りに無力で脆弱なのであります。
ここに日本政府は警察・自衛隊とは独立・専門の対テロ組織及び情報機関を設立し、テロリズムの脅威から国民の生命・財産を守り、テロ撲滅への国際的責任を果たすことを宣言します・・・
対テロ部隊としては従前より警視庁特殊急襲部隊(SAT)が有名であり、ゲリラ攻撃に対する警備訓練も行われてはいたが、実際の所、朝鮮人民軍レンジャー部隊によるゲリラ攻撃などには対処不可能と考えられていた。
無駄な犠牲を防ぎ事態に即応する為には自衛隊の治安出動を要請して、普通科連隊や空挺団あたりに任せた方が無難。優秀なレンジャー部隊であれば、極めて速やかに効率よく確実に全員射殺できるであろう…との意見もあったが、「平事にテロに備えるのも、有事に外国の特殊部隊に備えるのも大差ない」という警察関係者のコメントに表わされる様に、テロ対策におけるセクショナリズム・・・警察は自衛隊の出動、とくに治安出動に関しては、自分たちの存在意義に係わる問題だと捉えていたようだ・・・は激しかった。
また、自衛隊の治安出動については国民の拒否感も強かった。
しかし、東京都内で核爆弾が炸裂するという未曾有の3.15事件を期に、警察力によるテロ対策の限界が認識され、テロを事前に察知する情報収集活動の重要性がクローズアップされるようになった。
そのような中で、防衛省・警察庁とは独立した統合的な対テロ組織として実力部隊と情報機関を内包した国家保安庁の創設と、各種の非常措置、テロ事案における警察・自衛隊の国家保安庁への従属を定めた「対テロ特別法」は衆参両院において圧倒的多数の賛成を以って可決された。
この「劇薬」とも言える戦後日本の一大改革を核テロの恐怖に晒された国民世論もマスコミの論調も、その大多数が支持した。
村の住民は1ヶ月前に村に入った標的の男女2名を除いて全員が65歳以上の老人だった。
村から最寄の町までは県道を車で下って1時間弱。
その県道も台風などで度々寸断され、村は孤立した。
この人々に忘れ去られたような村が、今まさに地上から消滅しようとしていた。
国家保安庁極秘通達
・・・国家保安庁対テロ部隊の活動に此れまでの所過誤はない。しかし、その存在が既に知られすぎたと言う事実は否めない。内外の情勢が一段と複雑化してきた現在、極めて特殊な処理を施さねばならない対象も出てきているし、今後それが更に輩出して来る事が予想される。
すなわち、逮捕・拘留・起訴・裁判という一般的な司法手続きを履践することが我が国の安全にとって極めて危険と判断される対象に対しては超法規的な特殊処理が望まれるのである。
既に設けられた対テロ部隊は半ば公然化しているが、今次特殊処理班は極秘裏に組織されねばならない。この案件につき関係各部の迅速なる対応を求める・・・
(10日前、戸部陽一と国家保安庁情報部長との会話)
部長「今回で8人目だね。情報部に特殊任務班が出来てから特殊処理を行うのは」
戸部「はい。5件目の作戦です」
部長「納得がいかないようだね」
戸部「・・・いえ。ただ、本件標的の確保に我々が出動するのは些か大袈裟に過ぎるように思われますし、何より『消毒』処置まで必要なのか疑問がありましたので。出来れば避けたいですからね」
部長「君の疑問は十分理解できる。だが、部隊発足以来、最も悪質かつ危険な標的だと考えてくれ。詳細は最高機密であり語ることは出来ないが、標的2名の確保が本任務の最重要目的だ。作戦の帰趨は国家安全保障の根幹に関わる」
戸部「はい。ここまで来て引き返す事は出来ませんからね。どんな形であれ」
部長「兎に角、標的2名を確保・回収し、急行した在日米軍部隊に引き渡す事。標的の生死は問わない。よろしく頼む」
戸部「了解しました」
電話線と送電線が同時に切られた。
暗闇の中、隊員達のナイフが12世帯の老人達を襲う。
作戦開始から僅か15分で29名の村民が音もなく命を奪われた。
突入部隊が標的のいる民家に突入する。
勝手口から侵入した突入隊員、井口公平が老婆と鉢合わせた。
老婆が「あんた、だ・・・」と声を出した瞬間、井口のナイフが老婆の喉を切り裂いた。
老婆の右手が偶然流し台の上にあった食器を払い落とし、食器の割れる音が台所に響いた。
奥から男が現れた。
井口に気付いた男が手に持っていたマグライトを点灯し井口の顔面に光を向けた。
顔面をいきなり照らされ、井口の暗視ゴーグルの視界は一瞬真っ白になった。
男の反応は素人離れしていた。
男は左斜め下からマグライトを振り上げ、井口の暗視ゴーグルを弾き飛ばした。
男は井口のナイフを持った右手を前腕で壁に押し付けながら、右手で井口の顔面を掴んだ。
親指と薬指の指先を井口の頬に食い込ませつつ、人差し指と中指を両眼に押し込む。
頬を握られた井口は男の手を外す事ができず、両眼をズブズブと貫かれた。
井口は獣の咆哮を上げた。
井口と共に勝手口から突入した加藤勇は井口が障害となって手にしたMP5SD4のトリガーを引く事は出来なかった。
男は井口の落としたナイフを加藤に向け、柄の上部にある釦を押した。
銃声と共に加藤が倒れた。
強力なスプリングによって発射されたナイフの刃が加藤の喉を貫いたのだ。
玄関から突入した渡辺浩二と木村仁志は寝室に入った。
寝室の介護用ベッドの上に女が一人横たわっていた。
標的の一方の女だ。
二人が寝室に入っても女は全く反応しなかった。
女は昏睡状態に陥っているようだ。
木村は女の酸素マスクを外し、白く細い喉を横一文字に切り裂いた。
井口の悲鳴と銃声を聞いた渡辺は廊下の突き当たり、茶の間のドアを開け中に突入した。
突入した瞬間、横から銃を叩き落とされ顔面を何か固いもので叩かれた。
そして、次の瞬間固い金属に喉を突き貫かれた。
渡辺はその場に崩れ落ちた。
激しい物音に振り返った木村の暗視スコープに鬼の形相で部屋に飛び込んで来た男の姿が映った。
木村は慌ててMP5SD4のトリガーを引いた。
フルオートで吐き出された28発の銃弾が男を襲った。
木村の左肩に激痛が走る。
左肩に何かが刺さっている。
痛みに気が遠くなりそうな木村は信じ難い光景を目にした。
多数の銃弾を受けもんどりうって倒れた男が大量の血を流し、のたうちながら這って来る。
どうなっていやがるんだこいつは!
激痛と恐怖に震える手で、木村はホルスターからSIG SAUER P230を抜いた。
男は木村の事が目に入らないかのように、ベッドに向かって這っていった。
男は一瞬立ち上がり、そして、次の瞬間、力尽きてベッドの女の骸の上に折り重なるように崩れ落ちた。
2度目の銃声を聞いて家屋に飛び込んだ第2次突入隊4名は信じ難い光景を目にした。
たった一人の男に武装した特殊任務班の精鋭2名が殺害され、2名が再起不能の重症を負わされていたのだ。
戸部陽一は木村仁志の左肩に深く刺さり、彼の肩の神経叢を断ち切った「釵」を見て、背筋に冷たいものを感じずにはおれなかった。
作戦自体は単純極まりないものだった。
非武装の村を襲い標的の男女を確保する。
女は末期癌で死に掛けの病人であり、男も軍事訓練などを受けた経歴は無いただの肉体労働者だった。
口封じの為に消される村も、老人ばかりの過疎の村だ。
しかし、結果はこの有様だ。
戸部が「特殊処理」により回収した標的は過去4件6名であるが、人的損害が出たのは初めてのケースだった。
反撃すら予想外の事態だが、まるで戸部たちの作戦を事前に知りつつ襲撃を待ち構えていたかのような鮮やかな反撃。
しかも相手はほぼ丸腰の状態。
しかし、そんな相手に第1次突入隊4名が全滅させられたのだ。
木村は男を「鬼」と呼んだ。
実際、奴は人間ではなかったのかもしれない。
部長の言う通り、部隊創設以来、最も危険な標的であり、もたらされた結果も最悪であった。
しかし、戸部は、彼の部隊に創設以来最悪の損害をもたらしたこの男に畏敬の念を禁じ得なかった。
在日米軍に標的2名の遺体を引き渡して死傷者を収容した後、戸部の部隊は村と付近の森林に火を放った。
村の全滅は山火事によるものと報道されるだろう。
戸部は深い疲労感に囚われていた。