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月の入江  作者: 緋絽
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【幕間】緑風が吹く

大変ご無沙汰しております。

緋絽と申します。


長いこと空けて申し訳ございません。私生活が落ち着けばまた頻度をあげますので……。



今日。

その国は、伝統的な祭りで浮き足立っていた。

自分の特別な人に特別な物を渡して、心を伝える日。この日だけは、どんな人とも心を通わすことができると言われている。

死者とですら。


あの日の空は、思い返せば息が詰まるほど鮮明に覚えている。

豪雨が長く長く降り注ぎ、濁流となって植えていた苗を押し流し、畑を無惨な姿と変えて、ようやく止んだ日のことだった。

ノックスはフラりフラりと肩を押さえたまま、古びた家を出た。

まだ幼さの垣間見える顔は苦悶で満ちていた。押さえた肩には僅かに血の色が滲んでいるのが見てとれる。

ここは、父と母と弟と、今日まで過ごした家だ。だがノックスは、ここを出ると決めた。父の代わりに家族を養うために。

…………父親の足跡は、濁流に揉み消されていた。

だから、ノックスは疲れたようなため息をついて、一粒の涙を溢した。

食えるものはない。今年、ノックス達家族を僅かばかりでも満たすはずだった穀物は、大雨に流され一粒たりとも残ってはいないだろう。残っていても、せいぜい母と弟に水のように薄いスープをすすらせる程度だ。

……もともと、手がかって小さな弟を、父が生まれた時から疎んでいたことは知っていた。時期が悪かった。日照りが続いて税が納められなくなった時に弟は生まれたのだ。税収官が訪れるたび、父はおかしくなっていった。狂気を孕んだギラギラした瞳で家族を見据える。まるで、何かを選ぶように。

そして、今日の朝方。豪雨が屋根を叩きつける、まだ夜明けの訪れぬ頃に、風が(・・)頬を撫でたような気配にノックスはふと目を覚ました。

半分開いた扉から人が滑り込み、弟に向けて何かを振り上げた。

ノックスは咄嗟に弟に覆い被さった。

一拍の後に焼けるような痛みが右肩に走り、鉄の臭いが充満する。

「こ、のっ!」

何とか押し退けて───ノックスは愕然とした。

「父、さん……」

荒い息を吐きながら血走った目をしている父は、父ではなかった。魔物だ。魔物は、取り憑かれたように弟に鎌を振り上げた。

それからのことはよく覚えていない。ただ、自分の手には誰のものかわからない血が滴った鎌が握られていた。家の外へと血が点々と続いている。

…………その血は、寝床からほとんど動いていないノックスからは、到底落ちるはずのない場所にあった。


二度と父が帰ってくることはなかった。

家族を生かすため、そして罪悪感を消すため。

翌日には、俺は騎士団の見習いとなっていた。

罪悪感。

弟を守るためという大義名分のもと、弟と母から、父を奪ったこと。

ただ、あの日に行ったことを、後悔したことはない。俺にできることは限られていたし、守らなければ、弟は死んでいた。

けれど思う。


見習いだけの給金では、家族は養えない。

だから母は、変わらず農家を続けた。

あの日の出来事は周りには秘めていたため、夫に逃げられた妻として後ろ指を指されながら。

4年、細腕で弟を育てた後。

母はある日の朝、疲れたように濁った咳をひとつつき。そのまま、ため息と共に息を引き取った。

隣の家の人が騎士団の宿舎にいた俺を呼びに来たときには、すでに母の骸は埋葬されていた。

宿舎に連れていけない弟は、近所の教会に預けることになった。


あの日に行ったことを、後悔したことはない。俺にできることは限られていたし、守らなければ、弟は死んでいた。

けれど思う。

教会に置いていかれる、俺を見送る弟の、寂しそうな微笑み。

俺は弟から、そして母から。父親を奪ってしまった。それがどんな父親であれ。

俺の、勝手な判断で。多くの運命を、歪めた。

もしかすると、あのままを受け入れた方が。…………幸せだったんじゃないかって。


「ノックスー! 客だぞー!」

騎士団員のお茶らけた声に、談笑していた俺を取り囲むやつらの雰囲気が変わる。

いや、そもそも和やかに見えていただけなのかもしれない。今日は、みんなどこか、敢えて朗らかにすることで気にしていないことを装っていたのだろう。

要するに。

ーーーー告白されるかどうか、内心探りあっていたという。

「くっっそノックス! 裏切り者め!」

「お前だけは、仲間だと信じていたのに……!」

泣き崩れる仲間達に俺は呆れたように溜め息をつく。

「勝手に裏切り者に配置すんな。俺はまだ何も行動してねえ」

「まだだとさ!! まだ!!」

「どーせこれからげろ甘な毎日が待ってるんだろ! むしろそうするかどうかすらお前の手の内っていうのが憎い!!」

「つーか、別に告白とは決まった訳じゃねえだろが」

確かに世間一般ではそう見られがちな日だが、大切な人に思いを伝える日とも言われている。

どんな人とでも心を通わせることができる日。

ふと、弟のことを思い出した。

あいつ、元気にしてるだろうか。近頃帰ってやってない。寂しがっているだろうか。

いやでも、あいつも今年で14になるし、そろそろ兄離れする頃だろ。

「その余裕が憎い!!!!」

「くたばれ!!」

「粘り強く生き続けますー」

俺を呼んだ団員がニヤニヤと笑いながら近づいてくる。

「皆、僻んでんじゃねえよ。むしろ労ってやれ。呼びだされたからには、高潔で誠実な騎士であるノックス殿は、例え本心ではどうあれ行かねばならんのさ」

「なんだお前、やけにノックスの肩持つな」

「そりゃあな! 俺はノックスを仲間だと思ってる。ーーーーそう、高潔で誠実なノックスは、例え男からの呼び出しでも行かねばならんのだ!」

男からの呼び出し。

その言葉に、恨み辛みを溢していた奴等の表情が歓喜に沸いたのは言うまでもない。

ちなみに俺は、死を決意した。

俺のでもなければ、俺を呼び出した奴のでもない。

昼間、男色と疑われるような素振りをした、ハルキのだ。

呼び出した奴は昼間の茶番を見て、自分にも希望があると思ったに違いない。

俺は男色に偏見はないつもりだが、自分がそうであるかと言うと違う。

つまり何が言いたいかと言うと、無闇に希望を見せたハルキは罪が重いと言うことだ。


その呼び出した男とやらは、年下のようだった。

中に入れと勧めたが、入り口でいいと断ったらしい。

なんでだ。応接室の方が、誰にも話を聞かれなくて好都合なんだが。

入り口まで来てから、俺は呼び出したやつの名前を聞きそびれたことに気づく。ていうか、真っ先に名前を言えよ、あいつ。

まあいいか、と。

どうせお互いに自己紹介くらいはするだろうと、聞きに戻らなかったために。

その衝撃は、重かった。

ぐらぐらと体が揺れて、視界が強張るほどに。

「ーーー兄ちゃん」

低い位置にある頭。

14歳になっても、弟はほとんど成長できなかった。ただその声ばかりが低くなり。

柔らかく微笑むその顔は、どれほど久々に見たか。

「ーーーシグム?」

「久しぶり、兄ちゃん!」

日に透けた葉っぱのような髪色は、紛れもなく弟の物だった。

飛び込んできた弟を、俺は慣れたように受け止める。

呆然としたのは一瞬だった。

衝撃はまだ、心に残っていた。

「ぐっ、なんだお前、来ちゃったのかよ? よくここまで来れたな、遠かったろ」

何故来たかを、問うことができない。その答えを、聞くのが嫌だった。

近頃帰らなかったのも、そこに起因する。

「全然! 会いたいって思ったから、飛んできちゃった!」

満面の笑みの弟は、かつてないほどに元気だった。

そうか。中々会えなかったから、寂しい思いをさせてしまったのかもしれない。ちゃんと寂しがってくれたことが、ほんの少し嬉しい。

「お前、教会には? ちゃんと言って出てきたんだろうな?」

「えー言わなくても大丈夫だよ。俺が兄ちゃんのとこに行きたがってたの、皆知ってるし」

俺は溜め息を吐く。

そうだ、弟はいつも、俺が帰る前日になると必ず俺に着いていくと言っては宥められていた。けれど翌日になると無理して笑って送り出す。それが、かわいそうだったっけ。

「だからって言わないでいい理由にはなんねえだろ。ちょっと待ってろ、団長にお前泊めていいか話つけてくる。どうせなら観光もしてぇだろ? 3日くらいいるか?」

弟の腕をほどいて中に戻ろうとして、弱々しい力で袖を引っ張られた。

振り返ると、弟が首を横に振る。

「シグム?」

「俺、挨拶に来たんだ。兄ちゃんに」


ドクリと、音がする。心臓が軋む音をたてている。

あの日の罪悪感が、俺を襲う。


「挨拶って、何のだよ」

「お別れの。兄ちゃん、俺は、」

思わず、手で口を塞いでいた。

驚いたように目を見開いたシグムが、次の瞬間くしゃりと顔を歪ませる。そして、大粒の涙が零れ落ちた。

「俺、たぶん、死んじゃうから。もう、持たないから。だから、兄ちゃんに、会いたいって」

喉が詰まって、声が出なかった。

泣くのを見られたくなくて、シグムを引き寄せる。

シグムは首に震えながらかじりついてきた。


あの日。

父親の振りかぶった鎌は、弟の上に覆い被さった俺の肩を切りつけていた。

けれどその先端は、シグムの腹を裂いていた。

血が沢山出て、幼かったシグムが生き残るのは、もはや絶望的だった。流れ出ていく命を、止めることはできなかった。

ーーー守りたかった。だから、俺は。

多くの運命を、歪めた。

何かが流れ出ていくことは、止められない。けれど、弟の命が尽きるのは、許せない。

だから、俺の命を。俺の命を形成する魔力を、代わりに。

零れ落ちるシグムの命を補うように、俺の力を与えた。シグムが生きていけるだけの魔力を、分けた。今この瞬間まで。

たまたまだった。どうして可能だったのか、今ですらわからない。

ただ、弟の傷は塞がり、成長するスピードは遅くなったが、今日の今まで、生きている。

それだけが大事だった。

魔法が満足に使えなくなったことなんて大したことじゃなかった。魔法の代わりになるものを見つければそれで済む話だ。

シグム。お前が生きていてさえくれるなら。


「なんで、死ぬなんてわかんだよ」

「わかるよ。俺もう、教会戻らなくていいんだ。どこに行くとか告げても、もう誰も俺の言葉聞こえないんだ。だから来た。兄ちゃんの顔を思い浮かべたら、もうここにいたんだ」

抱き締めたシグムは、細かった。

大きくなれなかった弟。

本当はあの日、尽きるはずだった命の砂。

それを後から後から別の砂を足して、まるでシグムが生きているかのように見せかけて。

母が死んだ日の幼いシグムが、俺に笑いかける。泣きそうなのにそれを押し殺して。押し殺せていない笑顔で。

俺の手を握り、俺を呼ぶ。

二人きりでも兄ちゃんがいるから、俺は寂しくないと。

「悪かった……俺が勝手に生き永らえさせたのに、一人にさせて、…………本当は、寂しかっただろ」

あの日、父を追い払わなければきっと母は死ななかった。あの日、もっと別の方法で父を止めていれば、シグムは家族を失う怖さを知らずに済んだし、ーーー一人寂しく誰かを待つこともなかった。

もしかすると、生きるより死んだ方がましだったかもしれない。結局俺が身勝手に引き換えたのに、失われたのは俺の命ではなく母の命だった。

あの日に行ったことを後悔はしない。弟を生かす選択をしたのは、間違いじゃない。しない、けれど。

ーーーあの、もう誰もいない教会で、帰ってこない俺を、シグムはどう思っただろう。

勝手に理を曲げた、俺の罪。

「違うよ! 俺、寂しくなんかなかった! 先生も皆もいて、皆優しかった。兄ちゃんにたまにしか会えなくても、手紙くれたし、寂しくなかった。本当だよ」

「でも、俺が勝手にしなきゃ、」

「俺は、死んでた。そうでしょ? 兄ちゃんは、俺の削られる時間の速さをちょびっとずつにしてくれてたんだろ。……むしろ俺が、兄ちゃんに謝らなきゃいけないんじゃないの」

体を離したシグムが、俺を見据える。

それは、母と同じ色をしていた。すべてを認めて生きた証のような、凛とした瞳。

「それは、ちげえよ」

「うん。兄ちゃんならそう言うと思ったんだ。でも、いいんだ。今はもう、それは、いいんだ」

受け入れたようなしっかりとした声で、シグムが頭を振る。そしてごしごしと俺の顔を擦った。

「なんで兄ちゃん、泣いてるの。変な顔。俺、兄ちゃんを責めに来た訳じゃないよ」

笑ってシグムは俺の耳に顔を近づける。

内緒話をするような素振りが懐かしくて、俺も思わず笑った。

そう。あの古びた家の、母親の立つ台所の後ろで。何度もこうして悪戯の相談をした。

俺の耳に当てた手が透けていく。

驚いたような顔をした後、シグムはもう一度笑った。


「あのね」

流れ落ちる命の砂。

その、最後の一粒が。


落ちる。


「あの日俺を生かしてくれて、ありがとうって、伝えたかったんだ」


気がつけば、そこには俺一人だった。

弟がいた名残かのように、体が温かい。

いや、温かいのではなかった。

シグムに分け与えていた魔力が、すべて還ってきたのだ。

分け与える先が、無くなったために。

涙が出た。

そうか。俺は、今日、真実の意味で弟を失ったのか。

ーーーもう、シグムはいないのか。

感情に影響されたように強い風が吹く。

遠い遠い弟のいた街まで。あの日の、自分の元へ。


後日、弟が世話になっていた教会から手紙が届いた。

シグムが魔力切れで亡くなったこと。弔ったので、墓参りをしに来いということ。

今度、長い休暇をもらおう。

しばらく会いに行っていなかった分、長く会いに行ってやろう。

もう、後悔なんてしない。

例え僅かでも、お前が生きていたこと。

シグムが、それを喜んでいたことが、分かったから。

だから、あの日の俺の頬を撫でた風を、吹かせよう。

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