前勇者の始まり始まり
全力疾走。
腕を振り腿を上げては前へと進んでいく。
目に見据えるものはただ一つ。所々汚れているが白くて四角いその建物。
その中に滑り込むようにして入り、横一列に並んだ扉の一つを開く。
そして鋭く呼吸を吐き出すのと同時に一言。
「漏れるっ!」
目をこれでもかとばかりに広げ、ベルトをかちゃかちゃと外す。
外れないベルトに焦り、間違ってキツクしてしまった瞬間に襲い掛かってきた腹痛。額に浮かぶ脂汗の感触を知りつつもゆっくりと手を動かしベルトを外そうとする。
「ひっひっふぅぅ……ひっひっふぅぅぅぅ……」
呼吸は気にしない。
まだ座ってもないのにすぐにでもシャウトしてしまいそうなのは気にしない。
してはいけないのである。
「ぅぅぅうううおおおおおぉぉおぉっ!?」
――お見苦しい所をお見せしてしまい申し訳ありません――
「ふぅ」
あぶねぇ……もう少しで現世から幻想の世界にランデブーするところだったぜ。
しばらくして痛みが引いてきた腹部を撫でつつ考える。何か悪いものでも食べただろうかと。
腕を組み上を向いて思い出してみるが何も思い浮かばない。ただ、思い当たることがあるとすれば、昼飯を少しばかり食べ過ぎてしまったことだろうか。
そう言えばこの公園のトイレはそこら辺の公衆トイレよりもかなり綺麗だが……こんなに綺麗だったろうか。
外見こそ少し汚れているといったが、中は全くと言っていいほどにシミ一つない。
真っ白なタイルに高く積み上げられたトイレットペーパー。
……可笑しい。
いくら手の行き届いたトイレでもここまでのトイレはおかしい。
どう考えても誰かが俺を罠に嵌めようとしているに違いない!
おい!
そこにいるんだろうどこだか誰だかわからないが、この外に!!
いそいそとズボンを上げてベルトを締める。忘れずに水を流して扉の前に立つ。
「ぅおぃっ!!」
勢いよく扉を開け、固まる。
「ここ、どこぞ」
目の前に広がっているのは草、草、草。
白いタイルとの境界線がきっぱりとわかるこの不自然さ。
「やぁ」と言わんばかりに主張している草々のその一つ一つに溢れんばかりの笑顔が浮かんでいるように見えてきてしまう。幻想か、幻であることには違いないが。
取りあえず、足元の草をちぎって匂いを嗅いでみる。青臭さと言うか、完全に雑草の匂いですねわかります。
いきなり森の中に放り出された俺。
そう言えば、と思いつつ後ろを振り返る。
大草原である。
「あれ?」
今までそこにあったはずの暖かくなった、少しずつ冷えつつある白い便器、積み上げられたトイレットペーパー。その全てがものの見事に消え去っていた。
目をこすってみても、自分で頬を抓ってみても、はたまたお相撲さんばりの四股を踏んでも踵が少し痛くなっただけで現実であることに変わりはなかった。
「……あれぇ?」
――ナントイウコトデショウ――
ちゃららちゃららと頭の中で流れ出したBGMとともに、目の前がキラキラと光るエフェクト。そのどちらも自分の妄想だと思うとかなり虚しくなってしまう。
何度首を振って現状を確認しても何も変わることはない。
「はっ!? この魔法ともとれる超越的シチュエーションに出会ったのなら俺も魔法を使えるのでは!?」
よくわからない原理で手に汗を握る展開になっているのではないかと推測。
適当に腕を前に出してポージング。人前だと絶対にできないポーズで雄叫びを上げる。
「ファァァイァァァアアァ!!」
ボッ!!
真っ赤で大きな火の玉は、まっすぐ直進して丁度良く木に直撃。
轟と草木が揺らぎ、パチパチと枝葉が燃えている。
視線を落とし手を見つめる。ぐっぱ、ぐっぱと指を開いては閉じる。
未だに燃え盛る炎と手を交互に見やり、勢いが衰えることなく隣に燃え移っていく炎を見て雄叫びを上げる。
「……なんじゃぁあぁこりゃぁぁぁああっ!!」
いきなり!?
適当に唱えた魔法が使えるってどゆことなの?
いや、今はそれよりも延焼を防がないとこのまま燃え広がって死んでしまう!
ととと取りあえずさっきはファイアで魔法的なサムシングが発動したから、今度はじゃあ、水を出したいから適当な単語を選んで、
「ウォーター、で良いのか?」
ザバン!
恐る恐る唱えた呪文は、一拍おいて効果を発揮し始めた。
おおよそ両腕を広げたぐらいの直径の水球が空中に出現し、そのまま自由落下。
重力に勝てず、確かな質量をもった液体は炎へと被さり消化する。
しかし、それでも炎のその全てを消化しきることはできず、その熱気を周囲へと振りまいている。
ちくしょう……!
いくらなんでも適当に唱えた魔法にしては威力ってか、いささか効力高いんじゃないのか?
こりゃぁ、もしかしなくともどの国でも一級魔術師になれますわぁ(ドヤ顔)
でも、国家間の戦争に巻き込まれるのは俺としては勘弁だ。そんな簡単に生き死にの中に放り込まれたくないからな。そこは俺の自由にさせてもらおう!
っと、その前にこの炎は何回呪文らしき言葉を唱えれば済むんだ?
さっきは何も考えないでやったからなぁ……その時の感覚だと、本当にただ力を込めて叫んだだけだったからなぁ。なんとも言えん。
……じゃ、やってみるか?
「ぅぅぉおおぅたぁあぁあぁぁ!!」
あらん限りの声量を込めて叫びます(言語レベルが低下してるが気にしない)。貴方の元へ!
何メートルか分からない、それぐらい上空に出現した点。
それは次第にその体積を増していき、一発目に出した水球の直径をかるーく上回り……目だけを上下に動かして見てみると、その直径は木の全長よりも長いように感じられた。
徐々に体積の拡張が治まっていくのを、口角が引き攣るのを自覚しながら眺めていた。
そして、その感覚がなくなると同時に振り返り、ダッシュ。
もはや後ろの炎がどうなっているのかなんて知ったこっちゃなかった。
ただただ後ろから迫ってくるであろう波を想像し、背中と額を流れ落ちる冷や汗を感じつつ猛然と走るのであった。
バッシャァァァァン!!
「ぅぅぅうううおおおおおぉぉおぉっ!?」
盛大な音を発てた水は、一瞬焼け石に水を掛けた時の音と同じ音を鳴らし、持て余された水が勢いよく後ろから迫ってきた。
全力走りつつ、適当な場所にあった木に目掛けて跳躍。
普段の運動不足が祟り、既に息が上がり始めているが、そんな事を気にすることもできずに幹にへばり付いた。
瞬間、その下を波が通り過ぎていく。
四方八方へ拡散しているはずの波は、これでもかと言わんばかりに前進していき、ようやく足元の水位が普通に歩くのに問題無いくらいまで下がるのに結構な時間を要したのだった。
「はぁ……ふざけ半分好奇心半分だったんだがなぁ……これからどうしよ?」
これが、初めて異世界で魔法を使ってしまった時の主人公。
木村生死の冒険譚の始まりであった。