前勇者とボクシング
この世界に戻ってきて一番に感じたことは、退屈だ。
久しく両親に会っていないと思ったことが切り口であるが、それでもここまで暇だと感じたことは今までの記憶の中であまり無い。
いや、暇というのは人間にとって敵だと考えているせいだろう。おそらく、これまでに何度も同じようなことは感じてきていたに違いない。
だが、これがまた、自分でも予想以上に暇なのだ。
向こうの世界に旅立つ前までの自分なら喜んで手をつけていたゲーム。そのシナリオや設定は確かに面白いのだが、それ以上の感情を抱けないのだ。
ゲーマーにあるような、このゲームにハマったという感情だ。
これが向こうの世界で生き死にに関わったことによる娯楽の消失だとすれば、これほど向こうの世界の住人に適した住人はいないだろう。
そんな感情は、自分の思考回路の外にも現れるようになった。
あまりよろしくない考えだが、親友と呼べるような人としか付き合えなくなってしまった。
以前の俺にはそんな友人がいたお陰でストレス発散はできているが、向こうで権謀術数に生きていると言っても過言ではない王女に出会ってしまってからと言うもの、自分でも思った以上に親友のハードルが高くなってしまったのだ。
今では両親家族を除いて2、3人としか付き合いがない。浅く広い付き合いならば今でもあるが。
……今となっては今になって増え始めた、とでも言うしかないが。
『この番組に出ない?』
そう誘ってくれた女性記者、藤森敦子の誘いを無理にでも断っておくべきだったと思い返しても後の祭りだ。
少々以上のロリっぽさを兼ね備えた天才魔法使い(自称)は、確かにそれに相応しい魔法技術と美しさがあった。
あまり本人の前で言うと調子に乗るから言わなかったが、少女にしか見えない外見から放たれる老熟した口調は、確かにそれらしさを醸し出していたし、本気で魔法を使っていたカンナの横顔は、可愛らしさの奥に妖艶さもあった。
あまり他人と一緒にいなかったという彼女にとって俺の存在がどんなモノだったのか、てのは本人にしかわからないものだろうが、普段からきゃっきゃウフフしてたような幼女だ。
本当に本気を見せていた時以外で綺麗だと思ったことは無かったのだが……
こっちの世界に戻ってきてから分かったが、あいつ以上に綺麗な女性はここに居ないと言うことだった。
見た目もある。
が、あいつほど俗世から離れて生活している奴はいないし、ひたむきさがあっても思わず見取れてしまうほど綺麗な人もいないのだ。
思わず本当にロリになってしまったのかと雄叫びをあげて悲しんでしまうところだったが、頑張って押しとどめることに成功した。
なんて悲しみに暮れていて、普通に綺麗に見える敦子さんにまったくそういった感情を抱けないでいた俺は、何も考えていない内にテレビ出演が決まっていた。
両親には話した。そうすることが両親への恩返しだと考えていたし、両親もまた、俺が良いというのなら良いというありがたい返事をしてくれた。
そんな俺は『まあいっか』なんて軽い気持ちしか抱いてなかったが。
そんなアットホームな雰囲気のまま終わってくれれば問題なかったのだが、世間が許してくれなかった。
世間は、予想以上に神隠しについての情報を欲しがっていたのだ。
自分の子供も同じような事態に陥ってしまうとは限らないし、実際に俺と同じような状況に陥って行方不明になっている高校生男子がいるという事実が民衆を後押しした。
『何が原因ですか』
『また、拉致問題ですか!』
『どうしてこんな事態が起きてしまったのですか』
『警察は何をやっているんだ!』
こういった事態への対処に慣れている方々は、俺にこの手紙やメールを見せたくはなかったようだが、数年越しで関わりのある俺が無視して普通に生活するわけにはいかない。
そんな思いが手紙へと目を通させた。
ほとんどが自分以外のことに対しての手紙ではあるが、事に関わっていて、なおかつ事実を話せずにいる自分からすると心が痛くなるようなお手紙ばかりだった。
普段からおちゃらけて生きていけるほど最高なものはないと考え行動している俺だが、これほど痛いものはなかった。
だからだろうか。俺は、何も考えることなく運動できる場所を探し始めた。
「何故、我をこの場へと呼んだのだ」
「まあ、そこで見ててくれ」
この世界に来てまだ間もないデスタと一緒にジムに来ていた。
無論、理由はストレス発散のためである。
最初は向こうの世界に行く前の自分と同じようにゲームやらをして気を紛らわそうとしたのだが、魔王とガチで戦って良い勝負ができるまでになってしまった俺は、そんなインドア系のモノで全ての気持ちを発散することができなかった。
だが、テレビに出てしまってからと言うもの、周辺住民への認知度がさらに高いものになってしまい、普通に外で運動することも出来なくなってしまったのだ。
自業自得と言えばそれまでだが、このときのために相談役になってくれそうな警察の人も無力だった。
いくら国家権力の警察と言えど報道力には適わない──俺に名刺をくれた人が単に役に立たないのだが──ということだった。そういうことで理解することにした俺、偉い。
だが、まさかここで全力を出すことはできないとは分かっているし、理解もしているが、もしかしたら大変なことになるかもしれない。
そんな考えが頭の中の半分以上を占めているが、最早抑えることのできないところまできてしまっているのだ。
向こうじゃ簡単に実行できたシモの発散だが、こっちじゃ活発的にすることができない。
英雄色を好むとは昔からの言葉だが、まさか自分がそんな状況下に陥ってしまうとは思ってもなかった。……嬉しい状況に変わりないが。
「……ここでは、このような戦いをしているのか?」
「いや、ここは、というか、これはボクシングって言われている格闘技で、他にも空手とかプロレスとかテコンドーとかあるんだが、デスタにはこれが一番わかりやすいだろうって」
「確かに、両腕、両手だけで殴り合っているというのはわかりやすい。それに、これなら純粋な力勝負ができそうだ」
さすが、戦わせれば一二を争う魔族の王。
目の前で戦っている二人……ヌルいパンチの応酬を繰り広げているプロの肩書きを持った戦いは気にくわない様子だが、決められたルールの中でいかに相手を倒すことが出来るか考えているあたり、魔王らしい。
だからこそ、ここにデスタと一緒に来た甲斐があるってもんだ。
「すみません!」
「はい、何ですか?」
「見学でここに来たんですが、少しの間、こいつとスパーリングさせてもらっても良いですか?」
「えっと……はい、構いませんが」
「ありがとうございます。グローブ、お貸ししていただいても、良いですか?」
「はぁ……」
曖昧な言葉と共に無理矢理グローブをぶんどった。
笑顔で会話はしたが、内心早くしろやボケェッ!なんて考えていた俺に否はない。むしろ、ストレスを爆発させずに耐えていた俺を誉め讃えてほしい。
だから、そんな不満そうな表情をされると粉砕してしまうぞと脅しをかけそうになってしまう自分を抑えつつリングに上がる。
「なあデスタ」
「なんだ?」
俺に従うままにリングにあがったデスタは、初めて見るだろうグローブを四苦八苦しながらも拳に装着する。
それ以外のプロテクターは要らないのかと問われたが、ただでさえ全力で戦うことができないのに、本気で戦うこともできなくなってはここに来た意味がない、その申し出を断った。
さすがにこれには不満を言ってきそうだったが、その前に、俺は自慢の笑顔を見せつけてヤった。
向こうで身についた筋肉、身体能力からしてそれなりに似合うようになったと感じている獰猛な笑みだ。
『邪魔するなら、てめえからヤるぞ?』
いつからかそんな感情が籠もるようになった。
意識していたやっていたわけではないが、今では戦いを楽しむために……あれ? 俺ってこんなに戦闘狂染みたキャラだったっけ?
ひきつった笑みと共に後ずさる店員を後目に、デスタにボクシングのルールを教えていく。
「……ふ、はは、ははははっ!」
「おい、どうした? ついにおかしくなったか」
「喧しいわっ! ……ただ、こんなにも早くにお前と、それも、我の好きな戦いが出来るとは思ってもなかったのだ」
「なら、この場をセッティングしてやった俺に感謝してくれよ? これでも、結構俺も楽しみにしてたんだ」
デスタの張り上げた声に、思わず笑みがこぼれる。
そして、両手を合わせてゆっくりと前に突き出し、デスタの応答を待つ。
「後は俺が教えたとおりだ」
「我が、ショージの両拳に、同じように我の両拳を当てる。それから」
「嗚呼……戦いの始まりだ!」
──パパッ
そこに居合わせた人々は、そこで何が起きているのか全く理解することが出来なかった。
──パパ、パパパッ
目の前の二人はその場で動かず、じっと目を見合っているだけ。端で見ている限りではそこまでしか理解できない……いや、見ることができない。
ただ、そこに何かが弾けるような音が響くだけだった。
しかし、それも束の間のこと。次第に、周囲の人にもその異常性が理解できるようになり始める。
──パパパッパパパパッパパパパパパパッ
確かに二人はそこから動いていない。
が、鳴り響く乾いた連続音が目を奪う。そして、一人が気付く。二人の拳が全く見えない事に。
周りで練習していた人、試合形式でスパーリングしていた人、ジムの経理として勤めている全ての人がその戦いに目を奪われていた。
ボクシングなんてものの経験の無い二人は、フェイントや距離を取ったなどの技術を挟まない。ただただ目の前の敵を倒すためだけに拳を動かし続ける。
迫り来る拳を拳で打ち落とし、打ち落とそうと放たれる相手の拳を弾き、弾けれた拳の勢いを利用してあらゆる方向から殴りかかる。
動いていないはずの二人は、ただ拳速とその重さだけで相手を打ち倒そうとしていた。
事前にそう打ち合わせたわけではない。ただ、純粋に戦いたいという気持ちと、互いに対しての思いやりがそこにあった。
──パッ!
そして、短くも長い時間は、始まりの破裂音と同じように唐突に終わりを告げた。
「──三分だ」
試合が始まってから、二人は初めてファイティングポーズ以外の姿勢を取った。奇しくも、二人とも左腕を突き出し拳を合わせて。
「そうか……いや、楽しかったぞ、ショージよ」
「俺もだ。まさか、ここまで興奮できるなんてな……思ってもなかった」
ジムの外から聞こえてくる雑音以外、話し声も何も聞こえない。まるでこの空間だけが切り取られたかのように。
そして、何も考えずに三分一ラウンドを終えた俺とデスタは身に付けていたグローブを外し、トレーナーらしき人に返却した。
「いやぁ、ありがとうございました。おかげで良い運動になりましたし、ストレス発散になりました」
「……え? あ、ああ、はい」
「それじゃあ、またここに来るかもしれないですが、その時に会うことがあったらよろしくお願いします」
もう一ラウンドヤっていかないか? なんて駄々をこねるデスタを子供かと罵りながら蹴飛ばし、ジムを後にした。
この時の俺は、少しばかり強くなっただけだとしか考えてなく、ジムで運動したのもほんのスパーリング程度のつもりだった。
だったのだが……普通に返したはずのグローブをひっくり返して見てみると、両拳とも拳先の部分が破れ、中の白い綿が見えていた。
その破片は、二人が立ち去った後のリングの中央に散り散りになって広がっているのだった。