完璧な先輩
第17話です。よろしくお願いします。
『林 杏里』が編入してきてから、早くも3日が過ぎた。響はいつも通り勉強に励み、いつも通りの学校生活を送っている。
「ねぇ、緋月くん」
「ん?」
難関クラスにほぼ満点で編入したとの噂も流れたが、この学級で他人のことを気にしているような余裕は持てない。とはいえ編入して3日後には、もう授業の苦しさを共有する仲間として、女子の輪に受け入れられていた。「今日、科学部あるの?」
「あぁ、科学部は毎日やってるよ。結構幽霊部員が多いから、なかなか全員揃わないけど」
「緋月くんは、今日行く? 科学部を見学したいんだけど、ちょっと行きにくくて」
「いいよ。一緒に行こうか」
「ありがとう!」
目を輝かすコヨーテに、響は軽く微笑む。「緋月くんと話しちゃったー」と、ちょっとおどけて言う杏里は、本当に、いたって普通の女子高生にしか見えないのだ。
気を許すな。勉強のときだけかけるメガネを指先でずり上げ、気を引き締める。敵かもしれない。そんな甘い気持ちで接した時点で、自分の負けだ。
緋月響。
黒羽高生の中で、最も気になった人物だった。
コヨーテは、まず黒羽高生を徹底的に調べた。名前、性格、顔、成績、趣味、その他個人情報。比較的優等生というべき人物が多い中、明らかに異彩を放っていた人物――それが、緋月響だった。
「うわっ! こんなやつ、ホントにいるんですね!」
……という、藍川の感想も理解できた。
成績優秀、眉目秀麗。人付き合いがよく、教師からの評価もよい。このあたりではトップ高の、支持率過去最高の生徒会長。所属している科学部では、研究発表の化学部門で最優秀賞を取っている。さらに入学以来3年間、定期考査では不動の1位。
「気になるなぁ、この人」
「お。恋ですか!?」
「違う」
ここまで完璧な人間には、誰もが裏があると疑うものだ。その疑惑をかいくぐり、彼はいたって健全な人付き合いをしている。
「事件に関係あるかも」
「……それは、いわゆる女の勘ってやつですか?」
「いいえ」
外した音楽プレーヤーのイヤホンから、アップテンポの曲が流れてくる。手に取ったポッキーを、10秒ほど指揮でもするように振ってから、パキッと音を立てて歯で折った。「探偵の勘です」
……回想終了。すでに習得済みの授業内容を適当に聞き流しながら、コヨーテは襲い来る睡魔と必死に戦う。事件の被害者と黒羽高生のデータに目を通す作業に忙しく、3日間全く寝ていない。
「林! 聞いてるか!」
「は、はい」
「1段落、全部訳してみろ」
「はい」
十何年か慣れ親しんだ英単語の羅列。回らない頭を無理やり回し、予習もしていない文章を全て訳していく。「――つまりそれこそが、私たちが解決すべき問題なのだ」
「……座れ」
面白くなさそうな顔。ある意味母国語なのだから、間違えることを期待されても困る。
座るとき、緋月響と目があった。爽やかな微笑を向ける響に、コヨーテは微笑み返した。
「次回は次の段落から入る。予習しておくように」
今日は少し睡眠を取ろうか。推理には適度な推理も必要だ。学級委員の号令に、動かない身体を無理やり動かして……。「林さん、大丈夫? ずいぶん疲れてるみたいだけど」
「あ……緋月くん」
「ホームルーム中も寝てただろ。そんなに無理しなくても、授業には着いていけるよ」
「緋月くんは頭いいからね」
「はは、林さんこそ。さっきの訳、予習してなかっただろ」
「前の学校では、そんなことする必要が全然なかったから……。いきなり当てられて焦っちゃった」
「それでも答えられるのはすごいよ。……あ、科学部室、行く?」
「うん、行く行く!」
響に近付いて、少しでも『緋月響』という人間を理解すること。今はそれが最重要課題だ。
「科学部員はどんな人がいるの?」
「ほとんどが林さんの知らないやつだと思うよ。あ、三原ってわかる?」
「同じクラスの、あの三原さん?」
「そうそう。彼女も科学部」
三原綾子。2日前に頭に叩き込んだその名前を、データと共に頭から引っ張り出す。
この学校の副生徒会長。成績はそこそこ、容姿は中の上くらい。緋月に最も近い女子、ともいえるかもしれない。「ここだよ。第2科学室」
建て付けが微妙に悪い戸を開けると、コーヒーの匂いが鼻腔をくすぐった。室内にいるのは、1年生らしき男子1人。
「……ちわッス」
「宝、またコーヒー飲んでただろ。バレバレだよ」
「どうせ顧問にバレても、あの爺さんならうるさく言いませんからね。……彼女さんッスか?」
白衣を着崩した少年が、白いマグカップに口をつける。「クラスメートさ。――あぁ、林さん。彼は、宝 穂積。1年生だよ」
「私は林杏里。よろしくね、宝くん」
「……ッス」
ちょっと頭を下げただけで、後はコーヒーに夢中だ。ちょっと人を小馬鹿にしたような、格好をつけたような言動が様になっているのは、その器量ゆえだろうか。
「林さん、気にしないで。こいつ、いっつもこうだから」
「こう、って何スか。……彼女さん、チョコクッキー食べますか」
「え、あるの?」
「違反ッスけどね。教師たちも、こんな細かいとこまではチェックしないんスよ。電気ポットは、俺が入部したときからあったし」
「最初はインスタントコーヒーの粉だけだったんだけどね。それから、こいつがティーバッグとか、甘いものとか持ってきて。クールそうな顔して、甘党なんだよ」
「先輩は一言余計ッスよ」
クスクスと笑う宝と響。至っていい先輩。これは、なかなか化けの皮が厚そうだ。
……使い方、間違ってないかな。覚えたばかりの慣用句の使い方を、頭の中で確認した。