不思議
第15話です。よろしくお願いします。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん! これ教えて!」
「どれ?」
「これ。かっこの3番」
琴美の苦手な平面図形。響はテキストの余白に、サラサラといくつかの数式を書いた。「こないだの問題と、基本的な考え方は同じだよ」
「え、なんで? だって、こないだの問題は全然違う形だったのに」
「違う違う。だからこれは――」
「ヘロン」
リビングのテーブルに頭を寄せて勉強する2人の手元に影が落ちる。琴美が顔を上げると、霧崎は無表情のまま続けた。「ヘロンの公式って知ってるか」
「ううん、知らない。それ、何なの?」
小首を傾げる琴美の視線を受け、霧崎は静かに講義を始める。すっかり緋月家になじんだ居候に、琴美はすっかりなついてしまった。「式に当てはめるために、この長さを求める。こことここと、この三辺で解ける」
「あれ? え、あ、ホントだっ!? ありがとう、霧崎さん!」
驚きながらも、新しく習った公式を繰り返して書く琴美。そろそろ受験に本格的に取り組む時期だ。「公式は書いて覚えるな。実際に使って覚えろ」
兄が2人できたようで、嬉しいのだろうか。注意されたのにも関わらず、琴美は上機嫌だった。
「さぁ3人とも、そろそろご飯よ。片付けてちょうだい」
「はぁい、お母さん」
「霧崎さんも手伝ってくれる? お皿はそこの戸棚だから……」
うんともすんとも言わず、ただ立ち上がる霧崎に、和子は嫌な顔1つしない。人情味あふれるその性格に、響は内心だけで感謝した。
響の頭を悩ましたのは、2人の連絡手段だった。
電話、メール、手紙。
手紙はもちろんメールも、証拠となるものが残ってしまう。しかし殺人計画には、正確な日時と時間の打ち合わせがいる。
喫茶店などで話し合ったとしても、どこで誰に聞かれているか、わかったものではないのだ。できれば、1回目のときのように自室で計画を立てたい。
考え抜いた末、響はある種賭けのような行動に出た。
「母さん、霧崎のことだけど」
夜遅く、皿洗いをしていた和子に、響は真剣な顔をして話しかけた。「どうしたの?」
「大事な話があるんだ。それが終わったら、座ってよ」
響も椅子を引き、腰掛ける。いつもと様子がまるで違う響に、和子は不思議そうな顔をしてから、手早く台所を片して響の正面に腰掛けた。
「珍しいわね。響がそんな怖い顔するなんて」
「大事な話なんだ」
「はいはい、何かしら」
響がフッと悲しげな顔になり、うつむく。普段から強気な響がうつむくことは、めったにない。そのことを十分知っている和子は、思わず表情を曇らせた。
「霧崎の奴だけど。――あいつ今、親いないんだ」
「え?」
「こないだ偶然図書館で会ったんだ。一応クラスメートだったし、色々話してたら――親に捨てられたって言ってた」
「本当なの?」
「あいつも、もう高校生だし自炊はできてるらしい。それに、本人は寂しくないって言ってたけどさ。……僕には、母さんや父さんに、琴美もいる。でも、あいつには誰もいないんだ。
ある日いきなり親がいなくなるなんて……。あいつと話したのは、確かに、こないだが初めてだよ。だけどなんか……ほっとけないだろ……?」
「響」
細い響の髪を、和子が梳いた。自分の知らぬ間にずいぶんたくましくなった身体を、そっと抱き寄せる。耳元で聞こえる息子の嗚咽が、和子の胸を打った。「いいわ。いつまで置いてあげられるかわからないけど、できる限り霧崎さんの面倒は見てあげる」
「母さん……?」
大丈夫よ。
そう言った和子の笑みは、昔と何も変わらず、響を安心させるものだった。
それがおそらく3日ほど前のこと。霧崎はだいぶ緋月家になじんできた。おかげで2人は何も心配せずに、殺人計画を立てることができた。
和子には、決して誰にも口外しないように言っておいた。――もちろん、琴美と父親にも。
「皿、これでいいですか」
「ありがとう。ほら、響たちも早く手伝いなさい」
「はーい。――ねぇ、霧崎さん。後で4番も教えて!」
「あぁ」
「何だ、琴美。僕はもうお払い箱か?」
「お兄ちゃんより、霧崎さんの方が優しいもん。こないだお兄ちゃんがいないときね、ポッキーもらっちゃった」
えへへ、と、いたずらっぽく笑う琴美につられ、響と霧崎も思わず笑ってしまう。
あぁ、不思議だ。自分たちは殺人犯なのに。今世間を騒がせている、クラッシャーなのに。こんなにも楽しそうに、自然に笑っている。この幸せな家庭の中で。
「今日は豚キムチチャーハンよ。おかわりはたくさん作ったからね」
「やったぁ! お母さん、私おかわりするからね!」
「お前、もう中3だろ? まったく、色気より食い気か……」
「もう、お兄ちゃんうるさい!」
「ほらほら。2人とも、やめなさい。はい、いただきます」
『いただきます!』
できたてでアツアツのチャーハンを、それぞれが頬張る。熱い、辛い、おいしい。それぞれの感想が、食卓を飛び交う。
この幸せな家庭の中には、確かにある。自分たち殺人犯の居場所が。
あぁ、不思議だ。