破壊
アストラントでの死闘から数千年、人間界でいえば千数百年が流れた頃───。
生と死の狭間に存在する異界・アストラントより、守霊たちは人間界へと降り立った。だが、彼らはそのままの姿ではない。魔詛を一切消費しない人間の体へと換装し、死界の侵攻がこの世界に及ぶ前に、彼らに最適の契約者を探さねばならなかった。
魔詛の供給なしでは、いずれ消滅する運命にある。
それは、彼らにとって命そのものと言っていいほどに重要なことだった。
守霊たちは人口約5万7000の都市・若浦市へと散らばり、自らの力を最大限に引き出せる者を探す。港の方へ往く者、中心街へ往く者、山間部に往く者。どこへ行って契約者を見つけるかはその守霊次第である。
この街のどこかに自らと契約し、共に戦うに足る「才能ある者」がいるはずだと、彼らは確信していた。
* * *
更にそこから時は流れ、2005年冬。雪が降る曇った空に覆われた日だった。
街路樹はうっすらと雪化粧を纏い、歩道には踏み固められた雪がまだら模様を描いている。
都市の一角、住宅が立ち並ぶこの場所のとある一軒家。表札には筆書きで立派な久保江の文字が書かれてある。その家から一人の男が出てきた。まだ20代中頃のような凛々しいようで素っ気ない顔つきの男で、灰色のコートに身を包んでいる。
「……寒いな」
嫌気が差すほどの寒さ。男は自分の手に息を吹き掛けて、それを摩って手が凍らないようにする。
家の外の寒さを実感して直ぐに眠そうに欠伸をする。どこか頼りなさそうな雰囲気を纏っている、いかにもそういう感じな人間である。
彼の足元で雪が軋む音が響く。それに混じって窓を開いた手で叩く音が聞こえた。ちらりと振り返ると、家の窓にはまだ幼さの残る少女の姿があった。男は幼女に向かって手を振ると、そのまま門をくぐって道路へ出る。
昨日の夜からチラホラと雪が降り続けたせいか、道路は一面雪だらけ。
「什造、如何した?元気がないようだが」
脳内に聞き馴染みのある声が響いてくる。マンガやアニメでよく見られるテレパシーというものだ。そしてその発信源は、彼の背後にいて、それは黒スーツに身を包んだ男である。
「義輝か。雪がこうも振ると電車が止まらないか心配でな」
「この程度では止まらんだろう。越後や奥陸奥はこれよりも酷い雪であるぞ」
「ドカ雪の場所と比べりゃイカンでしょ…」
義輝が口を一切開かず、什造が一人で声を出すという奇妙な会話が続く。
冬の朝の街並みは、まだ静けさを保っている。遠くで除雪車の音が響き、すれ違う人々は肩をすくめながら足早に歩いていく。そんな中、什造はふと、雪を踏みしめながら呟いた。彼が義輝と呼ぶそれは「確かにそうでもあるな」と返したっきり黙り込んだ。数秒の沈黙の後に什造は言った。
「死界が大規模侵攻を始めるのはいつ頃になりそうだ?」
「早く見て今日か明日、遅くとも1週間以内には起こりうる。その際、この場所に住まう者が大勢死ぬことも覚悟なされよ。既に什造含め、40人の契約者が居るようであるが、我が実力を知るのは什造のみよ」
「そりゃ困ったな。40人いて知ってるのは俺だけとかどうなってんだよ守霊のネットワークは……ホーレンソーくらいしっかりしてくれないと困るぜこっちも」
「魔詛による妨害を受けているのだ、こればかりはやむを得まい」
什造はポケットに手を突っ込みながら、ぶつぶつと文句を言う。守霊や契約者同士の連携が取れていないことへの苛立ちやこの状況で誰がどう動くのか分からない不安感が募っていた。
一人で道端を歩きながら何かを呟いている男。そしてその後を付けるスーツ姿の男。
他人から見れば、完全に「変なヤツ」だった。しかもそれが家の中ではなく外なのだから、尚更である。
角を曲がり、人通りの多い大通りからそれた道。近くに大通りがあるとは思えないほどの静寂さ。サスペンスドラマでよくある夜に人が殺されるような感じの道というのが正しいほどに薄暗く、周りは寂れた壁の建物が立ち並んでいた。
「どうしても戦わないといけないのか?」
「什造と我の間で交した契約であろう。嫌ならば破棄もできるがその際は…」
「仕事が終わったら帰って休みたい」
「戯け者め。それで死界の侵攻が始まればどう対応すると言うのだ」
「義輝に任せる」
義輝は「まったく自由人な奴よ」と言う。それに義輝は間髪入れずに続けた。
「戦いから逃げることはするでない。ましてや、この地には娘がいるであろう?」
什造の顔から笑みが消える。
「…分かってるよ」
ポケットの中の手が、無意識に拳を握る。寒さのせいじゃない。
「分かってるさ」
もう一度、言い聞かせるように呟く。
分かっている。
自分には、戦う理由があることも。
その理由のために、どれほど無様に足掻こうと、最後までやらなきゃいけないことも。なのに。
それでも、心のどこかで「逃げられたら」と思ってしまうのが、なんとも情けない話だった。
ギチギチの満員電車の中で揺られ、熱の篭ったバスに揺られ、ビル群にある仕事場へ着いた。中へ入り、押し込まれるようにエレベーターの中に入って、仕事場である13階に向かう。チン、と機械音とアナログのベルの音の中間のような音がしてドアが開いた。
「おはようございます」
少し眠そうに挨拶した什造は、久保江什造の名が入ったタイムカードを切り、自分の仕事机へと向かう。
「おはよう、久保江くん。今日も寒いねぇ」
「えぇ、こんなに雪が降ると電車が止まらないか心配で…」
「いつもより20分早く来れたんだし良いじゃないか」
「そうですね」
上司とのありきたりな会話。
温かいコーヒーの香り。
同僚のタイピング音と、遠くで鳴る電話のコール音。
こんなものが、当たり前のように続くはずだった。変わらないはずの日常。
守霊なんていなければ、死界の侵攻なんてなければ、ただの退屈な冬の一日だったはず。
だからこそ——守霊と出会う前と変わらない日常を仕事中は演じていた。
「昨夜9時頃、若浦市の住宅地に何者かが押し入り、この家に住む50代の夫婦が殺害される事件が起こりました。警察によりますと────」
オフィスとは仕切られた休憩室のテレビから、かすかに聞こえるニュース。タイピングの音に紛れて流れていくニュースは、ただの雑音のようだった。それを耳にした同僚の笠原が言う。
「最近物騒な事件多いよなぁ。什造の所のレイちゃんは大丈夫なのか?」
隣の席の笠原が、画面に目をやりながら呟く。その声は普段と変わらない明るめなトーンでありながらも、確実に久保江一家を心配している。同僚にこんないい人がいて、その人と巡り会えたことは神さま仏さまへ毎日感謝してもし足りないくらいだった。
「…まぁ、何かあった時のことは考えてるさ。常に妻がいるし、何かあれば近所の葦高先輩の家へ避難するように言ってある」
ありきたりな日常の延長のような会話。
でも、知っている。この事件は単なる物騒な出来事なんかじゃないことを。しかし、それを安易に言うことは信じて貰えないか大きな混乱を招くか。その結末も神のみぞ知る。
(ここは保守的に、何も知らないフリでいこう)
什造はそう心の内で決めた。ヘタに混乱させたり信用を失うくらいならそっちの方が遥かにマシだ。今はただ静観するしかない。事が起こった時に対処すればいい——そう考えていた。
とりあえず、今日こなすべき仕事に向き合うために自分の机に向かう。今日もパソコンと午前4時間、午後6時間、合計10時間のにらめっこだ。
パソコン画面を想像しただけで目がすでに目が乾いてくる気がする。什造は深いため息をつきながら、げんなりと椅子に腰を下ろした。
* * *
オフィスではひっきりなしに鳴る着信音にコピーを取る音、タイピング音と機械音に混ざって紙をめくる音、ホチキスの音が混ざっている。その忙しさは見なくとも聞くだけでよくわかる。会社の年間売上やれ前年比との比較やれ、洗いざらい引っ張ってこないといけないこの大変さはもう何度目だろうか。
あまりの忙しさに時間を忘れ、お昼まで時間が飛んだかのようにも思えた。
什造はスーツの上にコートを羽織ると「昼休憩入りまーす」と言って呑気にエレベーターの方へとオフィスを出ていった。1階に降りて外に出る。外は相変わらず寒く、体の芯まで冷えそうだ。
「什造。ここ数時間で魔詛が大きくなってきている、恐らくは───」
義輝の言葉を聞いて嫌な予感が脳裏を過ぎる。暑くもないのに汗が一滴流れた。
その嫌な予感は数秒後、現実のものとなる。
突然、カラスの群れがカーカーと鳴きながら羽ばたくや否や什造の後ろのビルの看板が落ちてきた。
「うおっと危ねっ!」
什造は咄嗟に身を全身に投げるように飛んで間一髪、下敷きになる事は避けられた。
「なになに?」
「やだ定年劣化?」
周囲にいた人々が集まってくる。幸い、下敷きになった人は誰一人としていないようだが破片で負傷した人が数名居たようだ。什造がケガをした若者に駆け寄ろうとしたその時。
「什造、上だ!」
義輝が急速な魔詛の増加を感知し什造に伝える。什造は身を捻って上から落ちてくる何かをかわす。が、その変わりに近くにいた一人が落ちてきたモノに貫かれて死んだ。
「キャー!」
女性の悲鳴が引き金となり、周辺は一気にパニック状態に陥った。人々があちこちへと走り出し、辺りは騒然。市民たちの叫び声がビルの谷間にこだまする。
「鉄パイプ…!?」
什造が上を見上げると空には常闇の虚空が開き、その中から得体の知れない物体が降ってきている。だが降ってくるソレらは什造にとっては馴染みのある者たちだった。よく目を凝らして見ると、骸骨兵に蘇死者、死霊に突然変異種——どれも什造が飽きるほど相手した、彼の会いたくもないオ|ト《・》モ《・》ダチと言っていい連中たち。若浦市の中心地で姿を見せたということは、つまりそういうことなのだろう。
悲鳴をあげてパニックに陥る群衆を押しのけて什造はオフィスに戻っていった。




