第8章 王都への道と、商人の罠
旅というのは、本来ロマンチックなものだと言われる。 吟遊詩人の歌では、美しい景色、新たな出会い、冒険の興奮が語られる。 だが現実は、足の豆、虫刺され、そして野宿の硬い地面との戦いだ。
「あー、疲れた。もう歩けん」
村を出て三日目。私は街道沿いの草むらに大の字になっていた。 体力がないわけではない。『気』で身体強化しているので、無限に歩けるはずだ。 だが、精神的な「めんどくさいゲージ」が限界を突破していた。
「師匠、まだ昼前ですよ! 次の宿場町まであと少しです!」 セシリアが地図を見ながら励ましてくる。彼女の体力は底なしだ。 「師匠、お茶が入りました。疲れに効く薬草入りです」 リウスが魔法で沸かしたお湯でお茶を差し出してくれる。便利だ。やはり連れてきて正解だった。
私たちは、帝国の包囲網を抜けるため、あえて街道を外れ、隣国との国境地帯にある中立都市『交易都市ゼ・ル』を目指していた。 そこなら、帝国の軍隊もおいそれとは手出しできないし、物資も豊富だ。何より、美味しい飯があるらしい。
「よし、リウス。私を『浮遊』させろ」 「ええっ!? 人間一人を浮かせるなんて、まだ無理ですよ!」 「できる。お前は空気そのものになれ。風に乗る塵になれば、重さは消える」 「む、無茶言わないでください……!」
そんな無駄話をしながら、私たちは街道を進んでいた。 その時、前方から馬車の車列が見えた。 豪奢な装飾が施された商人の隊列だ。 だが、様子がおかしい。 車列が止まっており、怒号が飛び交っている。
「盗賊か?」 セシリアが警戒して剣の柄に手をかける。
近づいてみると、そうではなかった。 車輪が泥にはまり、動けなくなっているのだ。 そして、その周りで商人の護衛たちと、道を通せんぼしている柄の悪い集団が揉めている。
「通行料を払えと言っているんだ! ここは俺たちの縄張りだぞ!」 「馬鹿な! ここは公道だ! 貴様らのようなゴロツキに払う金はない!」
よくあるトラブルだ。 関わりたくない。迂回しよう。 そう思ったが、商人の馬車から一人の少女が顔を出したのを見て、私は足を止めた。 人間ではない。 長い耳。金色の瞳。 エルフだ。 しかも、首には太い鉄の首輪が嵌められている。 奴隷商人の馬車か。
「……師匠」 セシリアの声が低くなる。彼女の正義感が反応している音だ。 「見過ごせません。奴隷狩りは国際法で禁止されているはずです」
「法など、力の前では無力だ」 私は言った。 だが、私の視線はエルフの少女ではなく、その隣の荷台に積まれた木箱に釘付けになっていた。 そこから漂う、芳醇で、香ばしく、少し甘い香り。 間違いない。 あれは「醤油」だ。 あるいは、それに極めて近い、東方の大豆発酵調味料の匂いだ。
異世界に来て数ヶ月。味気ない塩味とハーブだけの食事に飽き飽きしていた私の舌が、強烈な郷愁と共に叫び声を上げた。 『あれが欲しい』
食欲。 老子は欲を捨てろと言ったが、食は生の根源だ。 これを無視するのは不自然だ。
「……助けるぞ」 「はいっ! ……え? 師匠が?」 「あの馬車を救う。いや、あの木箱を救う」
私はスタスタと歩み寄った。 ゴロツキたちが私に気づく。 「あぁ? なんだお前は。痛い目にあいたくなけりゃ……」
「どけ」
私は一言だけ発した。 同時に、足元の地面を軽く踏む。 『地』の気を操作する。 ゴロツキたちが立っている地面が、液状化現象のように泥沼と化した。
「うわっ! 足が!」 「沈む! 助けてくれ!」
腰まで泥に埋まり、身動きが取れなくなる男たち。 私は彼らの間を通り抜け、商人の馬車の前へ出た。 商人は、脂ぎった顔で私を見た。
「あ、ありがとう! 助かったよ! お礼は弾む! 金貨か? それとも……」
「その箱だ」 私は迷わず醤油の樽を指差した。
「え? これ? これは東方の『黒い塩水』だが……そんなものでいいのか?」 「それがいい。それ『で』いいんじゃない。それ『が』いいんだ」
商人は呆気にとられていたが、すぐに商魂を取り戻し、笑顔で樽を差し出した。 ついでに、と言わんばかりにエルフの少女も押し付けてきた。
「実はこの商品、ちょっと『訳あり』でね。持っていると検問がうるさいんだ。助けた礼に、引き取ってくれ」
厄介ごとの予感がプンプンする。 だが、醤油のためだ。 私はエルフの少女と、醤油樽を手に入れた。
少女は怯えた目で私を見上げている。 「……た、食べるつもり?」
「ああ、食べるぞ」 私は樽を撫でながら言った。 「卵かけご飯があれば、最高なんだがな」
少女の顔が恐怖で引きつる。 どうやら盛大な誤解をしているようだが、解くのも面倒だ。 とりあえず、今夜の夕食は豪勢になりそうだ。
しかし、この醤油とエルフが、後に私を大陸全土を巻き込む経済戦争へと引きずり込むトリガーになるとは、この時の私はまだ、知る由もなかった。 私の食欲もまた、世界を動かすバタフライ・エフェクトの一部だったのだ。




