第7章 知足と、旅立ちの朝
季節が一つ巡った。 森は秋の色を深め、落ち葉が黄金の絨毯を敷き詰めていた。 私の生活は、奇妙な安定を見せていた。
セシリアが狩りをして、リウスが火をおこし、私が食べる。 セシリアが剣を振り、リウスが魔法の練習をし、私が昼寝をする。 完璧な分業体制(私は何もしていないが)だ。
しかし、世界は私の昼寝を許さない。 『天網恢恢、疎にして漏らさず』 天の網は粗いようでいて、悪を見逃さない。 逆に言えば、因果の網からは誰も逃れられないということだ。
その知らせを持ってきたのは、一羽の伝書鳩ではなく、傷だらけの斥候だった。 セシリアの元部下が、命からがら森に逃げ込んできたのだ。
「せ、セシリア様……! 帝国が……帝国正規軍が、動き出しました!」
男の報告は絶望的なものだった。 バロン男爵の失態を知った帝国本国が、この地を「反乱分子の巣窟」と認定。 一個師団、約五千の兵力を派遣したという。 指揮官は、「氷の将軍」と呼ばれる冷徹な男、ヴォルフガング。 彼は焦土作戦を得意とし、通った後には草一本残らないと言われている。
「五千……」 セシリアの顔色が蒼白になる。 村の自警団と傭兵くずれを合わせても、百人もいない。 丸太の迷路など、重魔導兵器の前では爪楊枝も同然だ。
「師匠! どうすれば……!」 セシリアが私にすがる。 リウスも震えている。
私は黙って、干し肉を噛みちぎった。 味気ない。 戦えば、勝てるかもしれない。 私には『道』がある。地形を変え、天候を操れば、五千の軍勢とも渡り合えるだろう。 だが、その代償は何か。 この森が戦場になる。 血が流れ、死体が積み上がり、怨嗟の声が響き渡る。 私の愛した静寂は、二度と戻らない。
『知止(止まるを知る)』 功成り名遂げて身退くは、天の道なり。 ここに留まることは、執着だ。 執着は苦しみを生む。 私がここにいるから、帝国はここを狙うのだ。 「謎の賢者」という不確定要素を排除するために。
ならば、答えは一つだ。
「出るぞ」
私は立ち上がった。
「えっ? 迎撃に出るのですか?」 セシリアが剣を手に取る。
「違う。引っ越しだ」
「は?」
二人が呆気にとられる。 私は小屋に戻り、わずかな荷物(着替え一枚と、気に入っていた茶器一つ)を布に包んだ。
「私がここにいれば、村は燃やされる。だが、私が逃げれば、奴らの標的は私に移る」 「で、ですが! 村の人々はどうなるのですか!」
「村長には伝えてある。『あの詐欺師に騙されていただけだ』と証言しろとな。男爵への賄賂(以前奪った財宝の一部)も渡してある。村は助かる」
「そんな……師匠は、悪名を被って逃げるというのですか!?」
セシリアが涙を溜めて抗議する。 彼女には、自己犠牲の美学に見えるのだろう。 違う。 私は単に、自分の庭で騒がれるのが嫌なだけだ。 そして、これ以上ここで暮らすのは「面倒」になった。 潮時なのだ。
「行くぞ。ついてくるなら勝手にしろ。ついてこないなら、それもまた自然だ」
私は振り返らずに歩き出した。 森の出口。 村人たちが遠くから私を見ている。 感謝と、不安と、そして少しの申し訳なさが入り混じった視線。 私は手を振ることもなく、ただ背中を丸めて歩いた。 英雄ではない。ただの隠者だ。
背後で、二つの足音が聞こえた。 重いブーツの音と、自信なさげなサンダルの音。
「師匠! 荷物持ちはお任せください!」 「僕も……僕も行きます! まだ魔法の極意を聞いてませんから!」
やれやれ。 結局、一人には戻れないらしい。 だが、悪くない気分だった。 旅は、流れだ。 川が海へ向かうように、私たちもまた、大きな運命の渦へと流れていく。
「……次は、温泉のある場所がいいな」
私の呟きは、秋の風に溶けて消えた。 こうして、社畜学者の無為なる国救いの旅は、本格的な幕を開けたのだった。




