第6章 無用之用と、落ちこぼれの少年
ある日、川の上流から奇妙なものが流れてきた。 桃ではない。 少年だ。
正確には、半分溺れかけながら、必死に流木にしがみついている小柄な人間だった。 私は釣りをしていた(針はつけていない。糸を垂らしてボケーっとするだけの行為だ)。 目の前を通過しようとする少年と目が合った。
「た、たす……!」
ごぼごぼと沈んでいく。 見なかったことにする、という選択肢が脳裏をよぎる。 だが、死体が川を塞ぐと、水質が悪化する。それは私の生活環境への脅威だ。 私は仕方なく、持っていた竿の先端を彼の方へ差し出した。
「掴まれ」
少年は必死に竿を掴み、私はそれを引き上げた。 見た目よりも随分と軽い。栄養失調気味の身体と、サイズの合っていないボロボロのローブ。 その胸元には、帝国魔術アカデミーの紋章があったが、大きなバツ印が赤いペンキで塗られていた。
「けほっ、げほっ……! あ、ありがとう……ございます……」
少年は陸に上がると、震えながら礼を言った。 栗色の癖っ毛に、大きな眼鏡。怯えたような小動物のような瞳。 名を、リウスといった。
「僕は、才能がないんです」
焚き火で服を乾かしながら、リウスは語り始めた。 アカデミーの落ちこぼれ。 魔力はあるのに、魔法が発動しない。 呪文を唱えようとすると喉が詰まり、杖を振ると手元が狂う。 教師からは「欠陥品」と罵られ、同級生からは実験台にされ、耐えきれずに逃げ出してきたのだという。 そして追手から逃げるために川に飛び込んだと。
「才能がないなら、諦めればいい」 私は焼き魚を差し出した。 「無理なことはしない。それが一番だ」
「で、でも……僕は魔法使いになりたいんです。死んだ母さんとの約束で……」
リウスは悔しそうに唇を噛み、懐から一本の杖を取り出した。 歪んだ、安物の木の杖だ。 彼は立ち上がり、目の前の岩に向かって構えた。
「炎よ、我が敵を焦がせ……ファイアボール!」
杖の先端がカッと光る。 だが、次の瞬間、プスッという情けない音と共に黒煙が上がっただけだった。 リウスはガクリと膝をつく。
「……やっぱり、駄目だ」
「呼吸が止まっている」 私は言った。
「え?」
「お前は、魔法を使おうとする時、息を止めている。そして、体中の筋肉を強張らせている。それでは『気』が通らない」
前世の記憶にある、老子の言葉。 『無用之用』 一見役に立たないものが、実は本質的な役割を果たしている。 器は、中が空っぽだからこそ物を入れられる。部屋は、空間があるからこそ住める。 魔法も同じだ。魔力を詰め込むことばかり考えて、それを流すための「空間」を身体の中に作っていない。
「魔法とは、水だ」 私は手近な小石を拾った。 「握りしめれば、指の隙間からこぼれ落ちる。だが、掌を開いて受け止めれば、そこに留まる」
「掌を……開く……?」
「力を抜け。結果を求めるな。炎を出そうとするな。ただ、そこにある熱を感じろ」
リウスは戸惑いながらも、私の言葉に従った。 深呼吸をする。 肩の力が抜ける。 杖の先端が、微かに震える。
「……暖かい」
「そうだ。その暖かさを、ただ流せ」
彼が杖を振ったわけではない。 ただ、杖の先から、ぼうっと小さな灯りがともった。 攻撃的な火球ではない。蝋燭のような、優しく揺らめく炎。 だが、その炎はいつまでも消えず、周囲の空気を暖め続けた。
「で、できた……! 爆発せずに、維持できてる!」
リウスは涙目で私を見た。 「あ、あなた様は……一体?」
「通りすがりの隠居だ」
またこれだ。 私はため息をつく。 この少年、リウスの才能は「保持」と「制御」にあった。 攻撃魔法のような瞬間的な放出には向かないが、結界や環境維持のような持続的な魔法には、天才的な適性がある。 アカデミーの教育が、画一的な「火力重視」だったために、彼の器を見誤ったのだ。
「弟子にしてください!」 「断る」 「お願いします! 掃除でも洗濯でもなんでもします!」
「……洗濯は、ちょっと面倒だったな」
私の心の隙間に、悪魔が囁いた。 家事代行。それは社畜時代、喉から手が出るほど欲しかったサービスだ。 スローライフを維持するために、多少の手間(弟子の育成)をかけるのは、長期的には「コスパ」が良いのではないか?
私はリウスを見た。 彼は必死な顔で、しかしどこか期待に満ちた目で私を見ている。 『大器晩成』 大きな器は、完成するのに時間がかかる。 この未完の器を、少しだけ磨いてみるのも、暇つぶしには悪くないかもしれない。
「……衣食住は保証しない。私の邪魔もしない。それでいいなら、勝手にしろ」
「はいっ! 師匠!」
こうして、私の住処には、騎士崩れの少女に続き、落ちこぼれの魔術師が加わった。 森の人口密度が上がり、静寂が遠のいていく。 だが、不思議と不快ではなかった。 焚き火の爆ぜる音が、一人で聞いていた時よりも、少しだけ暖かく感じられたからだ。




