第5章 柔弱は剛強に勝つ
平和とは、単に争いがない状態を指すのではない。 それは心の持ちようであり、外部の騒音をいかにして「風景」の一部として聞き流すかという技術である。 しかし、その技術を極めようとする私の耳元で、建築資材となった木材が打ち付けられる轟音が響き続けているとしたら、話は別だ。
「師匠! 見てください! 防衛用の柵が完成しました!」
朝の光が差し込む森の開けた場所で、セシリアが汗を拭いながら満面の笑みを向けてきた。 彼女の背後には、不揃いな丸太を強引に組み合わせた、芸術的なまでに歪な壁がそびえ立っている。村人たちが総出で作った、対帝国用のバリケードだ。 私は寝転がっていたハンモック(蔦で作った天然のものだ)から、片目だけを開けてそれを見た。
「……醜いな」 「えっ」 「自然の調和を乱している。風が通る道を塞ぎ、獣の通り道を遮断している。あれでは、敵が来る前に強風で倒れるぞ」
私が指摘した直後、森を吹き抜けた一陣の風にあおられ、バリケードの一部がメリメリと音を立てて崩落した。 村人たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。
「ああっ! 三日かけて作ったのに!」 「やはり隠者様の言う通りだ……我々の浅知恵など、自然の前では無力なんだ!」
嘆く村人たち。 違う。単に基礎工事が杜撰で、重心が高すぎただけだ。物理の問題だ。 だが、彼らは勝手にそれを「神託」として受け取っている。
「師匠、どうすればよいのでしょうか。帝国軍が戻ってくるのは時間の問題です。我々には、守るための牙が必要なのです」
セシリアが食い下がる。彼女の瞳には、かつて国を守れなかった悔恨の火が燃えている。 私はため息をつき、ハンモックから降りた。 裸足で苔を踏む感触が、少しだけ苛立ちを鎮めてくれる。
「牙などいらん」 私は崩れた丸太の前まで歩いた。 「硬いものは折れる。強いものは砕ける。生き残るのは、いつだってしなやかなものだ」
『柔弱』 老子の教えの核心の一つ。 嵐が来たとき、巨木は折れるが、柳は風に身を任せて受け流すため折れない。 歯は硬いが、老いれば抜け落ちる。舌は柔らかいが、死ぬまで残る。
「柵を作るなら、こうしろ」
私は、倒れた丸太を一本、足で蹴った。 垂直に立てるのではない。斜めに、互い違いに組むのだ。 そして、あえて隙間を作る。 完全に塞ぐと、敵はそれを破壊しようとする。だが、隙間があれば、敵はそこを通ろうとする。 敵の動きを誘導し、こちらの有利な地形(例えば、足場が悪い沼地や、イバラの群生地)へ流し込むためのガイドライン。それが私の考える「防壁」だ。
「敵を止めようとするな。敵を流せ」
私が指示を出すと、村人たちは半信半疑ながらも丸太を組み直した。 出来上がったのは、壁というよりは、巨大な迷路のような障害物コースだった。
「これで……本当に守れるのですか?」 「やってみればわかる」
数日後、その機会は訪れた。 男爵が雇った傭兵団、約三十名。 彼らは復讐に燃え、怒号と共に村へ突撃してきた。 しかし、彼らは村にたどり着くことさえできなかった。
「な、なんだこの道は!」 「通り抜けられそうで、通り抜けられん!」
傭兵たちは、斜めに組まれた丸太の隙間に誘い込まれた。 鎧を着たままでは狭くて通れない。無理に通ろうとして装備が引っかかる。 焦って丸太を蹴れば、その反動で頭上の蔦が緩み、腐った木の実(強烈な悪臭を放つ)が降ってくる仕掛けが作動する。
「ぐわっ! くせぇ!」 「目が! 目がぁ!」
さらに、彼らが迂回しようとした先は、私が以前発見した「自然の水脈」の排出口だった。 地面がぬかるんでおり、重装備の彼らは次々と足を取られる。
私は木の上から、その様子を林檎を齧りながら眺めていた。 村人たちは矢の一本も放っていない。 ただ、傭兵たちが勝手に転び、勝手に臭くなり、勝手に疲弊して撤退していくのを呆然と見送っただけだ。
「……勝った」 「我々は、指一本触れずに勝ったぞ!」
歓声が上がる。 セシリアが木の下まで駆け寄り、キラキラした目で私を見上げた。
「師匠! これぞ『戦わずして勝つ』ですね! 孫子の兵法にも通じておられるとは!」 「いや、老子だ」
訂正しても無駄だった。 彼女の中で、私は「深遠なる兵法家」としての地位を確立してしまったらしい。 だが、私は知っていた。 傭兵程度ならこれでいい。しかし、帝国正規軍は違う。 彼らは「秩序」と「規律」という、最も自然から遠い論理で動くシステムだ。 システムに対抗するには、個人の知恵では限界がある。




