第4章 小国寡民の理想郷(のはずだった)
村での「奇跡」から一ヶ月。 私の住処である森の周辺は、様変わりしていた。
「隠者様、本日の貢ぎ物です。採れたての野菜と、川魚の燻製をお持ちしました」 「隠者様、私の息子が熱を出しまして……どうか、あのご加護を」 「隠者様、商売の相談に乗っていただきたく……」
人が増えた。 村人たちが、森の入り口に勝手に祠を建て、そこを拠点に私のところへ通うようになったのだ。 さらには、噂を聞きつけた近隣の難民までもが流れ込み、森の周辺に新たな集落ができ始めていた。
私は頭を抱えた。 『小国寡民』 国は小さく、民は少ないほうがいい。 文明の利器があっても使わず、死を重く見て遠くへ移住せず、鶏や犬の声が聞こえる距離にいながら、互いに行き来しない。 それが老子の説く理想郷だ。
なのに、現実はどうだ。 私の周りには、承認欲求と生存欲求に満ちた人間たちが群がっている。 しかも、彼らは私をリーダーとして仰ごうとする。
「俺たちの村長になってください!」 「いや、王となって、帝国から独立を!」
「断る!」 私は叫んだ。 「私は誰の上にも立たない。支配もしない。お前たちは勝手に生きろ」
「おお……なんと無欲な。やはりあのお方は聖人だ」 「支配を否定することで、真の王道を示しておられるのだ」
逆効果だった。 私の拒絶すら、彼らにとっては「高潔な徳」として解釈されてしまう。 セシリアに至っては、勝手に自警団を組織し、難民たちに剣術を教え始めていた。
「師匠の安眠を妨げる盗賊や魔獣は、私が排除します!」
彼女は善意の塊だ。だが、その善意が私の平穏を脅かしていることに気づいていない。 私は逃げ出したかった。 だが、ここを離れれば、また一から住処を探さねばならない。それはそれで面倒だ。
そんなある日、ついに「力」を持った来訪者が現れた。 煌びやかな馬車。武装した兵士たち。 降りてきたのは、でっぷりと太った男だった。 この地域を治める領主、バロン男爵だ。
「おい、そこの薄汚い男。貴様か、私の領民を惑わせている詐欺師は」
男爵はハンカチで鼻を押さえながら、私を見下ろした。 典型的な悪役だ。わかりやすくて助かる。
「惑わせてはいない。彼らが勝手に集まっているだけだ」 「口答えをするな! 貴様が違法に村を作り、税を納めていないことは明白だ。直ちにこの森を出ていけ。さもなくば、この騎士団が貴様を排除する!」
背後の兵士たちが剣を抜く。 セシリアが前に出ようとするのを、私は手で制した。 これはチャンスだ。 この男爵に追い出されれば、私は「仕方なく」ここを去ることができる。 村人たちの期待も、権力には勝てなかったという言い訳が立つ。
「わかった。出て行こう」
私はあっさりと立ち上がった。 男爵が拍子抜けした顔をする。村人たちが悲鳴を上げる。 「隠者様! 我々を見捨てるのですか!」
「流れに逆らうな。権力には従え。それが長生きの秘訣だ」
私は背を向け、森の奥へ歩き出そうとした。 その時だった。
「待て。ただ出て行くのでは済まさん。貴様が隠し持っている『宝』を置いていけ」
男爵が欲をかいた。 水脈を見つけたり、作物を豊作にしたりする力。それを「宝物」によるものだと勘違いしたのだ。
「そんなものはない」 「嘘をつくな! 身体検査だ! おい、その男を捕らえて服を剥げ!」
兵士たちが私に殺到する。 ため息が出た。 引こうとしたのに。譲ろうとしたのに。 『知足(足るを知る)』 男爵が今の地位と権力で満足していれば、私は大人しく消えたのに。 彼の過剰な欲望が、彼自身を破滅させる。
「触るな」
私は兵士の手を避けない。 兵士が私の腕を掴もうとした瞬間、私はその腕の「流れ」に同調した。 彼が引けば、私はそれ以上に近づく。彼が押せば、私はそれ以上に離れる。 掴みどころがない。 兵士はバランスを崩し、私の周りをクルクルと回るだけだ。
「ええい、何をしている! 斬り捨てろ!」
男爵が叫ぶ。 一人の騎士が、本気で剣を振り下ろした。 私は動かない。 ただ、足元の小さな石を、爪先で軽く蹴った。 石は転がり、騎士が踏み込む足の裏に滑り込む。
カクン。 騎士の足首がグニャリと曲がる。 体勢が崩れ、振り下ろされた剣は、あろうことか男爵の乗ってきた馬車の車輪を直撃した。
ガシャアアン! 車輪が砕け、豪華な馬車が傾く。 中に積まれていた金貨や宝石の箱がひっくり返り、地面に散乱した。
「ああっ! 私の財産が!」
男爵が悲鳴を上げて駆け寄る。 だが、傾いた馬車は止まらない。そのままゆっくりと倒れ込み――男爵を押しつぶす……寸前で、泥沼にはまって止まった。 男爵は泥まみれになり、腰まで沼に沈んでいた。
「……禍は福のよりどころ」
私は呟いた。 兵士たちは戦意を喪失している。彼らの主人は泥だらけで、威厳も何もない。 村人たちは、その滑稽な姿を見て、堪えきれずに笑い出した。 一度笑われてしまえば、権威は失墜する。恐怖による支配は終わる。
「……覚えておれ! 帝国軍に報告して、貴様らなど皆殺しにしてやる!」
男爵は捨て台詞を吐いて、壊れた馬車と共に去っていった。 残されたのは、勝利に沸く村人たちと、頭を抱える私。
「師匠! やはりあなたは凄いです!」 セシリアが目を輝かせる。 「これで帝国との対立は決定的になりましたね! いよいよ、国直しの時です!」
違う。そうじゃない。 私はただ、静かに暮らしたいだけなのに。 どうしてこう、世界は私を放っておいてくれないのか。
森の風が、少し冷たく感じられた。 それは、時代の変わり目を告げる風だったのかもしれない。 だが今の私には、ただの面倒事の予兆にしか思えなかった。




