第3章 和光同塵と、押しかけ同居人
姫君――名をセシリアというその少女は、帰らなかった。 正確には、帰る場所がなかったのだ。 彼女の祖国は隣接する帝国によって侵攻され、王族は彼女を残して皆殺しにされたらしい。 典型的な亡国の悲劇。 だが、私にとっての問題は、彼女が私の「住処」である大樹の根元に居座ってしまったことだ。
「師匠! 朝の鍛錬が終わりました!」
翌朝、元気な声で起こされた。 目を開けると、ボロボロだった鎧を脱ぎ、下着同然のシャツとズボン姿になったセシリアが、朝露に濡れながら立っていた。 傷は一晩で塞がっていた。この森の瘴気なき清浄な空気と、私が無意識に放出している「気」の影響だろう。
「……誰が師匠だ」 「私の命を救い、剣を使わずして敵を退けたその奥義。魔法とも剣技とも違う、あの理外の力。どうかご教授願いたいのです!」
真っ直ぐな瞳だ。 あまりに眩しすぎて、直視すると目が焼かれそうだ。 こういう「熱血」で「努力家」なタイプは、前世の私が最も苦手とする人種だった。 なぜなら、彼らは「頑張れば報われる」と信じているからだ。 そして、報われなかった時に深く傷つく。
「断る」 私は即答した。 「私は何も教えていないし、教えることもない。昨日はただ、彼らが勝手に転んだだけだ」 「ご謙遜を! あの足捌き、呼吸、そして自然と一体化するような立ち振る舞い……。あれこそが極意とお見受けします!」
話が通じない。 彼女は自分の見たいように世界を見ている。 私はあくびをして、木の実を齧った。 セシリアは、私が食事を始めると、遠慮がちに、しかし切実な視線を木の実に向けてきた。お腹が鳴る音が聞こえる。
「……食うか?」 「い、いえ! 師匠の食料を奪うわけには……!」 「そこら中に落ちてるぞ」
私は指差した。 彼女の足元にも、完熟した果実がいくつも落ちている。 彼女は驚いて周囲を見渡し、一つ拾って恐る恐る口にした。
「……甘い! こんなに美味しい果物は、王宮でも食べたことがありません!」 「そうか。それは良かったな」
彼女が食べている間に、私は二度寝を決め込もうとした。 しかし、彼女の質問攻めがそれを許さなかった。
「師匠、この森には魔獣が出ると聞きましたが、なぜ襲われないのですか?」 「敵意がないからだ」 「敵意がないだけで、獣が襲ってこないなんて……」 「お前は、道端の石ころに噛みつくか?」 「いえ、噛みつきませんが」 「それと同じだ」
『和光同塵』 光を和らげ、塵に交わる。 才智を隠し、俗世に同化する。 私は気配を消しているのではない。森という環境の「塵」の一つになりきっているのだ。だから、肉食獣ですら私を餌として認識しない。認識するのは、せいぜい「ちょっと座り心地のいい障害物」程度だ。
セシリアは納得していない顔だったが、それ以上は聞かなかった。 その代わり、彼女は勝手に行動を開始した。 壊れた小屋の跡地(かつて誰かが住んでいたらしい廃墟)を見つけ、修繕を始めたのだ。 木を切り、蔓で縛り、屋根を葺く。 その手際は悪かった。王族育ちだから当然だ。 見ていられないほど非効率的だ。
「……そこは、そうじゃない」
つい、口を出してしまった。 元学者の悪い癖だ。論理的な破綻を見ると修正したくなる。
「木の枝は、重力に従って組め。無理に縛るな。互いの重みで支え合うように置けば、自然と安定する」 「こ、こうですか?」 「違う。もっと力を抜け。木の声を聞けとは言わないが、木の形を見ろ。曲がっているなら、曲がったまま使え。直そうとするな」
『無為』とは、何もしないことではない。 不自然な作為をしないことだ。 木の性質に従い、重力の法則に従えば、最小限の労力で堅牢な構造物が作れる。 私の指示通りにセシリアが木を組むと、驚くほど簡単に骨組みが出来上がった。
「す、すごいです師匠! 魔法を使っていないのに、木が吸い付くようです!」 「物理法則だ。……もういい、私は寝る」
口を出したことを後悔しながら、私は再び定位置に戻った。 だが、これが間違いだった。 「少しのアドバイスで劇的に改善した」という成功体験が、彼女の私への信仰心を決定的なものにしてしまったのだ。
数日後。 森の入り口付近にある寒村から、村人たちがやってきた。 セシリアが食料調達のために村へ行き、私のことを話してしまったらしい。
「隠者様! どうか、我々の畑を見てくだせぇ!」
村長と思しき老人が、土下座せんばかりの勢いで頼み込んできた。 聞けば、今年の干ばつで作物が枯れかけ、疫病も流行っているという。 帝国の圧政で税も重く、このままでは村が全滅すると。
「知らん。よそへ行け」 私は追い払おうとした。 だが、セシリアが涙ながらに訴える。 「師匠、彼らには罪はありません! あなたの力があれば、救える命があります!」
「……命を救えば、また人口が増える。人口が増えれば食料が足りなくなる。食料を奪い合って争いが起きる。救うことが善とは限らん」 「それでも! 目の前で餓死する子供を見過ごすのが、あなたの言う『道』なのですか!」
痛いところを突く。 老子も、慈愛(慈)を三宝の一つとしている。 困っている人間を見捨てるのは、精神衛生上よろしくない。それは「わだかまり」として心に残り、静寂を阻害する。
「……わかった。見るだけだ」
私は重い腰を上げた。 村へ行くと、確かに惨状だった。 土はひび割れ、作物は茶色く変色している。 村人たちは痩せこけ、虚ろな目をしていた。 私は畑の中心に立った。 魔法で雨を降らせる? そんな大規模な魔力はない。 だが、視ることはできる。 この土地の「気」の流れ、水の脈を。
『見小曰明(小を見るを明と曰う)』
微細な予兆を察知する。 地下深く、岩盤のわずかな隙間に、水脈の圧力が溜まっているのが見えた。 ほんの少し。 針の一刺しほどの穴があれば、そこから水が噴き出すだろう。
「あそこだ」
私は畑の隅にある、大きな岩を指差した。 「あの岩を動かせ」
「え? あんなところに水はありませんよ? 井戸はもっと向こうで……」 「いいから動かせ。いや、動かす必要もない。……セシリア、剣を貸せ」
私はセシリアから剣を受け取った。 岩の表面にある、目に見えない亀裂。 そこに向けて、剣の柄頭を軽く叩きつけた。 コン、という乾いた音。
直後。 ピキ、ピキピキ……と岩に亀裂が走り、次の瞬間、岩が真っ二つに割れた。 そして、その割れ目から、勢いよく地下水が噴き出した。
「み、水だぁーッ!!」 「奇跡だ! 隠者様の奇跡だ!」
村人たちが狂喜乱舞する。 私は剣をセシリアに返した。
「岩盤のツボを押しただけだ」
大したことはしていない。 だが、村人たちの目は、完全に私を「神の使い」か何かを見る目に変わっていた。 そして、その噂は風のように広がる。 隣の村へ、そのまた隣の町へ。 そしてやがては、私を放っておいてくれない権力者たちの耳へ。
私の望む「無為自然」のスローライフは、私が何かをすればするほど、遠ざかっていくようだった。 これは、矛盾を抱えた賢者の、皮肉な国救いの旅の始まりに過ぎなかった。




