第1章 死に至る病と、何もしないという選択
十四時間ぶっ続けで光るモニターを見つめていると、エクセルの方眼紙がこの世の檻のように見えてくる。
午前三時のオフィスは、死体安置所のような静けさと、焦げ付いたコーヒーの臭いに満ちていた。空調の低い唸りだけが、ここが生物の住処ではなく、機械を冷やすための空間であることを主張している。
「……あと、三行」
乾いた唇から漏れたのは、言葉というよりは空気の擦過音だった。 指先が痙攣している。キーボードを叩くたびに、指の関節から肘にかけて、痺れという名の電流が走る。 私は現代日本の、とある大学院を出たしがない漢文学者崩れであり、現在は中堅出版社の校閲部に所属する、三十四歳の社畜だった。専門は中国古代哲学。特に老荘思想。 『無為自然』――作為を捨て、自然のままに生きる。 そんな研究をしていた男が、過労死ラインを二倍も超える残業の末に、カフェイン錠剤を齧りながら校正作業をしているのだから、皮肉という他ない。
胸の奥で、何かが弾ける音がした。 痛みはなかった。ただ、急激に世界が遠ざかっていく感覚。 視界の端から闇が浸食してくる。モニターの光が、遠い星のように滲んでいく。
あ、これ、死ぬな。
直感は、どんな論文よりも雄弁だった。 恐怖はない。むしろ、安堵があった。もう明日の締め切りを気にしなくていい。鳴り止まないチャットツールに怯えなくていい。 意識が途切れる寸前、私の脳裏をよぎったのは、家族の顔でも、未練のある恋人の顔でもなかった。 ただ、一節の言葉だった。
『致虚極、守静篤』 (虚を致すこと極まり、静を守ること篤し)
心を空っぽにして、ただ静寂を守りたい。 もう、頑張りたくない。競いたくない。何も生み出したくない。 もし次があるのなら。 私は、流れる水のように、ただ低いところへ流れ、何者とも争わず、ただそこに在りたい。
そう願って、私はスイッチを切った。
***
目覚めたとき、最初に感じたのは、圧倒的な「緑」の匂いだった。 土の湿った香り。草いきれ。樹液の甘く濃厚な気配。 コンクリートと排気ガスの臭いではない。空調のカビ臭さでもない。 肺いっぱいに吸い込むと、肋骨の内側が浄化されていくような錯覚を覚える。
「……ここは」
体を起こす。軋むような関節の痛みがない。慢性的な肩こりも、眼精疲労による頭痛もない。 体が軽い。まるで羽毛になったようだ。 視界に飛び込んできたのは、見上げるような巨木たちだった。天を突く大樹の葉が、陽光を浴びてステンドグラスのように輝いている。 足元には見たこともない形状の苔が、ふかふかの絨毯のように広がっていた。
私は自分の手を見た。 白い。そして、若い。 節くれだってインク染みがついていた三十代の手ではない。十代後半、あるいは二十代前半の、滑らかで力のない手だ。着ているのは、麻のような素材の粗末な衣だけ。
状況を整理しよう。 過労死した。それは間違いない。あの感覚は不可逆なものだった。 そして今、森にいる。若返っている。 異世界転生。 若者向けのライトノベルで飽きるほど消費され、一種の産業と化した概念。まさか自分がその当事者になるとは。
「ふむ」
私は立ち上がり、服についた土を払った。 通常なら、ここでパニックになるか、あるいは「チート能力」を探してステータス画面を開くところだろう。 目の前に半透明のウィンドウが浮かんでいることにも、気づいていた。
【名前:レン】 【職業:隠者】 【固有スキル:道】 【状態:天人合一】
ゲームのようなインターフェースだ。だが、書かれている内容は酷く抽象的だった。 攻撃力や魔力といった数値はない。ただ、そこにあるのは概念だけ。 『道』。 万物の根源。言葉で表現できない宇宙の法則。 私の専門分野が、そのままスキルになったらしい。
「……どうでもいいな」
私はウィンドウを手の甲で払いのけた。 攻撃力が何億だろうが、魔法で国を滅ぼせようが、関係ない。 私はもう、働きたくないのだ。 勇者になって魔王を倒す? お断りだ。そんなのは究極のブラック労働だ。 ハーレムを作る? 面倒くさい。人間関係のメンテナンスコストほど高いものはない。 スローライフ? いや、それすらも「ライフ」を意識している時点で作為的だ。
私はただ、座りたい。 手近な大樹の根元に腰を下ろす。背中の曲線に、木の根が驚くほどフィットした。 目を閉じる。 風が吹けば、髪が揺れる。鳥が鳴けば、鼓膜が震える。 腹が減れば、その辺の実を食えばいい。死ぬなら、それもまた自然だ。
「無為」 私は呟く。 何もしない。 ただ、世界の一部としてそこに在る。
その瞬間、私の周囲で空気が凪いだ。 ざわめいていた森の音が、私の呼吸に合わせてリズムを整え始めたことに、私は気づいていなかった。足元の草花が、私を守るように急速に成長し、天然の天蓋を作り始めたことにも。 ただ、久しぶりの深い眠りが、蜜のように私を満たしていくだけだった。
こうして、私の第二の人生は、全力の「何もしない」から始まった。




