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2.再生の学生生活



母に「洗い物が片付かない」と急かされ、急いで朝食を平らげたあと。私は外へ飛び出していた。


「……あの空き地、まだマンションが建ってない。」

「駅前も本当なら商業施設が建設されているはずなのに。」


黒瀬家でメイドを務めていた私が、近所の地理を間違えるはずがない。

ないはずなのに、この街には“あるはずのもの”がなく、“失われたはずのもの”が存在していた。

みんなが手にしている端末も、十年前のモデルだ。服装も過去の流行そのもので、皆が嬉しそうに身にまとって歩いている。


夢にしては、あまりにリアルだ。

目の前の光景に目眩を覚え、頭を抱える。どういうこと……?

私、本当に十年前に来てしまったの?

悲しいことに、夢から覚める気配すらない。とはいえ、こんな非現実を受け入れることもできず、私はその場に立ち尽くしていた。


その時、前方に見覚えのある黒い車が止まった。


あ、と思う間もなく、機械的な音とともに窓が開く。

黒く傷ひとつない艶やかな車体。スモークの張られた窓。停止時に揺れを感じさせない運転技術。

そして窓から覗く、容姿端麗な顔——それらを私はすべて知っていた。


「ーーー京子、そこで何をしてる?」


名前を呼ばれたのも十年ぶりだ。


記憶の中より若い顔立ちと声で呼ばれた自分の名に、私はぼんやりと思った。


「……おい、どうした?」


返事がなかったからか、私の顔色が悪かったからか。

怪訝そうにこちらを見つめながら、蓮様──蓮が問いかける。

その瞬間、ハッと体と頭が一気に動き出す。主人に問われているのに、私は何をしているの?

血の気がサッと引き、私は慌てて頭を下げた。


「も、申し訳ありません。如何いたしましたか。」


「……は?」


戸惑った声に、内心あれ?と首を傾げる。

そして、すぐに“重大な事実”に気づき、さらに血の気が引いた。


い、今の私は十六歳になったばかり……!

この頃の私は研修前で、蓮との関係は“幼馴染”としてしか認識していなかった。

つまり——敬語なんて使ったことなかった!


やばい、完全にやらかした。

どうする、この沈黙……。

未来の主人、現幼馴染の困惑が空気で分かる。……ああ、仕方ない。


私はこっそり息を吐き、顔を上げた。


「なんてね! 蓮の家の人の真似でした〜!」


久しぶりに動かした表情筋が痛む。

あの頃の笑顔と言葉遣い、思い出せ私……!

気合いで上げた口角が妙な形になっていないことを祈る。


珍しく目をわずかに開いた蓮は、私の顔を見たあと「……似ていない。」とため息をついた。

な、なんとか誤魔化せたようだ。


「で、そこで何をしてるんだ。」


「天気がいいから散歩してたよ。でも、そろそろ帰ろうかな。」


「そうか。……なら、乗れ。」


蓮は隣の空いている座席へ視線を送る。

そうだ、昔はよく蓮の隣に座って家まで送ってもらっていた。

黒瀬家と結月家は隣同士で、私がよく甘えていたのだ。

それに、彼の隣に乗れるのは当時の私だけだった——だからこそ、特別だと勘違いしていたよね。


ちなみに研修後は、乗ることも乗せてもらうことも一切なくなった。

……そっか、まだ研修前だから乗せてくれるのか。


「……ううん、乗らない! 歩いて帰るし大丈夫だよ!」


「は?」


「今まで乗せてくれてありがとう! もう誘わなくて平気だから、蓮はゆっくり車内で過ごして!」


研修後の私は、蓮に話しかけることすらできず、感謝すら伝えられなかった。

それに過去の私は、車内で本を読む蓮にずっと話しかけ、鬱陶しがられていた。

……本当に、過去の私、迷惑をかけていたよね?

そりゃ両親に怒られていたわけだ。


今の私は研修済みのメイド経験者。

もうあんな振る舞いはできない。蓮の隣に座るなんて、なおさら。


過去の自分が作った黒歴史の数々に羞恥心が耐えられなくなり、私は蓮の顔も見ずに逃走した。


「それじゃあね!」


軽い挨拶を放ちつつ、内心では深く謝罪しながら。

だからその後、蓮と運転手がどんな顔をしていたかなんて、分かるはずもなかった。





さて、あれから二日が経った。


この間は目が覚めることもなく、走馬灯のような感覚すらなかった。久しぶりに高校の制服に袖を通す。体は現役とはいえ精神は 26 歳。コスプレをしているような感覚に苦笑しながら、スカートの丈を少し長めにした。昔は短くしていたけれど、研修が始まってからは丈を戻さざるを得なかった。


ちらりと見たカレンダーには、今週の土曜日に丸がついている。この日から研修が開始され、今の私も参加する予定だ。実家には一年間戻らず、会場で寝泊まりして学校に通いながら研修を受ける。そしてそのまま黒瀬家勤めになる。


思わずため息が出る。

終わる気配のない過去の日常が現実味を帯びてくると同時に、未来の姿が脳裏をよぎるのだ。このまま研修に参加したら、自動的に未来は決まってしまう。また私は蓮に冷たい瞳で見られ、名前も呼ばれず、気持ちを押し殺していくのだろうか。……また、最愛の人を守って、死ぬんだろうか?


答えの出ない問いに身を委ね、ただ過去の私をなぞる日々。両親は首を傾げる時もあるが、愚娘が成長したと喜んでいる。蓮とはあの日以来会っていない。


(昔はアポイントも取らずに押しかけてたもん……。今考えるとほんっとうに恐ろしいことしてた。)


過去の私は怖いもの知らずだった。今の私は当然そんなことはできない。

日曜日は家でゆっくり過ごし、記憶の整理をしていた。家にいる私に母は驚いていた。本当に愚娘でごめんなさい……。


学校へ向かう道は覚えていたが、少し早めに家を出る。一度メイド業をしていたので、早めの行動が身についているのだ。ゆっくりとした足取りで向かうと、学校が近づくにつれて、私を視界に捉えた人が二度見していく。


(ああ……そうだよね。過去の私は、最初の頃は蓮の車で一緒に通学してたもん……。)


羞恥心で赤くなりそうな頬を押し留め、できるだけ周囲を気にしない顔で歩く。これでもメイドをしていたから、ポーカーフェイスは必須で身についたのだ。

風が吹いて髪が乱れそうになり抑えた瞬間、背後から衝撃が走り、転ばないように重心を整えた。


「京子、おはよ!ちょっと!今日どうしたの?!」

「おはよう、優里。朝から元気だね。」

「そうじゃないよ京子ちゃん、今日は黒瀬くんと一緒じゃないの?」

「おはよう、雪ちゃん。一緒じゃないよ。」


慌てた様子の二人の顔を見る。懐かしい…。二人とは高校卒業後、全く会えなかった。思わず瞳が潤みそうになり、急いで水分を引っ込める。二人はそんな私に気づかず、週末に何かあったのか、体調不良かと考察を始め、ヒートアップしてきたので慌てて会話に割って入った。


「何もないよ。本当に何もない!」

「本当に?京子ちゃん、大丈夫?」

「大丈夫!今まで、れっ……黒瀬先輩の迷惑も考えないで馴れ馴れしかったなって反省したの。ただそれだけ!」


「「“黒瀬先輩”?!」」


二人のギョッとした表情に、周囲もざわつく。校門の側で登校中の生徒も多く、会話を聞かれてしまったようだ。こちらを見る者、ひそひそと話す者……これはかなり噂になりそうだ、と戦慄した。


二人を宥めながら教室へ向かう。その間も周囲の視線が痛く、居心地が悪い。しばらくはこうなんだろうなぁ。過去の自分の蒔いた種なので仕方がない。耐えるしかない……。

不幸中の幸いは、同じクラスに友人がいること。教室でのひそひそ話の中、二人の存在に救われた。




「いやぁ、周りの視線すごいね。」


昼休み。私はお弁当を持って真っ先に優里と雪ちゃんのもとへ駆け寄った。普段なら別学年の蓮のクラスへクラウチングスタートで向かう私に、二人は目を丸くして驚いた。周囲もどよめく。


勇気を出して「輪に入れてほしい」と伝えると、二人は笑顔で承諾してくれた。机をくっつけスペースを広げながら、ドキドキと跳ねる胸を抑える。だって、友人とご飯なんて久しぶりなのだ。


過去の私は中学から蓮と一緒に食べていたし、研修中は課題をこなすため栄養補給バーをかき込んで自習室に篭っていた。研修後は二人と疎遠になり、ぼっち行動。未来では仕事仲間とも話さず淡々と食事を済ませていた。


だからこそ、友人とご飯を食べるのは小学校の給食以来。緊張で手が震え、素直に白状すると二人は心配してくれた。もちろん未来のことは伏せて。


「京子は今まで黒瀬先輩一筋だったもんねぇ。」

「私たちなんて眼中になかったもの。」

「ご、ごめんね……本当に……。」


しおれる私。返す言葉もない。しかしふいに声がする。


「これからは私たちともっと思い出つくろうね?」

「ぜ、ぜひ!!」


笑顔でそう言ってくれた二人に、泣きそうになるのを必死に堪える。未来の私は、本当に馬鹿だった。こんなに素敵な友人を捨ててしまったなんて。変な顔になっていたのか、二人はお腹を抱えて笑い、私もつられて笑った。



放課後。

部活のある二人と別れ、過去の私は蓮に合わせて部活に入っていなかったことを思い出す。さて、このまま帰るのも暇だし、寄り道でもしようか。少し考えてから席を立つ。向かうのは蓮のいるクラス……ではなく、反対側のフロアにある部屋。


図書室に入ると、本の香りが鼻をくすぐった。帰宅か部活で、ほとんど人はいない。司書さんがカウンターに座っていたので挨拶をする。

初めて来たが、思ったより広い。さすが有名私立……と言っても黒瀬家の蔵書量には劣るが。


気になる小説を手に取り席に座る。開いた窓から風が入って気持ちいい。ここ、いいかもしれない。お気に入りができた私は、そそくさと本を開いた。


(ええ……なにこれ、泣けるんですけど。)


授業でも扱う有名な作家の本。一節だけ知っていても、深く読むのは初めてだった。著者が偉人と称される理由がよくわかる。こんな素敵なものを知らずに生きてきた自分に軽く後悔した。


今日何度目かの涙を堪えようと上を向いた瞬間、人影があった。


「……ひっ?!」

「あ、ごめん。驚かせちゃったね。」


にこやかに笑う男子生徒が向かいの席で頬杖をついていた。周囲に人はいないと思い込んでいたので、心臓が跳ね上がる。図書室だと気づき、悲鳴だけは抑えた。


「な、なんですか。」

「君が蓮の隣にいないなんて、珍しいなと思って。」


思ってもみない言葉に、息が止まる。改めて顔を見ると、どこかで見覚えがある。え、誰だっけ……と記憶を探るが出てこず、素直に謝った。


「僕は進藤市之助。蓮と同じクラスだよ。よろしく。」

「し、失礼いたしました!」


声が大きく出てしまい、司書に睨まれる。せっかく悲鳴を堪えたのに……。視線を戻すと、彼は笑っている。


進藤市之助様。未来の私の記憶にある。

私は直接関わらなかったが、蓮の旧友で由緒正しい華道の名家の御坊ちゃま。黒瀬家に何度か訪れていた。若い頃の進藤様は記憶より幼い印象だ。


先ほどの謝罪は、気づけなかったことと身分差を踏まえたものだったが、彼は「謝らなくていい」と後輩を見るような優しい目で笑った。


「朝も昼も帰りも、蓮の隣から離れない君がいなかったからさ。たまたま入った図書室で見かけて、つい。」

「そ、そうですか……。」


この方にも認知されていたのね……過去の私は。もちろん悪い意味で。心の中で自嘲しながら返事をする。


「それで、今日はどうしたの?蓮はまだ生徒会室にいるけど、一緒に帰らないの?」

「か、帰りません。」


即答した私に、一瞬だけ彼がきょとんとする。


「どうして?」

「今まで、黒瀬先輩には身分をわきまえずに迷惑をかけてしまっていたので……。」

「え、今更?」


うっ。ストレートに刺さる。私、吐血してない??


「お恥ずかしながら今さら自覚しまして……。なので、もう一緒に帰りませんし、クラスに押しかけることもありません。」

「……君、本当にどうしたの?熱ある?」

「ちゃんと平熱です……。」


疑う目が痛い。でも無理もない。

こちらを見つめて何か考える進藤先輩の次の言葉を身構えて待つ。


「ここにいるのは、蓮を待ってるんじゃなくて?」

「違います。図書室に来たことがなかったので……思い立って来ただけです。」

「え、来たことないの?勿体ないなぁ。」

「ですよね。ちょうど今までの自分を悔やんでいたところです。」


そこでふっと空気が変わった。雰囲気が少し柔らかくなる。


「随分メジャーなのを読んでるね。」

「授業で知ってても読んだことがなくて……面白かったです。」

「良いよね。それが好きなら、お薦めもあるよ。」

「え、どれですか。」


立ち上がる彼の後ろをついて歩く。メイドの頃は近寄りがたい雰囲気だったのに、意外と話しやすい人なのかもしれない。


進藤先輩のお薦めの中から数冊を借りることにした。




「ただいま〜。」


「京子!今日、蓮様と登下校しなかったの?!」


家に着いた途端、母の叫びが飛んでくる。思わず失笑しそうになるのを押し殺し、「うん、大丈夫だよ」と伝える。先週まであれほど通常運転だった娘が急に変われば、母も混乱するだろう。


「黒瀬家から連絡があってびっくりしたわよ。今朝いつの間にあちらへ連絡したの?これからは別々に登下校するって……どんな心境の変化?」


別にいつも約束していたわけではなく、蓮も黒瀬家の運転手も私を待っていたわけではない。ただ私が勝手に蓮の予定に合わせ、勝手に車の前で待ち、勝手に乗り込んでいただけだった……。穴があったら入りたい。


けれど念のため、今朝代表回線に連絡しておいた。未来と番号が変わっておらず助かった。


娘の変化に母は驚きを隠せない。「今まで黒瀬先輩……蓮様には迷惑をかけちゃったから。もう身の程はわきまえるよ」と伝える。


「……え、熱でもあるの?」

「みんなそれ言う……。」


呆然としている母を置き、部屋に戻る。ドアを閉めると、ようやく一人の空間。盛大に息を吐いてそのままベッドへ倒れ込む。制服のままだが、もうへとへとだ。


「私、本当に今まで勝手ばかりしてたんだなぁ……。」


今日一日の周囲の反応を振り返る。あれほど驚かれるくらい、過去の私は非常識で身勝手だった。そりゃ蓮に選ばれないわけだ。

乾いた笑いが漏れる。どれだけ自惚れていたんだろう。少女漫画のヒロインを自認していたなんて、痛すぎる。


ずくん、と今はないはずの刺された箇所が疼いた気がした。腹を押さえると、あの日の光景が蘇る。燃えるような痛み、混乱する頭、床に倒れた衝撃、冷えていく体、そして――


泣いている最愛を抱きしめ、こちらを一度も見なかった“好きな人”。


「……自惚れるなよ、私。」


ただひたすらに、自分へ言い聞かせた。


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