第12話_悲しい味は好きですか?
鳴り響く電話のコール音に、田中は立ち尽くしていた。
取るべきか、それとも無視するべきか。
鼓膜を打つその音はやけに鋭く、放っておけば頭の奥まで突き抜けてしまいそうだった。
(……もしかしたら……人と話せる……最後のチャンスかもしれない……)
震える手をゆっくりと伸ばす。
受話器を握った瞬間、指先に冷たい汗がじっとりとにじみ、黒い樹脂の感触が生き物のようにぬめって感じられた。
恐る恐る耳に近づける。
「……もしもし」
声はか細く、掠れていた。
それでもわずかな期待を孕んでいた。
――返事があった。
「おはようございます」
子どもの声だった。
透き通るように澄んだ美しい声。
一瞬、不気味に思えたが、あまりにも普通の挨拶が、張り詰めた田中の心をわずかに緩ませた。
「お……おはよう、ございます……あ、あの!あなたは……あなたは誰ですか!?」
突然の挨拶にぎこちなく反応し、必死に相手を探る。
受話器を握る手には、期待と恐怖で力が入りすぎていた。
「悲しい味は好きですか?ガラスのように儚いものですね」
「……?悲しい味……えっと、なんですか?どういうことで……」
眉をひそめ、言葉を絞り出す。
だが返答は、さらに理解不能なものだった。
「私は氷のように冷酷なものが好きです。石は暖かいので嫌いです」
淡々とした口調。
子どもの声なのに、そこには感情の起伏が一切ない。
耳に入るほどに、田中の背筋が冷たくなる。
まるで、合成音声をただ垂れ流しているだけのようだ。
(……これは……会話じゃない。言葉に……意味がない……)
頭の奥にじわりとした違和感が広がる。
期待して伸ばした手が、ゆっくりと石のように固まっていった。
(……もういい……切ろう……)
耐えきれず、田中は受話器を置こうとした。
だが、耳から離そうとした瞬間、受話器の向こうで声が続いた。
「――今日も、品川から帰るんですか?」
田中の動きが止まる。
心臓が跳ね、背中に氷の刃を当てられたような感覚が走った。
「……え……?」
さっきまで無意味な言葉を垂れ流していた声が、何の前触れもなく、現実の自分を知っていることを口にした。
それでもトーンは変わらない。感情の起伏のない、合成音声のような子どもの声のまま。
田中の喉が、ひゅっと塞がった。
肺に空気が入らない。
なぜそれを知っている?
誰が、どこで見ていた?
「水は純粋です。白と似たようなものですね」
受話器からは、再び意味を為さない言葉が綴られる。
「……っ、やめろ!!」
叫び、受話器を乱暴に投げ落とす。
黒電話のおもちゃは机の上でカタリと揺れただけ。
だが――
プルルルルルル……。
床に転がった受話器から、再びコール音が鳴り響いた。
だがその音は、先ほどよりも鋭く、壁や床を震わせるほどの大きさになっていた。
まるで部屋全体が、田中に「出ろ」と命じているかのように。




