プロローグ
布団の中で、俺は天井を睨んでいた。
夜の静けさの中で、心臓の音だけがやけに響く。
「……俺は、恋をするためにVチューバーになったわけじゃない」
そう口にすると、暗闇に吸い込まれた言葉はすぐに消えた。
だけど胸の奥の熱は収まらない。布団の中で転がり、息が荒くなる。
デスクの上でPCのディスプレイが青白く光っていた。
そこに浮かんでいるのは、夢にまで見た合格通知。
「おめでとうございます。あなたはStarlight Productionの新人Vチューバーとして、来季よりデビューが決定しました」
その文字を見ながら、俺はあの日のことを思い返していた。
最終選考。
オーディション会場に来いと告げられたとき、俺は正直、足が重かった。
全部オンラインで済むと思っていたのに。
見慣れないビルの冷たい廊下を歩くだけで、心臓が縮む。
待合室の椅子に座っても、落ち着けなかった。
水の入ったペットボトルを握る手が震えて、キャップが開かない。
呼吸が浅い。視界が狭い。
「……トイレに行こう」
逃げ場を探すみたいに立ち上がった。
だが歩くうちに、さらに焦りが募った。
白い壁と同じような扉ばかりで、どこから来たのか分からなくなる。
汗が首筋を伝い、手のひらはじっとり濡れていく。
(やばい、戻れない……時間、大丈夫か……)
そのときだった。
「——迷った?」
静かで澄んだ声が、背中に落ちてきた。
その一言が、耳から胸へ、胸から全身へと一瞬で広がる。
俺は、はっと振り向いた。
時間が止まった。
廊下に差し込む蛍光灯の光が白く滲み、輪郭だけが浮かぶ。
そこに立っていたのは、一人の女性。
声を聞いた瞬間に分かった。
間違えるはずがない。
配信で、歌で、笑顔で、何度も俺を救ってくれたあの人。
推しの——宵宮セラ。
視界が揺れた。
夢か現か分からない。
ただ、呼吸が止まりそうだった。
「……そういえば今日って、オーディションだったんだっけ」
セラは俺を一瞥すると、ふっと口元に笑みを浮かべた。
「面接会場なら、あっちの角を曲がって突き当たり。すぐ分かるよ」
指先が白い壁を指す。細く、無駄のない動き。
その一瞬で、世界が光に満たされた気がした。
俺は声も出せず、ただ頷くしかなかった。
「緊張するのは分かるけど、大丈夫。迷ってる時間は、減点されないから」
軽やかに放たれた言葉。
冗談のようで、どこか真剣な響き。
その音の一粒一粒が、心臓に刻まれていく。
運命は、こうして始まるのか。
そう思った。
偶然じゃない、必然だと。
神様が用意したシナリオだと。
(……やっぱり、俺にとって特別なんだ。宵宮セラは)
そして今。
暗い部屋の中、PCに映る「合格通知」を見つめながら、俺は布団の中で転がっている。
「……俺は、恋をするためにVになったわけじゃない」
何度も何度も唱えても、胸の鐘は鳴りやまなかった。
「——迷った?」
あのとき声をかけた新人の顔は、正直よく覚えていない。
白い番号札と、緊張で強張った表情。
汗ばんだ額。震える手。
Starlightの最終選考に来る新人なんて、大抵あんなものだ。
方向感覚を失って迷子になるのも珍しくない。
だから、ほんの気まぐれで声をかけただけ。
「緊張するのは分かるけど、大丈夫。迷ってる時間は、減点されないから」
軽い冗談のつもりだった。
彼が安心して会場に戻れれば、それでいい。
それ以上でも、それ以下でもない。
セラは、その日の空調の冷たさや、会議室の書類の匂いのほうを、よほど鮮明に覚えていた。
迷子の新人のことは、数時間後にはもう記憶の隅に追いやられていた。