#33 夕陽
和也から、真夏がいるかもしれない療養所が、緩和ケア治療専門の病棟であることを聞いた夜、僕の頭のパニックは頂点に達していた。
真夏は、きっと、この世のどこかで元気にしていて、僕はいつか、彼女に偶然に会い、「僕は、ここまで、こうして頑張って生きてきたよ。君も・・・元気そうで何よりだ」って、そう言うんだと、僕は、今までずっと、そう信じて生きてきたように思う。
それなのになぜ?
翌日の午前中は、霞ヶ関にある、東京地方裁判所での手続きに追われた。
午後からの別件の打ち合わせも、近くの会議室を借りて行ったのだが、3時前には、片付いた。
『お前が、この療養所に行くべきか、そうでないかは、俺にはわからない。でも、沢井には、余り時間が残されていないかもしれないんだ』
和也の言葉が、何度も頭の中で過ぎった。僕の手帳には、その療養所へのアクセスルートがメモってある。虎ノ門のJTビルにあるカフェで一服した後、僕は覚悟を決めた。
「もしもし、中山さん?渡辺だけど、今日の夕方の所長との打ち合わせは、申し訳ないけど、キャンセルにしてもらえるかな。急用が入ったんだ。早く済めば戻るかもしれないけど、時間がかかるかもしれない。所長には、クライアントとの打ち合わせが長引いているって、伝えておいて」
僕は、事務所に電話をして、秘書の中山にそう伝えた。僕は、霞ヶ関駅から、日比谷線に乗り、療養所がある駅に向かった。
その最寄駅に着く頃、時刻は午後3時半を過ぎていた。駅からの道すがらにある、すっかり葉を落とした銀杏並木は、年末の寂しさを一層増すように思えた。
銀杏並木の歩道を過ぎて、角を曲がると、その都立がんセンターが現れた。
L字型に建っている建物の一方の棟の前には、真夏の写真に写っていた広場が広がっている。
僕は、車寄せを望む療養所の入り口に立ち、目を閉じた。
あの建物の中には・・・。
深呼吸をした後、正面玄関を通り、天井に吊るされた案内板に目をやると、
『緩和ケア診療部』
という表示とともに矢印が右手を指していた。
僕は、右手に進み、矢印が指すまま階段を登り、二階に上がると、外にある広場を望む談話ルームがあった。
正面に大きなガラス窓がある談話ルームは、暖色系の壁紙に囲まれていた。
そして、ガラスの向こう側には、僕が勤める事務所が入る赤坂のタワービルディングと、それにぴったり寄り添う同じ高さに見える東京タワーが建っていた。
それは、まさしく、真夏が送ってきた写真の撮影場所が、間違いなく、この建物であることを証明していた。 通路の左手奥に、ナースステーションが見えた。
僕は、ゆっくり歩いて、カウンターに歩み寄った。
「すみません」
そう声をかけると、慌ただしく動き回る看護師の一人が、こちらに気が付き、返事をしながらこちらに近づいてきた。
「すみません、こちらに沢井真夏さんって入院されてますか?」
僕の声は、震えていたように思う。少し考える風をしたその看護師は、少し怪訝そうな顔をした後、何かに気が付いた素振りを見せた。
「あっ、御家族の方?」
「いえ、違います。僕、渡辺と言います。ただの知り合いなんですけど、お見舞いに・・」
僕が、そう答えると、後ろを一人の看護師が通った。
「あっ、鈴木さん、あなた、沢井さんの担当だったわよね?お見舞いって方が見えてらっしゃるけど…」
その、鈴木と呼ばれた看護師は、少し驚いた顔をした。
「ご家族の方じゃなくて?」
僕は、先ほどと同じように、即座に否定して、昔の友人であったこと、今回見舞いに訪れた経緯を簡単に伝えた。最初に応対した看護師は、その看護師に目配せをして既に奥に消え、その鈴木さんと呼ばれた看護師が、僕の傍に寄り、一呼吸した後、ゆっくり話し出した。
「沢井さんは、先週亡くなられました。凄く素敵な方で、ナースステーションの看護師は皆ファンだったんですよ。今日は、御家族の方々が、色々と手続きに見えられると聞いていたので、・・・勘違いしてしまったんですけど・・・」
その時、僕は、どういう顔をしたのか覚えていない。 作り笑顔でもしたのか、号泣でも、したのか。気が付くと、僕は、ナースステーションの手前にある談話ルームの椅子に腰掛け、赤坂のタワービルディングの左手に沈む夕陽を眺めていた。
真夏が亡くなった?僕は、夢でも、見ているのだろう。多分、そんな心境だった。真夏が死ぬなんて、そんなことは、実感しようの無いことだった。
不意に肩を叩かれた。
「渡辺さん?」
さっきの看護師が声をかけてきた。
「沢井さんの御家族の方がいらしてますけど…」
そう言うと、ナースステーションのカウンター前に立っている、女性と、中学生位の少年の方に手を向けた。
二人は、深々と、僕にお辞儀をしていた。