#2 転校生
短い春休みも終わり、僕は小学五年生の新学期を迎えていた。
秋田県の中央に位置する男鹿半島は、全国的に見れば遅い春を迎えたばかりだった。まだ肌寒い日もあり、各家庭ではストーブやコタツが活躍する日もあった。当然、桜はまだその眠りから覚める前だ。
男鹿半島の東に位置する、全面芝生に覆われたわずか三百五十四mの寒風山は、茶色の山肌が、少しずつ緑に色付こうとしていた。
僕の小学校は、小さな港町にあり、日本海を望む小高い丘の上の少し奥まったところに建っていた。その丘の上からは秋田の中心地に向かう市民の足となっている、国鉄男鹿線を見ることができた。その小学校は、その昔に、沖合いに現われた鯨の大群を捕らえて得たお金の寄付によって建てられた為、別名で『くじら学校』と言われていた。
その学校では、二年毎にクラス替えが行われることになっていた。その年は、僕らは五年生となるので、新しいクラスメートと共に新学期を迎えていた。とは言っても、小さな学校であったので皆知った顔ばかりだ。
その日は、いつも八時三十分きっかりに教室に入ってくることで有名な担任の山田先生を、少しざわつきながら待っていた。山田先生は僕達が入学したときから我々の学年を受け持っており、僕自身は、三年生のときから直接担任を受け持ってもらっていた。
山田先生は、時には冗談を交えて授業を行う面白い男の先生であったが、「時間を守れ!」が口癖なだけに、時間には厳しく、時間に遅れることをひどく嫌っている先生だった。
時計の針が三十分を回ると皆、急に静まり返っていた。教室の扉が開いたらすぐに起立礼の合図をしなければならない。少しでも遅れたり、ざわついていたりするとその日は何かしらの罰を皆で覚悟しなければならなかったのだ。それは多量の宿題であったり、トイレの大掃除であったり・・・。
号令をかけるのは、前日の始業式後に開かれた学級会で、学級委員長に選ばれていた僕の役目だった。
時計を見ると、長い針はすでに三十一分を回っていた。一瞬拍子抜けした僕は、隣のクラスメートと顔を見合わせた。いつもジャストタイムの山田先生が遅れるなんて?そして、拍子抜けして油断したその瞬間、教室のドアが勢いよく開いた。
遅れた先生は罰の悪そうな表情をしながら、それでもなにやらうれしそうだ。その先生の後ろに誰か立っているのが見えた。
「おっ、転校生でねが!」
誰かが叫んだ。先生の影に、ピンクのパンタロンにおしゃれなトレーナを着ている女の子が見えた。
「こら、わたなべ、なにしてる、号令はどうした?」
僕は慌てて号令をかけ、起立礼をした。でも何やらうれしそうな山田先生は、今日は罰を免除してくれそうだ。
「さ、はいれ、はいれ」
山田先生が手招きをすると少し恥ずかしそうに、でもその足取りはしっかりと教室の黒板の前に向かった
「広島から来ました。沢井 真夏です。みなさんよろしく」
先生が促す前に、その子は元気よく挨拶をし、深々とお辞儀をした。広島訛りなのか、関西調の妙なイントネーションが入ってはいたが、そのハキハキとした挨拶の言葉に少し聞き惚れていると、不意に肩越しにつつくやつがいた。後ろの席の和也だ。
「おいっ、わたなべ!めんけ(かわいい)でねぇが!」
「ん、んだな」
「おめ、学級委員長だべ、おいしい役回りこくるぞ」
和也は相変わらず、そういう余計なことを考えるのが得意であったが、当然自分も同じことを考えていた。そして、先生が「内緒」と言っていた、自分の前の席が空いていた意味がそのとき理解できた。
心の中はガッツポースだった。先生に指示されて席に座るとき彼女は、僕の方にチラッと視線を送り、少し微笑んでくれた。そして、きっちり背筋が伸びた姿勢で、先生の方を向いた。
間違いなく単純な僕は、その時から既に心を奪われていた。
そもそも、クラスの他の女子は、パンタロンなんか履かないし、軽く微笑むなんて芸当はしなかった。
「わたなべ、学級委員長なんだから、昼休みにでも、学校の中とか、案内してやれ」
そう先生が僕に言うと、後ろの和也が、「ひゅー」と冷やかした。うれしい反面、少し気も重くなった。大体、男4人兄弟の次男として育てられた僕は、おちゃらけてはいたくせに、女の子を相手にするの、は大の苦手だったのだ。昼休みになり、勇気を出して真夏に声をかけ、学校内を軽く案内し会話を交わした。
「なして、秋田さ来たの?」
「実はわしなぁ、そんなにはひどくないんじゃけど、喘息持ちなんじゃ。前に住んでたとこは空気がよくないゆうて、母の実家がこっちにあるけぇ、しばらくこっちに住むことになったんよ。」
喘息と言う病気がどんなものであるのか、当時の僕はよく分からなかったが、空気が汚いと良くないのだということは理解できた。
確かにここは空気は綺麗だろう。それよりも、彼女の話す言葉に僕はびっくりしていた。
「わし・・・・って、それ広島弁が?」
「あっ、やっぱりおかしいかのぉ。直さんと、いけんのじゃろぅけど、そんなすぐに直らんわ・・一年生のときにも、一年間こっちにおったんじゃけど、結局広島弁、直らんかったんよ。やっぱ、変かのぉ」
そういうと、彼女は黙ってしまった。
「いや、変ということはねぇーけど、『わし』っていうのは、よぐねぇかもしんねぇなぁ。なんか、こっちじゃ、『わし』っていうのはじいさんの言葉だがら・・・」
「そっかぁ、気ぃつけるわ。忠告ありがとう、変じゃったらゆうてな」
「なんも、変だなんて・・、ところで、前にも、こっちにいたこどあったのか?でも、おら君のこと知らねなぁ」
「前のときは、母の実家が別の所にあったけぇなぁ、隣の小学校だったんじゃ」
「そうか、じゃ、知らないわけだ。でもさ、そしたらまた転校するかもしれない?」
「・・・そうじゃなぁ」
僕は、その強烈な広島弁にふき出しそうになるのをこらえて、会話を続けた。
「ところで君の名前、めずらしいな、やっぱ夏に生まれたとか?」
「そうなんよ、八月八日生まれ。単純じゃろぉ、真夏に生まれたから真夏ゆうて」
「ははっ」
思わず笑ってしまったけれど、心の中ではそんなことは無いと思っていた。なぜなら、自分は次男という理由だけで、名前が二郎なのだ。単純どころの話ではない。おまけに弟は三郎ではなく「豪」だったので僕の立場もない。
「でも、この名前は気にいっとんよ。『まなつ』って呼んでな」
僕はそのとき、心の中で(まなつ)と呼んでみた自分に少し照れていた。そして、彼女と話すときは中途半端に秋田弁が少し消えている自分が少し気恥ずかしくもあった。
転校してきたばかりの彼女と話をしながらグランドに着くと、皆でドッチボールをすることになった。
昼休みのドッチボールは、男女交えてやるのだが、五年生にもなると、体格や運動神経に男女差が出てきていて、休み時間にやるときは運動が苦手な女子は周りで応援することが多くなっていた。
だから、一緒にやるのは、運動が得意な数人になっていた。そんな中、喘息だと言っていた真夏が、ドッジボールをして大丈夫なのか心配したが、真夏は、トンでもない運動神経の持ち主だった。
投げるボールで片っ端から男子を撃破。それまでエースだった和也のボールも軽々キャッチ。動きも速い。
さっきまであんなに茶化していた和也の意気消沈振りはかなり笑えた。今度のクラス対抗ドッチボール大会ではうちのエースとなるに違いなかった。
彼女が初日の授業を終えて帰るとき、声をかけてきた。
「わたなべの家はどっちの方なん?わしは吉住町ってとこなんじゃけど」
「わし?・・・」
「あっ・・」
真夏は、舌を出して苦笑いを浮かべていた。僕も、茶化しながら笑った。僕は、隣町だから帰る方向は同じだ。
ところで、初日から呼び捨てか?普通は「わたなべくん」だろ?と思ったが、とりあえず許すことにした。
「方向が同じなら一緒に帰ってくれん?」
いつも一緒に帰る和也が、そんな彼女からの誘いの言葉に、少し離れたところで聞き耳を立てていた。
「じゃ、和也も一緒に帰るべ。なっ、和也?」
僕は和也を裏切るわけにはいかなかったが、真夏とも帰りたかったので、和也も誘うことにした。僕の誘いに応え、うれしそうに和也も話しに入ってきた。
「おらも吉住町の方なんだ。奇遇だな奇遇!」
お調子者の和也が“奇遇”なんて言葉を使うのもおかしかったが、なぜかそれも許せた。下駄箱のところで上履きから外履きに履き替えると、校門の近くに見慣れない女の子が立っていて、誰かを待っている様子だった。
「あっ、アネキじゃ」
一年上で真夏と一緒に転校してきたという彼女の姉が、そこにいた。そこで、真夏のことを心配で待っていたらしい。
結局、真夏の姉と僕らで帰ることになり、帰り道は妙な雰囲気となった。真夏の姉は、真夏とは逆におとなしそうに見えた。別れ際、彼女は僕らに、
「真夏のこと、よろしゅう頼むけぇ」
と告げた。真夏の姉も当然のことながら広島弁だった。僕らは、言われなくてもよろしくしますよ、そう言いたかったが、和也と僕は年上の言葉に、素直に敬礼して答えた。
「分かりましたっ」