#25 バラード
松山由美のライブ当日、その日の午後にあったクライアントとの打ち合わせが長引いた。ライブの開場は午後6:00からで、開演は7:00からだった。
僕は、仕事が早く片付けば、早めに会場を訪れて、真夏を探すつもりだったが、結局仕事を終えて、会場に着いたのは、開演10分前になっていた。
ライブハウスといっても、広いカフェバーに小さなステージがついており、ドリンクや、簡単なフードを頼んで、テーブルに着席して聴くスタイルだった。
会場に入ると、ボーイが案内してくれた。
「お客様、すでに一階フロアは、すべて満席になっておりまして、二階のカウンター席しか空いておりませんが、よろしいでしょうか」
僕は、「いいよ」と答え、ボーイの後を歩いた。階段を上り、カウンター席に着き、ハイネケンを頼んだ。
すでに会場の照明は落とされていて、そのカウンター席から、一階のフロア席に座る人たちの顔を判別することなどできなかったが、会場には、思ったよりも女性客が多いことは判った。
この中に、真夏がいるのだろうか。
僕が席につき、ハイネケンが届けられたとき、それまでかかっていたジャズのボリュームが下げられた。
ステージに当たっていた照明が一旦消され、パーカッション、ピアノ、ギターのポジションにメンバーが着席したのがわかった。
そして、舞台の袖に一人の女性が現れ、スポットライトが当たった。
松山由美だ。
1曲目は、松山由美の代表曲であるアップテンポのヒット曲、2曲目も、テレビアニメのテーマソングにもなった、ロック調の曲が演奏された。
そして、長いMCの後、しっとりとしたピアノのイントロが流れた。
僕の一番好きな、そして“嫌いな”バラードの演奏が始まった。
その曲は、突然去っていった恋人に、私が今まで話した夢の続きを聞いて欲しい、と切なく語りかける、そんな歌だった。松山由美の伸びやかで、透き通る歌声に、その歌詞はすばらしくマッチし、ピアノの旋律と協調して、僕の胸に突き刺さった。
僕は、その曲が中盤に差し掛かったとき、席を立った。静かに階段を下りて、フロントの横にある喫煙スペースに入り、ラークマイルドに火を着けた。
その喫煙スペースからは、ガラス張りの一階フロアが、一望出来た。僕は、客席に目をやり、真夏を無意識に探していたが、そんな薄闇の中で、26年も会っていない女性を探すなんて、とても無理だと感じた。
僕は、結局、それから自分の席に戻る気になれず、二度のアンコールを終えるまで、微かに響く松山由美の歌声を聞きながら、喫煙スペースにいた。
ステージが、終わり、観客が、喫煙スペース横の出口になだれ込んできた。僕は、通り過ぎる女性客に目を凝らした。時間をおいて出て行った最後の客をやり過ごし、僕は、席に戻った。
結局、一時間位、喫煙スペースでひたすらタバコを吸っていたせいか、軽い胸焼けがした。
「お客様、もうお時間ですが・・・」
「あぁ、もう帰るから。悪いね」
僕は、会計を済ませて、六本木交差点でタクシーを拾い、赤坂の行き付けのバーに向かった。
華やかな、六本木の賑わい。
一部の通りには、既にイルミネーションが輝いていた。僕は、あの三曲目の歌が、あまり好きではない。僕は、彼女の夢の続きを聞いてやれなかった。いや、聞くことを放棄したのだ。それでも、やっぱり、真夏に会いたかった。
僕は、自分の複雑な胸の内に困惑しながら、行き付けのバーのカウンターに腰をおろした。