#9 口笛
真夏は、お別れの挨拶を終えた後、お別れ会を開こうというクラスメートに、丁寧に断りを入れ、先生に挨拶をして帰るからと、教室にポツンと残っていた。
「和也‥」
「一緒に帰るべ」
結局、教室には、僕と和也と真夏だけになっていた。
「一緒に帰ろ」
今度は、真夏がそう僕に告げた。
「あぁ」
僕らは無言で下駄箱を出て、校門に向かった。校門には、真夏の姉が、転校してきた日と同じように待っていた。
「真夏、ちゃんと挨拶出来た?」
「出来たよ」
少し怒ったように真夏が応えた。
「わたなべ君に和也君だよね。一年間有り難う。真夏、凄く楽しそうだったよ」
「いえ…」
保護者のような姉の言葉を、少なくとも僕は素直に受け止めることができずに、戸惑いながらそう答えるのが精一杯だった。
「何も言ってながったでねぇが」
少し一緒に歩いた後、僕はつい不満を漏らした。
勿論、真夏が悪いはずも無いことなど百も承知だったのに。
「ごめん」
僕は、責めるような口調になってしまったことを直ぐに後悔した。
「いや・・・、あんまり急だったがら・・・。で、いつ男鹿を発つんだ?」
「明後日の十二時時十五分の汽車だよ」
「あ、明後日かよ‥」
僕は思考が麻痺しかけていた。広島にいるお父さんが、東京に転勤になり、喘息の発作も殆ど出なくなったので、その引越しに合わせて、真夏の家族も東京に引っ越すのだと言う。
そうこうしているうちに、もうすぐ真夏と分かれるタバコ屋の曲がり角が近づいていた。 その時だった。
「わたなべ君と真夏は両想いなんでしょ」
真夏の姉がそう少しからかうように言った。
和也は、少し驚いた様子だったが、僕と真夏は無言で応えることができずにいた。
(両想いだからなんなんだ?明後日、離れ離れになるというのに‥)
「文通でもしたらどう?」
姉からの急な提案だった。
(文通?文通すればまた明日から一緒に遊べるのか?文通すればまた、一緒に海に行けるのか?)
完全に麻痺状態の僕の頭は、文通なんて酷く意味のないものだと決めつけていた。
黙り込んでいた僕をよそに、
「バイバイ‥」
真夏と和也がそう言葉を交わした。
真夏は僕に何か言いたげだったが、僕は力無く手を振ると、真夏に背を向けてしまった。
「おめ、どうする?お別れのプレゼント、‥両想いだったんだべ?」
(別れのプレゼント?それを渡せば、また一緒に遊べるのが?)
まだ、僕の思考は麻痺したままだった。
しかし、僕らに残された時間が余りに少ないことにも気が付き始めていた。
(明後日の十二時‥)
僕らのタイムリミットだ。
その夜、僕は自分の机の前で考えていた。僕は新聞配達をしていたので、毎月の収入は五千円程度あったが、小遣いの千円を残し、全額母に渡し預金してもらっていた。
しかし、その千円はもう使い切っていたので、プレゼントをあらためて買うお金はなかった僕は、机の引き出しを開け、プレゼントになるようなものを必死に探した。
良く見ると、小さい透明なプラスチックの箱に、真夏から貰ったキーホールダーがあった。赤と青の小さなデフォルメされたなまはげの人形が2体付いているものだ。昨年の秋に、4月生まれの僕に誕生日のプレゼントを何も渡して無かった、と言って、くれたものだった。
僕は、父からペンチを借り、作業を始めた。丁寧に赤のなまはげを外し、その昔、親戚のお兄さんから貰った、小さな東京タワーのキーホルダの先を外して、そこにさっき外したなまはげを付けた。
お揃いのキーホルダだ。僕は、二つのキーホルダを並べて改めて想い出していた。真夏が初めて教室に入って来た時のこと。一緒に海に行ったこと。隣のクラスの琢己達と喧嘩したときに助けられたこと。そして遭難しかけた時、それこそ命を救ってもらったこと。
・・・そして、僕を好きだと打ち明けてくれたときのこと。
僕は、いつも、真夏からもらうばかりだった。僕は今まで、真夏に何をしてあげられたのだろうか。僕は、改めて酷く落ち込んでいた。このキーホルダを渡すことに何の意味があると言うのか。
実感がないまま時間が過ぎ、あっと言う間に、別れの日が訪れていた。
「わたなべー、もういぐべ?間にあわねーど!」
玄関先で和也の声がしていた。時計はもう十二時を回りかけていた。汽車が出るのは十五分だ。実は、まだ僕は、その日に真夏の見送りに行くことを、母に告げていなかった。
「あら、どこかいぐの?」
「あぁ、ちょっと・・・」
所在げなく応えていた僕の返事を、和也が聞いていたようで、
(どうすんだよぅ)
と呟く声が聞こえていた。
僕は、ウジウジと、2日間見送る事の意味を考えていた。お別れのケジメを付けるため?最後に別れを惜しみ、良い印象で覚えていて貰うため?
「おら、先に行ってるがらな、すぐ来いよ」
和也が怒ったように叫び、自転車のスタンドを蹴りあげる音が、通りに響いた。
お互いが遠く離れ、もう二度と会えないかもしれない。最後に笑顔で見送ってあげなければ‥。心の一部でそう思っていることだけは確かだったが、僕自信がそれを受け入れることに抵抗を感じていたのだ。
時計に目をやると、もう十二時十分を回っていた。あと五分で真夏は‥
僕は自転車に飛び乗っていた。駅に真っ直ぐ向かう交差点に差し掛かると、普段は閑散とした男鹿駅に、人だかりが見えた。
僕は駅に向かわず、ハンドルを左に切り、学校の方角へペダルをこいだ。坂を登り、学校の手前の丘の頂点で自転車を放り出し、汽車が見える位置に走った。
その丘は、日本海が見渡せる、眺めの良い場所で、学校の授業で真夏達と一緒に写生をした場所だ。そして、眼下には男鹿線が横切っている。
真夏が乗った汽車は、始発の男鹿駅を出た後、一分もすれば、ここを通るはずだ。
短い警笛が二回程、遠くで鳴るのが聞こえた。出発の合図だろう。そして、ディーゼルエンジン独特の、カラカラとした音が、リズムを早めながら近づくのが分かった。
僕は今まで経験したことが無い、喜びでもなく、恐怖感でもない、ドキドキを感じていた。
今思えば、それが生まれて初めての「失恋」というものだったのかもしれない。
やがて、線路沿いに建つ民家の陰から、クリーム色と赤に塗り分けられた、わずか二両の車両が顔を現した。ガラガラの先頭車両の中腹のボックス席に、四人の家族連れが座っているのが見えた。
スポーツタイプの鍔のついた帽子を深ぶかとかぶり、一人車窓から外を眺めている真夏がいた。
僕は、真夏が教えてくれた大きな音がする口笛を吹いた。
「ひゅーぅ、ひゅっ」
僕は、真夏から大きな音のするその口笛を教えてもらった後、誰もいないところで必死に練習して吹けるようになっていた。
ただ、改めてそれを吹いて見せるのも気恥ずかしくて、それまで真夏には見せずじまいできていた。
丘の上からその音は見事に響き、真夏がその音に気づいて、慌てて顔を上げるのが分かった。
彼女は、窓を大きく開けて、帽子をとり、大きく振ってくれていた。
「まなつー」
僕は進行方向に走りながら、最後に大きく叫んだ。真夏も何か叫んだようだったが、僕には聞き取れなかった。
ゆっくりと、ディーゼル音が遠ざかり、僕の頭にはいつまでもの口笛の音がこだましていた。
見送る事にどんな意味があったのかは判らない。でも確実に言えたのは、真夏と共に過ごした僅か一年足らずの月日が終わってしまったと言うことだった。
そして、僕のポケットには、渡せなかったペアの、キーホルダが、残されていた。